【毬子視点】周りは見てないようで見ている
事務から工場へ、上里さんの異動が決定した。
表向きは業績の低迷により、事務員に割り振られる仕事量が少なくなったため。
一向に人が来ないこともあり、若い人材である上里さんを現場でも通用するよう経験を積ませるといった狙いもある。
現場作業員から出世していった人だっていくらでもいるわけだし。
でも、理由はそれだけではない。
小さく息を吐いて、わたしは事務所に続くドアノブに手をかけた。
「お疲れ様です」
こうして、一対一で話すのは何ヶ月ぶりかしらね。
事務所には狭山さんだけが一人、黙々と作業に没頭していた。
かつて上里さんが使用していた隣の机は、さっぱりと痕跡が消え失せている。
さらにもう少し前は、わたしの席でもあったけど。
「……お疲れ様です」
狭山さんはちらりとこちらを一瞥すると、何かご用ですかと事務的に話しかけてきた。
「説明に伺いました。昨日から導入された、タブレット端末のマニュアルがこちらです」
「ああ、在庫管理がこれで出来るんだっけ」
「はい。基幹システムサーバとインターストックの連携が完了して、ようやく本稼働に入りました」
ペーパーレス化なんて、もう何十年も前から推奨されているのだけどね。
うちみたいな年齢層が偏っている会社はITにうとい人が多いし、導入コストもかかるからってなかなか紙媒体から進まなかったのよ。
導入に至った経緯は……複雑だろうけど上里さんにも関係している。
「在庫ごとにICタグを付けようとの社内教育を徹底いたしましたので、過去分も含めデジタルでの一括管理が可能です。いちいち生産数を記録用紙に書き込んだり、その数字から出荷分の個数を引いてメモ、といった手間も無くすことができます」
気がつくと記録用紙のストックが切れてて、コピーしようとしても原紙まで現場に持ってかれちゃったときはね……
PCのぜんぜん整理されてない膨大なファイルの中から、原紙のデータを見つけないといけないし。いろいろ手間だったな。
「ふうん、ありがとう。相変わらず手順が細かく丁寧で分かりやすいね」
「光栄です」
上里さんの働きによって業務内容がマニュアル化されたとはいえ。
以前の一人事務に戻ったわけだから、ある程度の作業効率化は必要だ。
そのため、これさえ読めばサルでもわかるってくらい説明書のリーダビリティは徹底した。
これでいつ、狭山さんが休んでも大丈夫。誰にでも代わりは務まるはずよ。
本庄さんは本当に優秀だね、とつぶやくようにお褒めの言葉を狭山さんは述べると。
「それに比べて」
遠くを見つめて、意味深に狭山さんが言葉を切った。
「……何か抱えているものがございましたら、ここで遠慮なく吐き出していきませんか? 溜め込むのは毒ですよ」
なだらかな水面に小石が投げ込まれたように、心がざわつくのを感じた。
感情の波紋を抑えて、わたしは理解ある相談役の顔になる。
それで気を許したのか、狭山さんは徐々に饒舌になっていった。
「良かったね、あの人。みんながかばってくれて」
そりゃ顔採用なわけだから、ある意味本来の仕事ではあるけどさ。
きれいな子を入れて、男性陣のモチベ上げようって役割は果たしているわけだしね。
てかあの子、言われた事はやるけど言われない事はやらないだけなんだよね。
してほしいことがあればこちらから言うから、余計な仕事を増やさないでほしい。
うんうんとうなずいて、狭山さんの愚痴らしきものを聞き流していく。
「お話しいただきありがとうございます。とても鬱憤が溜まっているようですね」
「そうそう。第一ここは学校じゃないんだし、仕事は自分で探して見つけてくるものでしょ。世の中は自分のために回っているわけじゃないんだから」
「仰るとおりです。でも、それほどまでにおつらいのでしたら。一番は上里さん本人に直接注意することだと思うのですが」
受け皿をやめて意見したことにより、狭山さんの目が丸くなる。
わたしはあなたの掃き溜めではないので。
「花崎さんも心配されておりましたよ。泣くほど追い詰められていたなんてって。我慢ならないことははっきり伝えるのも教育です。”言われた事はやる”方のようですし」
花崎さんの名前を出したことにより、さっきまで威勢がよかった調子が一気にしぼんでいく。
ちなみに『泣くほど嫌ならはっきり言え』とは花崎さん側からの意見だ。
それをわたしに愚痴るだけで言わない花崎さんもどうかと思うけど。
「直接指摘したら泣いて話にならないか、逆ギレするかのどっちかでしょ」
「つい先日、社長からこってり絞られていたことはご存知ですよね。確かに落ち込んでいたようでしたけど、その後、あなたや周りに上里さんは当たり散らしましたでしょうか? わたしよりも、直属の上司だった狭山さんのほうがよく知っていると思われますが」
つい熱が乗ってまくし立ててしまった。
いきなり饒舌になったわたしに、狭山さんは若干引いているように見えた。
「で、でも。ほかでもない社長がびしっと言ってくれたわけだし。社長相手だったら何も言えないもんね。それで書面でのミスは出さなくなったんだから結果オーライだよ」
「ええ。ですから社長にクビをちらつかせてもらえるよう、横流ししていたのですよね」
今度こそ、狭山さんの表情が完全に凍りついた。
夏日を思わせる蒸し暑い春爛漫だというのに。
事務所内には一気に、木枯らしが吹き付けたような冷気に満ちていく。
「これは社長自ら疑問を抱いております。”狭山さんとの面談で、事前に上里さんに対しての素行を聞いていた。ミスが目立つことに加えて、自分が出来ないから私に全部押し付けて、面倒でない仕事ばかり探している、と。それで一気に印象が悪化したこともあり、面談では厳しい言葉を浴びせてしまった。だが、実際に会って監視対象に置いてみたところ、素直に吸収する子であった”と」
しつこいな、とでも言いたげに狭山さんが険しい顔付きになっていく。
彼女の中でわたしはもう、敵に認定されているのだろう。
なお、横流しというのはわたしの憶測ではない。
なにせ上里さんどころか、部長や工場長の根拠のない悪口を聞かされたと。花崎さんを筆頭に複数証言をいただいているのだから。
社内用の携帯電話を持ち歩いているのをいいことに、給湯室でたまに長電話していること、わたしは知ってるわよ。
「だから社長だったからこそ矯正されたわけであって、」
「悪いところを悪いと言うのでしたら何ら問題はございませんが。あえて悪印象を与えるように表現を誇張したことが問題なのですよ? 一度でも、あなたが振った仕事を上里さんが拒否したという証拠はございますか? 査定に響きますよ?」
工場長は普段現場にいるため、他の社員の動向はチェックできても事務員まではなかなか付きっきりで観察する時間が取れない。
だから、上里さんの評価は直属の上司である狭山さんに一任されていた。
そこを利用して、雇い止めか自主退職をうながす道を狙っていたのだろう。
「さっきからあなた、何が言いたいわけ」
「ただの忠告です。こういうことはやめましょうという」
鼻歌でも歌えそうなくらい軽い調子で。笑顔を努めて、淡々とわたしは答える。
嘘だ。腹のなかは、もっとどす黒く煮えたぎっている。
自分の立ち位置を守るために新人に仕事を回さず、それを能力と信頼不足だからと責任転嫁させて。
自分の手を汚さず気に食わない人を貶める。
会社の未来を何一つ考えてない自己中ぶりに、心の底から頭に来ている。
これで改めてくれるとは毛ほども思わないけど、だからこその完全マニュアル・ペーパーレス化だ。あとは引くのが賢明だろう。
「彼女は今、わたしの部下です。今後一切、手出しはなさらないでくださいね」
それだけを言い切って、わたしは踵を返す。
背後からは『そうやって甘やかしてたらつけ上がられるよ』と捨て台詞が聞こえてきた。
「できる上司というのは、自分ひとりでなんでもやれる人のことではありません。できる上で、まわりを信じてうまく任せられる人です。部下の育成は、そのまま上司の成長となります。一人じゃ会社経営は成り立ちませんから」
いつも社長が唱えている社訓を引用して、わたしは事務所を後にした。
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