ひとりじゃないよ
自慢ってほどじゃないけど、ここ5年は熱を出したことなんてなかったんだけどな。
身体の内側からぞわぞわ湧き上がってくる、風邪特有の寒気に身を縮こまらせる。
眉間にじくじくとうずく頭痛も、かんでもかんでも流れてくる鼻水の不快な感覚も、久々に食らってしまった。
さいわい、喉にも胃にも腹にも今のところ違和感はない。
でも、この寒い時期だから仮にインフルエンザだったとしたら。そうなると今日は、這ってでも病院で検査を受けなければいけない。
会社に欠勤の連絡を入れて、それから本庄さんにもLINEを入れる。
『体調は大丈夫ですか?』……お前が言うなって突っ込まれそうな文面だな。
だって、ね。一緒の空間でお茶しただけならまだしも、密着してたからね。いろいろ。
風邪の兆候をいっさい感じなかったぶん、余計に申し訳無さが募る。デートもちょっと、延期だろうな。
ちなみに本庄さんからは『お心遣いありがとうございます。現時点ではいっさい変化はございませんので、ご安心ください。一日も早いご回復をお祈り申し上げます』と丁寧な文面で返ってきた。
ファイト、と書き文字を横に添えたキメ顔ひよこのスタンプがなかなかかわいい。
……やば。心身ともに弱ってるからか、ちょっとした労りのメールでじわっと来そうになった。
病院での診断結果は陰性。なんだけど病院に着いてからますます寒気はひどくなってて、本当に陰性? と勘ぐってしまう。
久々に罹ったからだろうけど、風邪ってこんなにしんどいものだったっけ。
あと、インフルの検査って痛いんだよね。鼻の奥に突っ込むから。
何人か前、子供の患者が呼ばれたときにはずーっと断末魔の叫びが流れていた。ぴぎゃああああって。予防接種でも見かけた光景だ。
さびぃ。
冷凍庫に放り込まれているような悪寒にガクブルしながら、家に帰ってからはずっと布団に潜っていた。
寝ないといけないのに、数分に1回の感覚でベッド横のティッシュケースに手を伸ばして私は鼻をかんでいる。
睡魔に沈む前に垂れてくんだもん。だんだん鼻の頭がひりひりしてきた。鼻セ○ブ、買っておくべきだったよ。
独りの寂しさは、こういうときにいっそう強く実感する。どんなに具合が悪かろうと、自分で全部やんなきゃいけないから。
そのせいだろう。こんな夢を見てしまった。
天井が高い。
ぼんやり光る照明器具が、だんだん遠ざかっていく。
これ、不思議の国のアリス症候群って言うんだっけか。幼少期の発熱時に見られる現象かなんかで。
「…………」
ふと左肩に、何かがのしかかっている重みを覚えた。
柔らかい。ぐるぐると喉を鳴らす低い音が聞こえる。今はふかふかの毛並みがひんやりと感じる。私の体温のほうが高いからだろうね。
みーちゃん。
忘れもしない、いつもこうして首元に引っつくようにして添い寝してくれた、飼い猫の感触だ。まだふっくらとしてて、毛並みがつややかだった頃の。
背中を撫でてあげたいのに、腕が動かない。布団の中で、石みたいに固まっている。
すぐ側にいるのに、触れないのがもどかしい。記憶の中にしかいないからだろう。
首だけは動くので、飼い猫が乗っている肩とは反対方向に視線を向ける。
そこには少し背中を丸めた、中年の女性が座布団に座っていた。
母の背中だ。
しょりしょりと、何かをすり下ろしている音が聞こえる。たぶんリンゴだろうな。
こうして風邪を引いたときにはいつも、リンゴをすり下ろして雑炊といっしょにおぼんに乗せて持ってきてくれたから。
時間が経って食べ始めるから、白かった果肉もすっかり茶色くなっちゃったけど。
ってことは、これはかなり小さいときの記憶か。だから天井があんなに遠くに見えるんだ。
小学校高学年で離婚した影響で働かざるを得なくなって、それからは風邪を引いても一人で我慢していたけど。寂しいとは思わなかった。
生活がかかっているし、こうして隣に猫がいるし、きょうだいもいたから。
場面が変わって、気がつくと私は車の助手席にうとうとと揺られていた。肩にシートベルトが食い込んで、ちょっと痛い。
これは父の車か。サイドミラーには、同じく窓枠にもたれて目をつぶるきょうだいの寝顔が見えた。あどけない表情からして、離婚してまもない頃だろう。
面接交渉権という関係で、私たちは月に一度、こうして父親と顔を合わせていた。
なんで家族を置いて出ていったのか。いろいろ理由があったらしいけど、詳しいことは最後まで2人とも教えてくれなかった。
ただ父親は離婚しても父親の顔のままで、いつも美味しいご飯を食べさせてくれておこづかいもくれた。なので私たちが父親を恨む期間は短かった。
母からすれば、いい顔をしていれば子どもたちから慕われるんだからいいご身分だなと複雑だったろうな。
次はいつ会うか、短い約束をしていつも父親はポチ袋に包まれたおこづかいをくれる。
また来月会おうなと手を振って、ここではないどこかへ車を走らせていく。
どこにいくの、父さん。父さんの帰るおうちはずっと私たちのおうちだったのに。
きょうだいと遠ざかる見知った車を見送って、2人で母の待つ家へと帰る。
歩く途中。つないでいた手からきょうだいの指がほどけていった。辺りを見渡すと、景色はざわめく駅のホームに移り変わっていた。
たくさんの雑踏に、私の身体はあっという間に埋もれていく。きょうだいはとっくに成人してスーツに着替えて、社会に属する黒い群れの一人になっていた。
はるか向こう。きょうだいはスマホに目を落として、電車を待つ人の列に混じっていた。日々の仕事で疲れた身体を引きずって、満員電車に揺られていく。
そうして後には、私一人が取り残される。
ドアを開ければいつも母親のおかえりという声が聞こえて、すぐ横の階段には飼い猫が香箱ポーズで迎えてくれて、二階にあがればきょうだいがだべっていて、やがて父の車のエンジン音が届いてきたのに。
今はもう、誰もいないんだ。
目を開けると、薄暗い天井が見えた。陽はすっかり沈んで、午後6時をまわっている。
頬に伝った水の跡がむずむずする。私は熱にうなされていたらしかった。
さびしいな、と。一人つぶやく。
今日は特にそう感じる。
この家は、思い出にあふれすぎているから。
寝てる間に、微熱程度に体温は下がっていた。とりあえずトイレ行こう。
だるい身体を起こして横のスマホを確認すると、新着メッセージがLINEに届いている。本庄さんからだった。
『お休みのところ失礼いたします お見舞いの代わりに何か手助けになればと思い、誠に勝手ではございますが飲食物の差し入れに伺いました どうかお役立ちいただければ幸いです』
え、てことは帰り際に寄ったってこと? このメッセージも、つい数分前に来たものだし。
玄関から外に出る。北風が汗で冷えた寝間着越しの肌を撫でて、思わず肩を抱いた。
そしてドアノブには、ビニール袋が重そうに引っかかっていた。
中身は冷えピタ、スポドリ、アイス、栄養ゼリーといった、お見舞いの品がぎっしりと。
折りたたまれたメッセージカードには『今週はゆっくりお休みください また来週しましょうね』と丁寧な筆致で書かれている。
視界が一気にぼやけていくのを感じた。
私は慌ててビニール袋を取ってドアを閉めると、そのまま玄関で袋を抱えて、もたれるようにしゃがみこんだ。
今日は涙腺が緩みまくっている。思えば私は、叱られているときは涙が引っ込むけどその後心配されると途端に決壊する人間だった。
本庄さんの声が聞きたい。話したい。
なのに嗚咽しか出ない今じゃ、文字通り話にもならない。
ぐしぐしと袖口で目元をぬぐって、息を何度か吐いて、私はLINEにお礼の言葉を返信する。
今はとことん泣いて、寂しさを涙で洗い流そう。
明日からは笑って、会社で話せますように。
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