熱に浮かされて

 巨万の富も名声もいらない。ただ、普通に息をして生きていたい。


 あれから何分経過しただろう。

 愚痴って感情が制御できなくなって発作を起こしかけた私は、何もかもがおさまるまで本庄さんの腕の中にいた。


 本庄さんから漂う甘い香水の匂いに包まれて、頭がくらくらとする。花束に埋もれているみたいだ。

 喉から変な声が漏れそうになって、唇を噛み締めた。


 唇にはかすかに、コーヒーのほろ甘さが残っていた。私が淹れたやつよりも甘い。本庄さんのカップの隣に転がる、無数のガムシロップのせいだろう。


「……治まった?」

 頭上から穏やかな声がかけられて、つむじ付近がぞわぞわとする。


 はい、とつぶやいて身体を引こうとするも、背中に回された腕からは力が緩まない。

 がっちり捕らえられて、与えた”逃げる場所”から離さない意思を感じる。


「もう大丈夫で、」

「だめ。まだ落ち着いてない」


 言い終わる前に打ち消された。

 別の意味で落ち着かない。接吻を何度も受けて、こんないい匂いのする美人とめっちゃ密着してるシチュなんて。同じ状況になったら誰もが思うはずだ。


「今日がその日じゃなくても、わたしにとってはデートだから」

 その言葉で理解する。

 そうだよな。平日だから私はお金は受け取らなかったけど、本庄さんにとってはそういうことをしたい相手の部屋に上がっているわけだし。


「……じゃあ。もう少し逃げています」

「うん」


 台詞だけ拾ったらイミフな会話を交わして、なんかこのままお話することになった。



「……ようは。やりたいことを未だに見つけられていないのが問題だったんだと思います」


 将来の夢。

 多くの子供達はでっかい夢を持って育って、年齢とともに夢を追いかけるか夢よりも現実を見るかの二択に絞られる。


 私はそれが昔からなかった。

 無いだけならまだしも、将来のビジョンすら描いていなかった。


 描いていたらそもそも、親戚の勧誘にふらふらと乗って高校卒業と同時に生保の営業なんか就くわけがない。

 就活しないで就職先が見つかったラッキー、なんて。


 持たざるものには大卒カードと新卒カードがいかに大切か、義務教育を終えた身でありながら何にもわかっていなかった。


 そもそもあれ、ハロワの入り口とかでよくたむろしてる輩の常套手段だから。

 就職先紹介じゃなくて、自分らの成績のために勧誘してるだけだからな。


 入った以上はと思って3年やったけど。数字に追われる日々はしんどかったってレベルじゃなかった。

 持病といういらんおまけがついてきたくらいで。


 自社製品のいいとこをアピールして売らなきゃいけないのに、客を騙して契約金をむしり取る行為としか思えなくて。


 当然成績は最低ラインだ。歩合制だから給料も不安定。

 テレアポやエリア訪問なんて言葉は、字面だけで未だに動悸がする。


 良心の呵責に耐えかねて辞めたあとは就活そのものが恐くなって、ずっと接客のバイトを転々としていた。


 貴重な10代後半から20代前半の労働時間を、真面目に定職に就くことなく無駄に使ってしまったのだ。


「……老いても捨てられないためにはどんな仕事に就けばいいか。頭の中ではわかっていても、ブレーキをかけてしまうんです。新しいことを始めるのが恐いって。それが自分に務まるわけないだろうって。そう躊躇している間にも、どんどん正社員への道は狭まっていくのに」


「でも、上里は今の会社で社員を目指すって決めたんでしょう。潰しが効くように、資格の勉強もしている。ようやく目が覚めて、周りからは遅れていても歩きだした。それで十分じゃない」

「……ええ」


 ただ、あの会社が私の定年まで残っている可能性は……限りなく低いだろうな。


 せっかく採用していただいた会社にしがみつくなら、有益な人材と認められるように努力をしないといけないのは当たり前だけど。


 中途半端な年齢で倒産したことを仮に想定すると、他で通じる能力も育てないといけない。

 転職すれば収入が減ってしまう人がほとんどなのだから。


「大きい夢なんて必ずしも持たなくていいのよ。少なくともわたしは、働いている人みんながまぶしく見える。自分の力で生きているのだから」

「そう……ですよね」


 だから就活中、会社行きたくねーなんて書き込み見ると仕事あるだけいいだろってもやってたなあ。


 今の仕事を頑張る。資格の勉強も頑張る。どうすべきかは自分の中で結論が出たので、なんとなく聞いてみることにする。


 そういや私、本庄さんについては知らないことばかりだな。


「……本庄さんはどうですか? やりたいこと、ありましたか?」

「ええ」

 少し寂しそうに遠くを見つめて、本庄さんは答えてくれた。


「高校あたりで醒めたけどね。だけどその道では活躍している子もいて、名前を聞くたびに羨ましいって思うことはあるわ。どのみちわたしには才能がなかったのだけど」


 どんな夢だったんだろう。

 詳しくは教えてくれなかったけど、本庄さんはちゃんとやりたいことがあったんだ。


「でも、それが一番堅実だと思います。きちんと大学を出て、ちゃんと定職に就いていて、ブルーカラーでやっていけている実力を身に着けているのですから」

「それは消去法で選んだに過ぎないわ」

「えっ」


 学歴なんて大したもんじゃないわよ、と本庄さんは語り始めた。


「ごめんなさい。あなたには新卒って聞かれてとっさに答えたけど、わたしは既卒だったの」

「そう……だったんですね」


「不景気とはいえ就職率は悪くなかったのに、わたしは逃げてしまった。すでに決まっていたところに、夏あたりに内定取り消しにあって。業績不振による人員削減って理由で。ぽっきり心が折れてしまった」


 さらに言えば、就活に難航していた友人が不採用通知の山に耐えかねて自殺してしまった要因もあったらしい。


 きっと次は決まるよと就活終わった余裕からのなぐさめが、どれほど追い詰めていたかも知らずに。

 珍しくないよな、そういう話。



「だから、今の会社には感謝している。もちろん会社に選ぶ権利はあるけど、労働意欲があれば未経験でも雇ってくれるから」

 

 選ばなければある、ってそういうことなんだろう。

 本庄さんができる人なのに間違いはないけど、会社に来た背景も知らず勝手に劣等感を抱いていたことに、自分の視野の狭さが恥ずかしくなった。


「上里も、あまり追い詰めないで。逃げたいときは逃げてもいいの。そのためにわたしがいるんだから」


 胸元に私の頭を埋め込むように、本庄さんは回した腕に力を込めた。

 失ってしまった友人に想いを馳せているのかも知れない。


 正直本庄さんに関しては、まだわからないことのほうが多い。


 だけど。逃げたくなったときにとまり木として受け止めてくれる温かさは、嘘じゃないと。直感でそう思った。



 平日ということもあり、さすがに泊まることはしないと本庄さんは言った。

 また明日と玄関で見送って、コーヒーのカップを片付ける。


 頬が熱い。香水の匂いも、まだ残っている。

 ずっと抱きついていたからかな。本庄さんの体温がくすぶっていて、身体は火照ったままだ。



 その熱は風呂から上がっても冷める気配がなく、布団に潜っても抜けなくて、ついには翌朝になっても体温は高いままであった。


「(つか、これって……)」


 火照りが引いたと思ったら猛烈な寒気で起こされた。

 身体をくの字に曲げて、布団の中で脇の下の通知を待つ。そうして体温計が示した数字は、38度。


 つまり、風邪を引いただけだった。

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