わたしに逃げてよ

 ……私は何をやってるんだ。

 土日祝以外、それも夜に呼び出すなんて完全なルール違反。あれは電話相手かメル友の範囲を指していたんであって、利用の意味をそのまま受け取るとか。


 距離感が分からず、ぐいぐい詰めてくる痛いオタクみたいじゃんこれじゃ。

 付き合ってくれてる本庄さんの身にもなれってんだ。


 そうして出発を知らせるLINEから15分を少し過ぎた頃に、バイクの音が耳に届いた。

 宅配か本庄さんのバイクか、ひと月も過ぎれば音で聞き分けられるようになってきた。



「こんばんは」

 高そうなトレンチコートを脇で抱えた本庄さんは、親しい友人にするようにひらひらと手のひらを振った。

 仕事帰りの疲れなんて微塵も漂わせていない、できる女の顔で。


「あ、今日はいいですよ」

 いつものように長財布を取り出そうとした本庄さんへ、手を突き出しさえぎる。

 何を言っているのかわからないと言いたげに、本庄さんが小首をかしげた。


「利用、ってそういう意味じゃないの?」

「えっと、平日ですし。寂しいから”友達”を呼んだって感覚なので」


 本庄さんが言うところの”時間外労働”だ。仕事以外の日に呼び出しておいてお金までもらうなんて、図々しいにもほどがある。


「お友達から始めましょう、ってことでしたので」

「そうねえ、そんなことも言ったわね」


 用もなく呼んでだべってまた好きな時に連絡する。友達同士であれば、なんら珍しくはないこと。


 ……でも、本庄さんは。私と単なる友達関係にはなりたくないだろうな。


 お金は出さなくていいとは言ったけど、部屋にあげるわけだし……

 悩んでいる私へと、本庄さんは気遣うように肩に手を置いた。


「発作はもう大丈夫?」

 電話口で悟られていたらしい。とはいっても本庄さんに電話できるくらいには落ち着き始めていたし、あれからそれなりに時間も経っている。


「はい。というかぜーぜーの中電話なんて掛けられませんよ。本庄さんを救急隊員にこき使ってるみたいで」

「仮に、苦しい中呼びつけてもわたしは駆けつけるわよ?」


 それは、どういうつもりでなのだろう。

 歓迎会時の人工呼吸を思い浮かべて、とっさに顔が熱くなる。

 いや何を期待してるんだよ。真面目な話へと回路を切り替えて返答する。


「会社の人を第一発見者にはしたくないですね……」

「単身なら緊急連絡先は大事よ? 万が一がいつやってくるかわからないのだし」


 万が一か。思えば母親がそうだったな。つい数ヶ月前のことなのに。

 同居している私がいたからすぐ連絡できたけど、私の場合はどうなることやら。


 今は母親から築いた関係があるから、かろうじて近所の人ともつながってはいるけど。この住宅地だって子供が独立して、年々高齢化が進んでいる。


 いつか空き家ばかりとなった寂れたここで、老いた私だけが細々と暮らすのかと考えると……


「上里」

 いつの間にか目の前に本庄さんの顔があった。戻ってこーい、とでも言うように目の前で手を振られる。


「”話し相手”が来ているのだから、1人で抱え込まないの。ね?」


 友達であれば、愚痴に付き合うのも自然なこと。

 求められている役割を把握して、本庄さんは接しようとしてくれている。だからこそ口調まで変えてくれたのだから。


「そうですね。すみません、ご案内いたします」

 また湧き出してきた暗い感情を振り払うように、私は笑顔を作った。


 仮にも学生時代演劇部の中心にいたのだから、取り繕えなくてどうするんだ。副部長が聞いて呆れるぞ。



 掃除したばかりの部屋へと招き入れて、私はさっそく買ったコーヒーを振る舞った。


 夕食後なので間食はカロリー的に気にするだろうなと考えて、剥いたリンゴを切って出す。

 コーヒーとリンゴ。微妙な組み合わせだ。しゃりしゃりと歯ざわりのいい果実をかじりながら、本題へ入る。



「……私、このままでいいのかなって。最近思うようになりまして」

 今朝からずっと胸の奥深くに沈んでいた不安を、ゆっくりと浮上させていく。


「今日、昔の同級生に偶然会ったんです。多分それも大きいとは思うんですけど」

 黙って頷きながらコーヒーをすする本庄さんへと、悩みを吐き出していく。


「みんな、キャリアを積んでいたり夢を叶えていたり、まっとうな道を歩んでいる中で。私だけが1人、非正規で先の見えない仕事をしている。正社員登用に釣られてここには来たようなものですが、それだって会社次第ですし……もう20代も半ばなのに、何やってんだろうって」


「つまり、上里は転職したいってこと?」

 血の気が引いていくのを感じた。


 バカか私は。

 入ったばかりで同じ会社の人にポジションの不満を打ち明けたら、そう思われてもおかしくないのに。


「そ、そういうわけではないのです。本当です、軽率な発言でした。もちろん社員さんとしていずれ認められることを信じて努力はしている、つ、つもりです。やれることは色々あるわけですし。あの、簿記2級に向けても今勉強してて、」

「落ち着いて。あなたが頑張っていることはみんな知っているから。今の調子でいけば、わたしや他の方が絶対に社員に推薦してあげるわ」


 なだめるように、本庄さんは両肩へと優しく手を置いた。

 いずれ抱くつもりでしかない程度の女に、ここまで真摯に向き合ってくれている。


「ごめんなさい。もしかしたら嫌になってしまったのかなってわたしも焦って、先走ってしまったわ」

「大丈夫です。そんなこと、あるわけないですよ」


 どうして。嬉しいはずなのに、今はこんなにも苦しいんだ。

 あははと笑うことなんてないのに笑い声が出て、口元が笑みの形へつり上がっていくのを感じた。


 腰掛けた座布団の裾を握りしめる。

 言ってるそばから、また喉が塞がってくるのを感じた。


 まただ。私一人で勝手に焦って、勝手に自分の首、この場合は喉を絞めている。


 私は人間関係に恵まれている方だと思う。家族も、友人も、会社の人も、近所の方々も。

 出会った方々のほとんどはみんな優しくて、みんなまぶしかった。


 そのまぶしさは。正しく生きろと、何もかもが普通じゃない私に向かって是正しているように感じてしまう。


 誰も私を追い詰めようと思って接しているわけじゃない。本庄さんだって今こうして、私のために愚痴の聞き役に徹してくれているのだから。


 理屈では分かっているくせに、感情が割り切らせてくれない。


「上里? 大丈夫、起こしかけてるの?」

 カップを置いて、本庄さんは喉へと掛けかけた私の手首を心配そうに掴んだ。


 そんな人へと、私は。

 ふくれ上がっていく黒いモヤが濃度を増して、自分との不毛な間違い探しが始まる。


 年下で、美人で、自分よりはるかに仕事ができて、人間的にもすぐれている人。お金まで貢いでくれる人。普通に息をして暮らしている人。


 今はどうしようもなく、劣等感を刺激する人。

 醜い感情が這い出て、やがて熱いものがまなじりへとあふれてくる。


 泣きたくなんてないのに。私は感情が高ぶると、いつも最後には涙へと変わっていく。どんなに頭に来ていても、どんなに喜びの気持ちであふれていても。

 もう、めそめそしてんじゃねえ、いい歳して。


「……上里」


 少し落ち着きましょう。そう囁かれて、柔らかな重みが伸し掛かってくる。

 温かくて甘い香りのする女性の胸元へと、私は抱き寄せられていた。


「上里がそんな顔してると、わたしも辛い。ね、だからいったんお口は閉じましょうか」

 そのまま、文字通り私は口を塞がれた。


「ん……っ」


 しばらく離すかと言わんばかりに、唇はけっこう強く吸われている。

 いきなり奪われたはずなのに。狙いは正確で、受け止めた唇はどこまでも柔らかくて温かい。


 乱暴さを一切感じさせない、女の扱い方をよく分かっている口づけ。

 背中には手が回されて、優しくさすられていくのを感じた。


 ……本当に、上手いなあ。この人。

 きっと今までも、こうして興奮する女性を黙らせてきたんだろうな。


 なだめられている最中なのに、劣等感とはべつのもやもやが胸の奥にわだかまっていく。


 いったん吐息がかかるほどの距離に解放されて、大人へのあやす言葉をかけられた。


「環境や、社会や、人から。逃げることはできても、簡単に逃げてはいけないのは分かってるわ。だから苦しくなって、もがくしかないのよね」


 何か口にする前に、声が塞がれていく。私はもう、ただ受け入れるしかない。

 この人には敵わないと、本能が告げている。


「どうしようもなくなったら、わたしのところに逃げてくればいい。今みたいに。待ってるから」


 ささやかれて。また、本庄さんから甘い毒を受ける。

 逃げた先にあるのは、どこまでもとろかされていく女性の匂いとぬくもり。


 落ち着くまでしばらく、私たちは重なっていた。

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