【毬子視点】もっとわたしを知ってほしい

 背中へと回されていた上里さんの手がわたしの手首へと伸びて、内側からぐいっと引っ張られる感触があった。


 枷を外したように、ネクタイがぱらりとほどける。無意識に指が当たったわけではなく、明らかに意図してやった行動だった。

 ずっと縛っていたから、跡が残ることを気にして解いてくれたのかしら。それとも。


「どういうつもり?」

 好奇心を乗せて、わたしは尋ねる。


「…………」

 対する上里さんは言葉にならないつぶやきを口の中で転がして、目を泳がせている。はぐれてさまよう子供みたいに。

 やがて返事の代わりに、上里さんから顔が近づいてきた。


「ん、ん」

 何かに蓋をするように。こみ上げるものをこらえる顔で、上里さんの唇が吸い付いてくる。

 彼女からこういう風に求めてきたことは今までなかったので、わたしもちょっと驚いて肩が跳ねてしまう。


 黙っていれば何人もの女の子を泣かせていそうな、注目を浴びずにはいられない見た目なのに。

 本当は顔に出やすくてこんな不器用に想いをぶつけてくる人だなんて、きっとわたし以外は知らない。わたしだけが知っていればいい。


「っく、」

 唇だけじゃ物足りない。わたしはちょっとだけ舌を出すと、急かすように湿った口唇をつついた。察してほどけた口内へ、舌先を這わせていく。

 奥深くは息が続かないだろうから、入り口付近を。


「こーら」

 夢中で唇を吸い続けている上里さんを、一度引き剥がした。肩に両手を添えて。

 止めてほしいのではなく、キスでごまかさないために。


「声に出さなきゃわからないわ。ちゃんと答えて」

「っ……」


 言葉よりは幾分柔らかく言ったつもりだったのだけど、上里さんの何かに触れてしまったのかびくっと彼女の身体が震えた。

 ややあって、すみませんでしたとか細く謝罪の声が届く。


「すみません、縛ってることに罪悪感を覚えて、その」

 言葉とは裏腹に、視線はわたしからずれている。本心とは違う理由を口にしているのはばればれだ。

 あなた、わかりやすすぎるのよ。


「へえ。本当に?」

 声色を低くして、問い詰めるように顔を固定する。そらさないでと、焦点を合わせる。

 びくびくしている相手をさらに萎縮させる言い方だと思ったけど、そういった強硬手段に出てまでわたしは本音を聞きたいと思ってしまった。


「わたし、言ったわよね。ほどいたら何をするかわからないって」

「…………です」

「え? なあに?」

 聞こえない声で上里さんがなにやらつぶやいたので、もう一度聞き返す。



「……それでもいいと、思ったのです。家に上げているわけですし」


 つい魔が差して、ほどいて何もかも好きにしてもいいと。

 正直に上里さんは告白した。


「…………しょうがない子ねぇ」

「い、いひゃいですっ」


 上里さんの両頬をぐにぐに弄ぶ。端っこを引っ張って、お餅のように伸ばして。


「もー。せっかく攻められ気分を楽しんでいたのに。逆転はプランになかったのよ」

「す、すみません」

「いいのいいの、かわいい上里は見れたんだから」


 わたしが普段から、どれだけ我慢していると思っているの。

 気まぐれでその気にさせるようなことしないでよって責めたくなる感情と、まだ剥き出しの己になってはいけないという理性。


 ふたつのわたしがせめぎ合って、子供じみたわたしが表面に出てくる。意味もなく笑いながら、上里さんのもち肌をこねくり回した。


「前回のことを引きずっているのかもしれないけど、わたしの機嫌のためとかで安売りしちゃいけないわ」


 以前に跳ね除けられてしまった深い口付けを、今日は受け入れてくれた。それだけで嬉しかったのだから。

 いくらサービス精神旺盛でも、何事も節度は大事。


「……いきなり説教するおっちゃんですか、あなたは」

「言われてみればそうね」

「でも、せっかくプレイを楽しんでいたのに解いてしまった私も軽率でした。もう少しサディストの極意を勉強します」

「そこ? 着地点そこなの?」


 もうなんかお互いツボにはまって、連鎖する笑いから抜け出せなくなってしまったので、”お支払い”はここで終了とした。

 かわいいとこを見たいって願望は大いに満たされたので。


 はあ、上里さんは素で理性を引きちぎろうとしてくるわね。



 食後。

 黙々と描いて描いて描き進めて、気がつけば2時間が経過していた。

 んーと声を上げて、凝り固まった背筋をぐぐっと伸ばす。


「ねー、上里」

 スマホで漫画を読んでいた上里さんへと、わたしは大胆にしなだれかかった。

 ひょえっと声が上がって、ああでもずっと描いてると疲れますよねと気遣う声が返ってくる。

 よし、今なら雑談にいい空気か。


「暇になったわ。なんかお話したいことある?」

「そう急に言われましても……」

「政治と宗教と球団の地雷ニュース以外ならなんでもいいわよ」

「……なんでも、ですか?」


 そこで上里さんが興味を惹かれたのか、背筋が伸びる。

 視線は途中保存されている描きかけの絵へと向けられていた。


「ちょっと、気になっていたんですよね」

「なにが?」

「絵って、描かない私からすればしんどいものなんです。どうして写真に撮ればいいものをわざわざ紙に起こすんだろうって」

「あー、デッサンの授業で絵画が嫌いになった人って一定数いそうよね」

「ま、まさにそれで。だから本庄さんみたいに描ける側の人って、どうして絵があんなに上手いんだろうって。きっと、描くのが好きで好きでたまらないのかなって」


「そうでもないなあ」


 はっきりと言い切った。同調していればいいものを、元絵描きのプライドが邪魔をして無難な答えをさえぎる。

 上里さんは臆することなく、どこか納得したようにうなずくと。


「……やっぱり、産みの苦しみ、みたいなものはありましたか?」

「知りたい?」

「お話していただけるのでしたら」


 ”どんな人なんだろって、表面的な部分以外も知れる機会になるかなって”

 歓迎会のときに垣間見た、彼女の一面を思い返す。


 自分のことより他人のために耳を傾けてくれる人は貴重だ。

 なら、わたしもそろそろお話してもいいのかもしれない。

 もう少しだけ、わたしという人間を知ってもらいたい。


 こちらに向き直る上里さんへと軽く咳払いをして、わたしは古い記憶のページをめくっていくように声に出していった。



 幼い頃のわたしは身の程知らずで、創作意欲にあふれていた。

 本気で自分は世界一絵がうまいのだ、なんてうぬぼれていた。


 いつから絵を描き始めたかは分からない。幼稚園の頃にはすでに、ボールペンのキャップをがじがじかじりながら画用紙に右手を走らせていたと思う。


 描いて生み出すことに、わたしはこの上ない可能性とあこがれを抱いた。

 あの頃は画用紙の中が、わたしの世界のすべてだった。


 飽きずに毎日毎日、目に映るものや漫画の1シーン、ときには空想を巡らせてインクがなくなるまでお絵描きに没頭した。描きたいものはいくらでもあった。


 スケッチブックはすぐに白いページがなくなった。一日も絵を描かなかった日なんてなかった。

 実家にはまだ、何十冊もの夢と希望と黒歴史のスケッチブックが保管されている。


 デッサンも塗りもパースも独学。

 それでも『ただ描いていれば満足だった頃』から『1枚の絵の完成度を上げたい』と向上心が備わったからか。

 いつしかわたしは『絵がうまいね』と言われるようになった。

 親から、親戚から、担任の先生から、クラスメイトから。


 そうだ、わたしには画力があるんだ。

 みんなが必要としてくれているのだから、もっともっと上手くならなきゃ。


 天狗になっていたわたしは、いつしか単なる趣味であったお絵描きが食事と睡眠の次に大事なものへと変わっていた。

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