人を愛するということ

 セクシュアリティは変わらないものだと思っていた。

 少なくとも学生時代はカッコいいとされる男性の先輩や俳優さんにきゃーきゃー言ってた時期もあったし、少女漫画に夢を見たこともあった。


 異性や異性愛に対するあこがれが消えたわけじゃない。

 同性全員がいきなりそういう対象に切り替わったわけでもない。


 ただひとつわかっていることは。

 私はいま、本庄さんに明確な恋愛感情を持って唇を重ねているということだけ。


 変わらない心の動きがないのなら、当然性自認や性的指向も変化するということをたった今学んだ。それが人間なのだから。


「ねえ、本当に無理、していないわよね」

 触れるだけのキスがほどけて、不安そうに揺れる瞳からおそるおそる声がかけられる。


「ん……」

 返事の代わりに、唇を奪う。

 キスマークでも残すんかってくらい、強く吸って。


「これでも、義務感でやっているように見えますか」

「……ごめんなさい、試すようなことを言って」


 どうか信じきれていないわたしを黙らせて。

 もっと、ください。


 瞳をうるませながらそんなおねだりをされるものだから、平常心を保てるわけがない。


 半ばぶつけるように、艶めく口唇へ吸い付く。

 何度も、何度も。流されて受け入れているのではないと証明するように、私は自分から顔を寄せた。

 経験豊富な本庄さんからすれば、不慣れなキスだと内心思っているだろう。


 わかっていても、爆発した衝動は止まらない。

 この人が欲しい、この人で満たされたい。尽きることのない感情を乗せて、私は本庄さんを求め続けた。

 


 最初のうちは、罪悪感から義務的にデートをこなしていた。

 会うたびに、割り切れない想いが広がっていった。渡されるお金に比例して、心の一部を少しずつ掠め取られていったのだろう。


 これは遊びであって本気になってはいけないんだ。そう何度も理性が警鐘を鳴らしていたのに、いつしか聞こえなくなった。

 正体不明の感情はやがて、”この人にずっと必要とされたい”と名前をつけて心に棲まうようになった。


 恋は盲目になるだけではなく、耳も貸さなくなるのかもしれない。愛する人と、それ以外で世界を分断してしまうのだから。



「実を言うと、あなたに想いをぶつけられたときに一瞬よぎってしまったの」


 唇を解放したあとに、本庄さんは正直な気持ちを打ち明けてくれた。


 私に転職を促したほうがよかったのかもしれないと。

 義理で付き合ってもらってる副業に引導を渡すには、それが一番いい。


 もともと独り身の寂しさに付け込んだようなものなのだから、自分に依存していく前に正しい道標を提示してあげるべきなんだと。


「でも、そんなのできなかった。上里から求められて、すごく嬉しくて……離したくないって本能には勝てなかった」


 言葉通り、本庄さんは胸に顔を埋めてきた。

 背中に回された腕は温かくて、力強い。細い身体からは信じられないほどに。


「これからも、この先も。ずっと、お傍にいさせてください」

 新たな決意を口にして、私は大きく息を吸う。


「そのためにできることを、精一杯尽くします」

「ええ。わたしも、力になれることはなんだってするわ」


 心から決めた人へ。拳を突き出して、お互い軽く合わせる。


 そうだ。私の人生はもう、私一人だけのものじゃない。

 私には乗り越えなくてはならない壁がいくつもある。持病、非正規の打破、社会でこの先も生き残っていくための人間的成長。


 隣の人の幸せを願い、叶えるには。これらすべてをクリアしていかねばならない。

 自分の人生に責任を持つ。自分で決めて、言い訳をせず前を向き、悔いなく生きる。


 それだけの覚悟をもって、傍にいると誓えるか? 否、しなくてはならないのだ。

 そんな当たり前のことに今さらになって気づく。

 早いも遅いも関係ない。気づいたのであれば、そこから始めればいいだけだ。



 決意を固めたところで、次は具体的にどう動くべきか。

 私たちは真面目に話し合うことにした。


「まず、社長もそこまで短絡的ではないと思うの。いくら上里のことが気に入らなかったとしても、自分が嫌いだからクビ、なんて個人的感情での解雇は通らないわ」


 仮に解雇事由に当てはめるとなると、”能力不足・成績不振”に該当するのか。


「ええ。だけど、うちには金子さんという前例がある。上ができる仕事を考えて、しっかりと適切な指導を施す。それでも勤務成績が振るわず、改善の余地がこれ以上ないと手をしっかり尽くした末にようやく、解雇が認められるわ」


 ……ぶっちゃけると不当解雇はありふれているし、裁判で争ったところでもとの会社に円満に戻れるケースはほとんどないんだけどね。

 別のホワイト企業を探すのが手っ取り早いだろうし。


「なので、一番考えられる落とし所としては一定期間の猶予を設けて経過観察するか、その期間を有給消化として転職活動に当てろとうながすか。どっちかでしょうね」

「ここに採用されるまで数ヶ月かかった身としては、正直就活はもうしたくないですね……」


 今は未曾有の不景気で、いつかのロスジェネほどひどくはないにせよ就職氷河期なのは事実だ。


 企業もあの頃の失敗を反省して新卒はそこそこ受け入れているけど、逆に上はばんばん切られている。子供の数が大幅に減って、あの頃ほどあぶれる新卒が少なくなったってのもありそうだけど。

 新卒・既卒・中途・失業者の椅子取りゲームに勝たなくてはならないのだ。


 会社があげる猶予とやらもせいぜい2週間ほどだろうし、そんな短期間で次の仕事が見つかるとは到底思えない。

 何も持たなかった自分のせいだ。

 だからこそ必死にしがみついて、他で通用するためスキルを磨くしかないのだ。


「話を戻すと、そもそもの発端は回される仕事量が少ないという問題点に帰結するのよね」

「はい」

「…………だとしたら、それはわたしにも責任があるわ」


 本庄さんに?

 理由を聞いたところ、あなたたちの仕事を取ってしまっていると本庄さんは答えた。


「わたしが来た当時から、事務員は狭山さんただ一人でね。そうなると体調を崩してもなかなか休めない問題点があるじゃない。今までは派遣に回していたみたいだけど、社員の誰かができたほうがいいだろって。だけどうちはPC使える人がいないから、わたしが担当することになったの。現場にいくまでのひと月ほどは、わたしは事務所での仕事がメインだったのよ」

「そうだったんですね……」


 だけど優秀なあまり、私が来た今でも本庄さんは事務員がやるべき仕事を任されている。それは入社当時から気になっていた疑問点だ。

 おそらくは上もその業務負担を把握していないから、暇な社員が生まれるというあってはならない事態が起きている。


「だからこれからは、わたしが上里に引き継ぐわ。というか本来はそうでないとおかしいものね」

「……それだけ、私にはまだ信頼がないってことでもあるんですよね。もっと早く気づくべきでした」

「何を言っているの。いくら成長段階だったとしても、なにかすることはないかと言わせてしまうくらい仕事を適切に回せていないのは上の怠慢でもあるのよ」


 何があっても、わたしはこれまで通り週末はあなたといるわ。

 手を握りしめて、本庄さんが真剣な声色で告げる。その一言が、どれだけ力強く胸に響いただろう。


 明日、社長がどんな判断を下すかは分からない。

 だけどどんな結果だったとしても受け止めよう。最悪会社を離れることになっても、本庄さんとのつながりまでが切れるわけではないのだから。


「……その前に一度、狭山さんとは話をつけておきたいわね」


 ぼそっと。吐き捨てるように、あまりにも低い声音でつぶやくものだから思わずびびってしまう。え、どういうこと?


 その答えは、そう遠くないうちに知ることとなった。

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