配置転換

 次の日の朝は、分厚い雲におおわれた白い空模様だった。

 微妙な天候にはやる気が吸い取られていく。でも、今日の私は違う。


 想いが通じた人が傍にいる。その人のためなら、なんだって乗り越えてやる。

 無鉄砲な熱さを胸の奥に感じていた。ハンドルバーを握りしめて、力強くペダルを漕いでいく。


 叱るって反発を覚悟の上で言わないといけないから、上も上で苦労してるんだよね。ご機嫌を伺いつつ指導するって。

 下の立場でものを考えるだけじゃなく、もっと私も視野を広げないとな。



「…………」


 さて。

 事務所は今、かつてない緊張感に包まれていた。

 理由は他でもない、社長の視線があるからだ。持ち歩いたチェックリストに絶えず何かをメモっているから、変わらぬ無表情が恐ろしい。


 言伝や面談で把握するのは限界がある。

 なので社長自ら現場と事務所の視察を行い、業務上の問題点を洗い出すのが今日の目的らしい。


 常に仕事用の携帯電話を耳に当てて、歩き回りつつ忙しそうに指示を出しているのがやっぱ社長だなーって思う。


 ちなみに私へと下された判決は、意外にも温情な処置だった。


『断片的な情報のみで勝手に人となりを判断し、視野狭窄な発言を繰り返した失態をまことお詫び申し上げます。試用期間満了での契約終了はございませんのでご安心ください。本日は個々の社員に注視して業務負担を分析いたしますので、よろしくお願いします』


 こんな感じでめっちゃ深く頭を下げられて、菓子折りまでいただいてしまった。

 この態度の急変ぶりはなんぞや。逆に怖くなって部長に尋ねると、どうやら彼と工場長が必死に庇ってくれたらしい。


 あれだけの圧をかけて辞められては困ります。彼女は勤務態度には何ら問題はございませんし、入社二ヶ月の段階で使えないと判断するのは早計かと、と。


 こんな私でも見捨てず支えてくれている。私はその期待に応えなきゃいけないんだ。

 今日からは絶対に書面での不備を出すものか。心の中で頬を叩いて、出勤してきたばかりの狭山さんに頭を下げた。


「おはようございます」


 狭山さんには特に迷惑をかけてしまっている。

 業務負担を減らすため、定年後も仕事が回るように採用されたのに。


 ミスを繰り返して仕事を増やすようじゃ、態度が素っ気なくなるのも当然だ。

 厳しく言われてめそめそしている場合じゃない。泣きたいのは向こうに決まっているのだから。


「これからはチェックを欠かさず、再発防止に努めます。大変申し訳ございませんでした」

 聞こえのいい言葉を並べ立てたところで、仕事で取り返さねば意味がない。

 有言実行あるのみだ。


「いえ。上里さんだって、十分役に立ってるよ。あなたが来てから生産数が上がったと、現場の士気に多大なる貢献を与えております」

「そ、そうなのですか」


 それ、役に立ってると言えるの?

 いまいち腑に落ちないまま、時間は過ぎていった。



 で、午後2時をまわった今。

 さっそく私は暇すぎて死にそうモードに入っていた。


 記入チェックはダブルどころか4回くらい見直した。

 定規を引いて、穴が空くほどガン見して、書類ヨシと胸を張って宣言できるように。やれて当たり前のことだけど。


「すみません、今少しだけお時間よろしいでしょうか」

 お手空きの状態のため、お力になれることはございませんか。

 その次に言われる言葉を分かっていながら、狭山さんに聞いてみる。


「電話取ってくれればいいよ。何か雑務ができたら振るから」

「……はい」


 だからってここは、しょっちゅう電話が鳴り響く市役所みたいな部署ではない。

 さっき周って確認したけど、コピー用紙やトナーやトイレットペーパーのような消耗品の補充は完璧だ。


 こないだ紙に明記した効果が出ているのは嬉しいことだけど、ここから定時までは途方もなく長い時間に思えた。


 何より狭山さんは品物の注文や他の営業所への連絡で忙しそうで、手元の資料がぜんぜん減っていない。


 見た感じ、タイムカードからの給与計算らしいからそれを回してくれればいいのに……


 社長も部長も工場長も、今は現場に行ってしまった。

 途方に暮れていると、意外な人物が事務所に入ってきた。


「おつかれー。これ社長から差し入れ」


 鳩山さんだ。手にはお土産屋さんとかで見かけそうなお菓子の箱を持っている。

 会話するのは久しぶりだな。続けて社長も入ってきたものだから、思わず肩が上がってしまう。


「そろそろ休憩となる3時ですし、みんなでお茶にしませんか」


 お茶の用意をお願いしますと頼まれたため、急いで準備に取り掛かる。

 でも狭山さん、まだ忙しそうなんだよな。今だってどこかに電話をかけているし。


「……ふむ。確かに、今日の分の業務は片付いたようですね」

 社長が目ざとく私の机を一瞥して、なにやら手元のメモ帳へと書き込んでいる。

 それから隣の狭山さんに目を向けて、受話器を置いたタイミングで話しかけた。


「狭山さんも、お疲れでしょう。こちらで息抜きされてはいかがですか」

「お誘いは嬉しいのですが、まだ仕事が残っておりまして」

「では、手元の書類仕事だけでも上里さんに回されては。見たところ、最後に僕が確認した時間から一切減っている様子が見られません」

「そーそー。上里さん暇そうじゃん。ずるいぞ給料泥棒なんて」


 社長や比較的彼女と仲が良い鳩山さんからの助言もあり、狭山さんはどうしようかと言葉に詰まっている。


「ですが、この仕事はまだ任せたことがないもので」

「教える手間があるようでしたら、それくらい僕から指南いたしますので。給与計算程度、調べればいくらでも解説サイトが出てきますよ。それとも、不都合でもございますか?」

「…………」


 ここで仕事を回すことを渋っては、部下を育てる気がない上司とみなされてしまう。

 しぶしぶと言った感じで、お忙しいところすみません社長と狭山さんは承諾してくれた。


 仕事をもらえたのは嬉しいけど、まだ信頼が回復していない部下に回すのは嫌だよねやっぱり。

 よし、残り時間はしっかり計算を任せられるように頑張ろう。

 単純な作業の積み重ねで取り戻していくしかないのだから。



 3時を回って、社長も交えたお茶会が始まった。

 社長、本当に仕事以外では気さくな方なんだね。話す対象に合わせてキャラを変えて、誰と話しても会話が弾んでいる。

 それくらいのコミュ力がないと社長にはなれないんだろうな。


「とても美味しいです。よろしければ購入されたお店をお教えいただけますか?」

 そして本庄さんも、お茶会への参加を快く承諾してくれた。当たり前のように私の隣に座って、高級そうなマドレーヌに舌鼓を打っている。


 ときおり見えない位置でつついてきたり、もたれてくるスキンシップにはおたおたしたけど。


「き、休憩中とはいえ職場ですよ」

「ごめんなさい、少しはしゃぎすぎたわね。いくら恋人がいるからって」


 お、臆面もなく言い切るなあ。

 お互いしか聞こえない程度の声量で話して、テーブルの下、みんなに見えない位置で手をつなぐ。


 いけないことをしているような背徳感がぞわぞわと背中を撫でて、むず痒い感覚が這い出してくる。本庄さん、けっこう大胆だ。


「上里、わたしからも仕事を回していい?」

「ええ、なんなりと」


 業務内容は、図面を責任者に送る目的でのスキャンだった。

 その図面自体、束で渡されたものだから重さにびびってしまう。本庄さん、普段の仕事以外にこんな時間かかりそうなことまでやっていたのか。


 それから、上司や現場の方々にちょっとずつ仕事を回されるようになり。私は遅れを取り戻すため、完璧な仕事をこなすように努めた。


 今日もミスなく頑張るぞと気が引き締まれば、定時までどうやり過ごすかなんて憂鬱は吹き飛んでいく。

 目的を持つことは大事だ。もちろん、合間の資格勉強も怠らずに。



 そして、ひと月が経過した頃。

 私は現場へ配属となったのであった。

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