【毬子・上里視点】2人で歩むリスタート

 思えば忍ちゃんは、与えられた役割を忠実に守る子だった。

 会社では年下のわたしを先輩として敬い、プライベートでも敬語でさん付けという徹底ぶり。


 副業をはじめてからは、必ずわたしをお客様としてもてなしてくれた。

 毎回の”お支払い”にも、嫌な顔ひとつせず受け入れてくれた。わたしを意識する前から、お仕事なのだからと割り切って。


 そして今は、恋人として。

 わたしに合わせて呼称を変えて、堂々と隣を歩いてくれる。


 それはとても嬉しいのだけれど、これまでの彼女を見てきた側としてはちょっとだけ心配になってしまうのだ。

 恋人を役割と捉えて、難しく考えていないかって。



「カップルの形式にこだわりすぎていない?」

 思わずそう尋ねてしまった。

 彼女の思うカップルらしさ。そこに引っかかりを覚えて。


「あの……なにか、間違っておりましたでしょうか」


 命令以外の業務に手をつけ叱られた新人のように、忍ちゃんの肩が跳ねる。

 あ、言い方がまずったわね。


「んーん、そうじゃないの。ただ、いつもの忍ちゃんとは違ったから」

「いつもの、ですか」


 急に、どこか行きたいところはないかとわたしに聞いてきたこと。

 カップルらしさとはなにか、定義らしきものを述べたこと。


 外に出て、どこかで食べて、どこかで遊ぶ。

 それは彼女の抱えている持病を考えれば、いくら対策してても不安がつきまとうものであろう。契約前にあらかじめ、人との外出は苦手としているとは聞いている。


 薬物治療のおかげなのかそれともわたしへの警戒心が解けてきたのか、最近は発症の頻度は減ってきたようには見えるけど……


「無理、しているわけではありませんよ」

 憶測から固まり始めている私の結論に待ったをかけるように、忍ちゃんは意見を口にした。


「ただ、治していきたいと思ったわけです。デートに限った話ではなくて。この先2人で生きていくならなお、持病持ちはリスキーです。就職先も限られてきますし。今の御時世、仕事を選んでいる余裕はございません」


 何より、毬子さんともっとたくさん楽しい思い出を増やしていきたいなと。


 声は歯切れよく淡々と耳に伝わってきたけど、表情までは淡白になりきれていない。

 耳まですぐ真っ赤になる照れ屋さんなところを、最近わたしはやっと分かってきた。


「そっか。いまやっていることは”行動療法”にあたるわけね」

「はい。ですが、治療のために利用しているだけではなくて。一緒にお花見に行きたかったって気持ちのほうが強いです」


 しっかりと指を絡めた手は、ほどける気配がない。


 同性愛の偏見はずいぶんと薄まった、けど。まだ受け入れられない声は強い。

 認めろとの圧が強くなってきたからかえって嫌いになった、なんて意見を聞くと悲しくなる。


 忍ちゃんは気づいているかわからないけど、つないだ手に好奇の目を向ける人はちらほらいた。

 視線に敏感なわたしは、それだけで胸がきゅっと縮こまりそうになる。


 でも、今もなお。力強く握りしめられた指からは、確かな決意と揺るがない安心感を覚えた。


 彼女は変わろうとしている。恋人だからって無理やり合わせようとしているのではなく、願う未来のために。


 なら、わたしも克服するための力になろう。

 完治は難しいとは聞いているけど、起きたって大丈夫だと考えられるように。


「少し、独り言を聴いていただいてもよろしいですか」

「ええ」


 歩き続けて、人気の少ない土手を下りていく。

 どうして持病を抱えるに至ったのか、忍ちゃんはぽつぽつと語ってくれた。


 足並みをそろえよ。右に倣え。出る杭は打たれる。

 日本人を端的にあらわす表現としてよく用いられる言葉だ。忍ちゃんも例外ではなく、人の目を常に気にしながら生きている人間だった、と。


 発症してから、その傾向はますます強まったのだと言う。

 同じように息をして、同じように歩いて、同じように生きる。

 誰から言われたわけでもなく、自分で自分に枷をしていた。普通から外れることを恐れていたのだ。

 神経質で完璧主義な人ほどなりやすいって聞くものね。


「だから、毬子さんにご指摘いただいたように。形式にこだわりすぎている、というのも当てはまります。もちろんあこがれもありますけど、普通ならそうあるべきだと固定観念に囚われているのだろうなって」

「普通なら、かあ」


 散りゆく桜の花びらを浴びながら、空を見上げる。

 抱いた違和感の正体はそこか。


 恋愛のかたちに正解はない。

 歳の差も、お見合い婚も、肉体関係からのスタートも、略奪愛も。

 そして、同性愛も。


 だけど忍ちゃんは、さっき『なにか間違っておりましたでしょうか』と正しい答えを求めるような言い方だった。

 恋愛という理屈でしないものにも、普通という名の正解を探している。


 そこがわたしとは、決定的にずれていたのだ。



「たとえば、忍ちゃんの考える普通の生き方って?」

「そうですね、世間一般の認識の範囲で述べるとなると……」


 普通に親から愛されて、普通に大学まで通いきって、普通に就活で正社員の座を勝ち取り、普通に出世コースを歩み、その間に結婚したり順調に貯蓄して、普通に定年退職して、自由気ままに余生を過ごす。

 そう、忍ちゃんは答えてくれた。


「そうね。普通に考えればそんなところよね」


 だけど、人生はそんな単純なものではない。


「普通の生き方も、普通の恋愛も。そんなものは存在しないのよ」


 彼女の枷を取り払うため、わたしは静かに口を開く。


「思い描いたかたちそのものがもう、普通じゃないの」


 人類すべての人生を紐解けば、天文学的数字のパターンに分岐するだろう。

 さすがに人間社会で生きていく以上、人の道を外れないように法律があるわけだけど。


 統計してたまたま数が多いものを多数派というだけで、それは絶対でも普通でもないのだ。


「たとえば、今のわたしたちの関係も。お金を渡して、代わりに相手を好きにする。これを世間では売春だなんて呼んだりするわよね」

「……そう、ですね」

「忍ちゃんはこの契約、解除したいと思っている? 恋人の関係としては、不純だからって思っていてもおかしくはないだろうし」

「……正直に申し上げれば。今日、切り出そうか迷っておりました。お金がなくたって私は会いたいと思っておりますし、貢いで頂いている現状は罪悪感のほうが上回りますので」


 予想していた通りの答えだった。

 さて、そろそろわたしも隠さず打ち明けるべきなのだろう。

 以前はぐらかしてしまった持論を、今度は知ってもらうために。


「忍ちゃんがどうしても受け取れないと言うのならやめるけど。お金を渡すって、わたしは”副業”というだけでやっていたのではないわ」

「そう、なのですか?」

「わたしにとっては、渡すということは愛情表現のひとつなの」


 前に、口説き方のひとつだと思ってくださいと言った答えがそれだ。


「結婚がいい例かしらね。その人とともに生きるということは、人生を捧げるということなのだし」


 お金がなかったら愛だけでは生きていけない。逆もしかりだけど。

 人はパンのみにて生くるにあらずなんて言葉があるように。お金と心が満たされてこそ、良い関係は築かれていく。


「わたしはあなたにすべてを捧げたい。そう思っているのですよ」


 今まで付き合ってきた子たちは、ただのひとりも遊びだなんて思っていない。

 わたしはいつだって本気だったのだから。


「……わかりました。でしたらそのお金は、私たちの未来のために大切に貯蓄いたしますね」

「あら、堅実な彼女だこと」

 好きに使っていいとは言ったけど。それもまた、忍ちゃんらしい使い道ね。


「じゃあ。帰ったら、もうひとつの愛情表現をぶつけてもいいかしら?」

 すべてを捧げるということはつまり、身も心もということだ。

 言葉の意味に気づいて、忍ちゃんの顔が赤くなる。


「は、はい。どうぞいらしてください」


 かつてお支払いと名を変えていたものは、心が結ばれたことで恋人の営みへと変わった。

 わたしたちはそわそわした足取りで、帰路についた。



・上里Side


 みんなちがってみんないい。

 遠い昔に国語の授業で耳にしたフレーズが、今になって記憶の引き出しから浮上する。


 毬子さんから放たれたただ一言で。抜け出せなかった深く暗い沼に光が差した。そんな錯覚すら感じた。


 きっと、似たような言葉はこれまでも耳にしてきたはずなのに。

 大切な人が掛けてくれた。ただそれだけで、こんなにも心に響きわたるものなんだって。



 帰宅後。夕飯を済ませてお風呂へと入って、いよいよ恋人らしき営みになだれ込むかと思いきや。

 毬子さんに呼ばれて、私はマッサージを受けていた。


 手慣れているのか、力の強弱の付け方が絶妙だ。

 揉まれた端からはへぇぇ、なんて年寄りくさいため息が漏れそうになる。


「凝ってますねぇ、お客さん」

「ちょっと前までデスクワークだったもので」

「こーら、それだけじゃないでしょ」

「あてっ」


 リズムよくほぐされていた肩へと、急に指圧がかかる。痛みを感じるほどに。

 毬子さん、握力どんだけあるんだろう。


「スマホ。ずーっと下向いていれば、ストレートネックになるわよ? 休憩時間のときやおうちで自由にしているとき、けっこう長い時間いじってるでしょ。あんまり他人のプライベートに口を出したくはないけど、呼吸がしづらい原因は肩こりや首こりが関係しているって症例もあったわ」


 体の歪みにより呼吸が浅くなり、慢性的な苦しさから結果的にストレスを引き起こす。その不安で筋肉が硬化することにより、さらなる悪化につながるのだという。


 まじか。ずっと心の問題だと思っていたよ。

 もし肩こりが原因だとすれば、PCゲーマーでイラストスコッパーって数え役満じゃん。


「……心当たりがありすぎます」

「気づいたら直していけばいいの。それで得するのも自分なのだし。ちなみに胸式呼吸はできる? その時に肩が上がったり、肋骨や背中に違和感はない?」


 言われるがまま実行に移す。腹式呼吸にならないよう、お腹を凹ませて。

 肩は上がってはいない。いないんだけど……


「なんか背中がくっついているというか……窮屈な感じはありますね」

「だとすると。胸郭の柔軟性低下による浅い呼吸も考えられるわね。それが主要因とは限らないけど、気をつけるに越したことはないわ」

「わ、わかりました。なるべく目の高さに合わせて使うことを心がけます」


 薬物療法や行動療法、認知療法は主な治療法ではあるけど、ストレス以外の根本原因に注目したこの説は初めて聞いた。

 ここまで真剣に考えてくれる人がいるって、幸せなことだな。



「忍ちゃんは初めてだっけ」

「ええ……この歳でですが」

「普段アダルトゲームで生娘食いまくってる人が何を言っているの」

「二次元の常識は三次元の非常識ですよ」

「お手つきがなかったなんて信じられない。わたしが初めての人になれるだなんて、なお嬉しいわね」


 初めて。具体的な言葉を口にされたことで、一気に頬に熱が走る。

 そっか、そっかあ。するのか、とうとう。

 恋人同士だし、いい歳した大人だし。セクも一致してるし。そりゃあ、我慢する理由なんてない。


 しかし緊張するな。

 やっぱ痛いよね、指でも。何回かに分けて開発していく必要もあるっぽいし。


「怖い?」

 頬に手が添えられて、怖いくらい整った顔が見据えてくる。


「……包み隠さず言えば、そうなります」

 こんなときまで、年下にリードされるのか。経験値の差は埋められないとはいえ、情けなくなってくる。


「そう思って当たり前よ。最初から感じて当然じゃないんだから」

 だから、いきなり最後まではしないわ。安心させるようにささやかれて、軽くリップ音が鳴った。


「挿れるのは、こっちだけね」

 言い終わらないうちに唇が重ねられる。もう待てないと言うように。


 そのまま私の身体はソファーへと倒れ込んで、人の体温に抑え込まれた。

 寝巻きという薄い布地だからこそわかってしまう。毬子さんの熱さを。感触を。


「っ……」

 肉厚のぽってりとした感触が、優しく私の口唇を捕らえていく。


 甘噛みみたいなものなのか。あむあむと唇が動いて、あますとこなくこちらの緊張と抵抗をほどいていく。

 うっすらとひらいた、切れ長の瞳は爛々と輝いていた。まずは下準備からと、獲物をじらすように。


 挟んで、すり合わせて。ときおり吸って。

 たっぷり時間をかけた接吻は、私の理性をぐずぐずに溶かしていく。

 下品な話ではあるけど、恋人から激しく求められているということに止まらない興奮を覚えていた。


 怖い。さっきとはべつの意味で怖い。自分が自分じゃなくなりそうで。

 なんでキスこんなに上手いのこの人。


「んん……」


 舌が口内へ潜り込んでくると同時に。首から下に涼しさを覚える。パジャマのボタンが外されていったのだ。

 そのまま薄い肌着越しに、胸元に人の手のひらが滑り込んできた。


「っく、」


 収まっていた。すっぽりと。

 予想していなかった刺激に、口を塞がれているというのに大きい声が出てしまう。


 もともとそんなに大きいわけでもないから、揉まれるというよりは包み込まれるように手のひらへと捕らえられてしまった。

 そっすよね。最後までしないとはいえ、ここまではしたっておかしくないですよね。


「ん、く……は、……っ」


 深く潜り込んだ舌の熱さと柔らかさに翻弄されて、苦しさよりも混乱のほうが上回った。

 淫らな水音が耳の奥で響くたびに、頭の中にぷちぷちと何かが引きちぎられていく。

 溺れるどころか、深く沈めて帰さない気だ。


「んんう……」


 なに。なんだ。なんなのこれ。

 まともな思考回路なんて吹っ飛びお人形と化した私は、優しく容赦のない責めを受け止め続ける。


 経験した友人からは、期待するほど気持ちよかねえよと報告を受けた。

 アダルトな漫画とか映像とか、あれ全部クスリキメてるか演技だかんなと。


 そんなの、上手い人を知らないだけだぜと言ってやりたい。

 だって現に私は、キスの段階で意識が薄れかけているのだから。



「じゃあ、今日はここまでね」

「はい……」


 呂律すらもうまく回らない。

 気づけば涼しい顔をした毬子さんから、慣れた手付きで頭を撫でられていた。


 ……え、本番ってこれよりすごいの?

 この先待つ未知なる感覚に、怖さと期待からぶるっと肩が震えた。

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