普通って何?
「どうしたの、その手」
次の日の朝。いつも通りタイムカードを打刻する私に、毬子さんが心配そうに声をかけてきた。
「朝起きたときからうまく指が動かなくて。指の中にギプスでもはめられているみたいに、伸ばす際にはねちゃうんです。びょんって」
いわゆるばね指と言うらしい。関節部分はテーピングで補強したけど、肌色がなくて白いやつしか売ってなかった。
遠目だと包帯まみれの指に見えちゃったのかな。
「あー、わたしも最初の頃はあったわね。骨折か、ってびびったわ」
「いまはないのですか?」
「そのうち慣れちゃったのか、症状は出なくなったわね。だいたい入って1年くらいで」
人間の体の適応力すごいな。
たとえばゴミ処理場とかの鼻が曲がる匂いも、長く勤めていれば嗅覚が麻痺してくるもんなんかな。
「慣れるまではテーピングは大事よ。鳩山さんは放置して曲げられなくなって、注射も効かなくなって、靭帯性腱鞘を切開したって聞いたから」
「やっぱり使いすぎると悲鳴を上げるものなのですね……」
「あと、本当に怪我だけは気をつけてね。今日も一日ご安全に、って言葉を忘れちゃだめよ」
金子さんのweb漫画でも、あらゆる事故パターンが描かれていた。指を潰したり手首を切断してしまったり。
教訓のため、すべてうちや他県の工場内での事例を取り上げている。
その後センサーで体温を感知するインターロック機構が取り付けられたから、事故はぐっと減ったみたいだけど。
「それじゃあ、明日もよろしくね」
そろそろ失礼しますと頭を下げて、毬子さんからお馴染みの言葉がかけられる。
明日。土曜日ということは、毎週恒例の”副業”のこと。
付き合ってから訪れる、初めての週末だ。
だけどお金でつながっていた関係は、今や単なる雇用主と従業員ではなくなってしまった。
私はお金が介在しなくても会いたい。……恋人になったのなら、それが当たり前だよね?
分かっていながら切り出そうとしなかった私に問題がある。
もともと打ち切るのも継続するのも、私の自由だから。
正式に、普通の恋人関係となる。
それは恋人を楽しませて、何より一緒に楽しむということ。
今まで毬子さんは私の持病を気遣って自宅内で我慢していたのだから、どこかに行きたい気持ちは絶対にあるはずだ。
私は恋人として対等な関係にならなくてはいけない。
こんな私を好いて、選んでくれた人を幸せにする義務がある。
それが、私に務まるのか。
根ざした不安は、未だ払拭できていない。
乗り越えなければいけない壁なのに、もし外で発作が起きてしまったら。長引いて、迷惑をかけてしまったら。
それで、失望されてしまったら。
そう考えるだけで、恐い。
「……忍ちゃん?」
気づけば無意識に喉に手をかけていた。
予期不安となって呼び起こされてしまったらしい。もう、想像の段階で発症するなんて。
「最近気圧の変化が激しいものね。苦しい中無理して続ければ事故の危険性も高まってしまうわ。つらいときは遠慮せず休んでいいから」
そう言いつつ軽く背中をさすって、朝礼が始まるまではゆっくり更衣室で休んでていいと促される。
よく持病を理解しているからこそできる、完璧な気遣い。だけど、いつまでも甘えてはいられない。
「ありがとうございます。少し休めば治まりますので」
明日、勇気を出そう。
つかえ始めた喉の違和感を飲み込んで、私は更衣室へ向かった。
さて。目の前の課題は引き続き、第一関門である20ケースをクリアすることだ。
他の社員さんが全員こなせるのだから、私ができないはずはない。
では、なぜ時間内に仕上げられないのか。今日はその改善点を、徹底的に洗い出すことが目的だ。
「よろしくお願いいたします」
「はい、こちらこそ」
今回作業効率の向上に協力してくださるのは、金子さん。
工場長か直属の上司である毬子さんに見てもらうのが無難だけど、あの2人は忙しくてとても付きっきりとはいかない。
それに、乗り越えたばかりの人は自分が未熟だった頃の感覚を知っているから同じ目線でアドバイスしやすいという利点もある。
見る側としても、プロよりちょっと上の実力者のほうが参考になりやすい。
何より金子さんはあらゆる業務を日替わりで担当しているから、最適な人選と言えた。
「金子さんはまず、どこから見直していったのでしょうか?」
「そうですね。何分以内で1ケースできるか、そこを意識して始めていきましたね」
「なるほど……」
「理論上、7時間で20ケース仕上げることは十分可能なわけです。たとえば15分で1ケースとしましょう。梱包や材料補充の時間も考慮するとなると、1時間で3ケースが現実的な数字でしょうか。それでも、午前中で9ケース、午後で12ケースはいけると見積もれば、ぎりぎりですが20ケース到達できますよね」
「はい……ですが」
作業場のスミにうず高く積まれた、ダンボールの山を見やる。
「はは、そうなんですよね。俺もそこでつまずきました。時間外労働しなきゃ無理ゲーじゃんって」
そう。この作業工程でいちばん時間を食うのは、ダンボールの組み立て(×20箱)である。
箱の両面にサイズのハンコを押して、一つずつダンボール用封函機(でかいホッチキスみたいなやつ)で箱に組み立てていく。
その時間まで組み込むと、どうしたって20ケースぶん仕上げるのに30分以上はかかってしまう。
普通に考えれば、金子さんの言う通りあらかじめすべて積み上がっていないと到達は不可能と思えた。
「ところがどっこい。うちは早出も残業も禁止されている。だからって昼休みを潰してまではきついですし。残業は一度打診を申し出たのですが、残業代払いたくないんでむーりー、の一点張りでしたね」
行き詰まった金子さんは、一番数を上げられる川角さんが同じ作業に当たったときの流れを同意の上、監視カメラで観察することにした。
「川角さんは業務時間内で、すべての工程を終えている。さすがにあれだけ無駄のない動きを真似するのは無理でしたが、無駄なく動いて25ケース以上ということは。多少もたついても20ケースは無理な数字ではない。そこに希望を見出しました」
そもそもの前提として、箱の組み立てから違った。
私たちはハンコを押す際、一枚押したらひっくり返してまた押して、ダンボールを机に置いていた。
だけど川角さんは違った。机にもたれさせダンボールの束を立たせた状態で、パラパラ漫画のようにハンコを押していた。すべて終わったらひっくり返して、またぺぺぺと。鮮やかな手付きで。
それなら押し終わるのに、5分もかからない。
「これは大きな発見でしたね。このやり方であれば、大幅に組み立て時間は短縮できます。さらに川角さんは15分どころか10分で1ケース上げていました。切り詰められそうなとこはとことん切り詰めていけば、いずれ身体が順応すると」
金子さんはその工程を漫画つきで、わかりやすく見せてくれた。
百聞は一見にしかずということわざ通り、やっぱり絵があると説得力が段違いだ。
「ありがとうございます。これならいける気がします」
「お役に立てたのであれば何よりです。今度上里さんも漫画に出しましょうか。もちろん身バレ防止のため、脚色は大幅に加えますけど」
「金子さんの作風でしたら、どんなふうにいじってもおっけーですよ」
毬子さんのグラサンマッチョ腕組みおっさん化はウケたな。私もあれくらい濃いキャラ付けになるんだろうか。
金子さんにお礼を言って、私は作業へと当たった。
そして、約束の土曜日がやってきた。
「いまって本当に4月なのかしら」
額に高級そうなレースのハンカチを当てて、毬子さんはぱたぱたと片方の手で扇ぐ。手首には折り畳んだ日傘がかかっていた。
春らしく薄手のセーターにコーディガンを羽織っていて、下はフェイクレザー素材のロングスカート。
確かに今日みたいな陽射しの下では暑そうだ。可愛さでは満点なのだけど。
私も洗濯物を干してるときにこれ夏じゃんと思って、夏物を急遽引っ張り出してきたくらいだから。
昨日は花冷えって言われるくらい寒くて、ストーブつけたくらいなのにな。
女心と秋の空って言うけど、それは春の空も該当すると思う。
つい最近ノンケから同性にぞっこんと化した私みたいに。
「忍ちゃんは涼しそうでいいわね。こないだ買っておいた甲斐があったわ」
「毬子さんが見立ててくれたおかげですよ。夏場だけでなく、今日みたいに少し暑い日でもぴったりの素材なので。組み合わせの自由度が高いですね」
いま私が着ているトップスは、先日毬子さんからプレゼントされたもの。
誕生日が近かったから、現金の代わりに選んでくれたのだ。
ゆったり生地のニットで、丈も腕の関節までの短さ。
首元は締め付けられる感触が苦手なことを考慮して広く空いたボートネックのため、快適な着心地だ。
「よかった。あそこ本当に便利よね。わざわざ足を運ばなくても、試着ができるのだから」
ショッピングセンターに行くからそのままお出かけの流れと思いきや、公式HP内での入店は予想していなかった。
全身の写真を登録すれば、服やアクセの試着もオンラインですべて可能。
何より脱いだり服を選ぶのにあちこち移動したりと、余計な体力を使う必要がない。
ということで毬子さんは、長時間にわたって私の着せ替え人形を楽しんでいた。
昔、私も某リ○ちゃん人形でコーディネートを楽しんだ時期があったな。
あらゆるもののオンライン化が進んでいるのは私のような人間にとってはいい時代になったと思うけど、やっぱり外に出ることも慣れていかなきゃという気持ちも強まってくる。
今日のデートプランは好きに決めてとのことだから、ちょうどいい機会だろう。
「あの、毬子さん」
「なあに?」
「今日、行きたいところありますか」
思い切って声に出す。
毬子さんは案の定、何言ってるの? と不思議そうに首をかしげた。
「あ、その、つ……付き合っているわけですし。おうち以外でのデートもしたいんじゃないかなって」
「今まで忍ちゃんに合わせていたとかじゃなくて、わたし、本当にインドア派よ? 学校行事で無理やり行かされたデ○ズニーでも、乗るのもお土産店巡りも面倒でずーっとカフェテラスで本を読んでいたような女よ?」
意外だ。茶髪に染めているせいか華やかな印象があって、ああいうテーマパークとか喜んで自撮りしているイメージあったのに。
「ちなみにお祭りの日は」
「屋台に便乗して、近くのスーパーでお好み焼きとか焼きそばとか売ってるじゃない? 並ばなくてもうちで揃えてますよって。そこで適当に買って、ベランダで優雅に食べながら花火を鑑賞するのが最高ね」
胸を張って言うものだから、光景が容易に想像できる。
祭りって遠くから眺めて、雰囲気を味わうのもひとつの楽しみ方だよね。隅○川花火中継とか毎年やってるけど、まさにそれを目的としているだろうし。
「行きたいから、わたしは毎週ここに来てるの。それとも、忍ちゃんがどこかに行きたかったりする?」
「そ、そうですね……」
持病の克服のための外出、もあるけど。
それ以上にこの人と楽しみたいという意思から、私は告げた。
「今、桜って見頃ですよね。このあたりもたくさん咲いてますし、お花見に行きたいかなって。あ、今の時間は暑いので、夕方頃でいかがですか」
家に来たばっかでまた外出、というのも酷だろう。
キンキンに冷やした麦茶も用意したし、涼しいなかでゆっくり休んでほしい。
「ええ、いいわ。誰かとお花見っていうのも、久しぶりね」
いつものように家でゆっくり過ごして、時計の針が午後3時を過ぎた頃。私達は出発した。
陽が傾きはじめたからか、涼しい風が吹いている。
「苦しくなってきたら我慢せず言ってね。おさまるまで待っているから」
小声で呼びかけて、毬子さんと私は並んで歩き出す。
適当に歩き回っているだけでも満開の桜というのは見事なもので、どの木にも感嘆のため息が出てしまう。
スマホのスクショは一体何枚になったか分からない。
「……手、つないじゃったけど忍ちゃんは恥ずかしくない? 人目もあるし」
今更のことを詫びるように、毬子さんが耳打ちしてくる。
「好きな人とつなぎたくてつないでいるんです。誰かの雑音程度ではほどけませんよ」
「ふふ、頼もしいわね」
手をつないでいるカップルすら見かけないけど、バカップルと思われようが関係ない。
今までは、外は恐怖の空間だった。
いつも逃げ場所を探していて、同行者に悟られたらどうしようという焦りからどうか起きませんようにと耐えるだけだった。
当然、楽しめるわけがない。酸素が十分に満ちているにも関わらず、海の中をもがいている感覚だったのだ。
「そういえば工場長が褒めていたわよ。わたしも驚いたわ。一昨日の10ケースから、ほぼ倍の18ケースまでいったなんて」
「金子さんからアドバイスを頂きました。コツを掴んだので、来週からは20ケースをキープできそうです」
「成長著しい部下を持てて嬉しいわねぇ」
なんてことのない自然な会話が出てくるのも、傍に恋人がいるからだ。
たとえ苦しくなっても、焦ることなんてない。
つないだ端から勇気が伝わってくるように、毬子さんの存在は心に安心をもたらしてくれた。
なんとなくで歩き回っているうちに、広い河川敷に入っていた。
両岸にはずらっと満開の桜が植えられていて、花見客もぞろぞろ集まってきたらしく人の密度が増えてきた。
同じようにうろうろしながら桜を鑑賞するだけの集い。
その一部として溶け込んでいることに、外出を楽しめていることに、胸の透く爽快な気分が沸き立ってくる。
「楽しそうね」
「はい。とっても」
やっと、恋人らしく隣を歩けたことが嬉しいです。
そう素直に感想を述べたのだけど、毬子さんは『んー?』と疑問符を浮かべるような声を漏らした。
「恋人らしい、ってなあに?」
「こうして外に出たり、一緒にご飯を食べたり、遊んだりして……二人で楽しむってことですよね。私もそうなっていかないとなって」
もちろんおうちデートも楽しい。付き合ってなかったときから、つまらない週なんてなかった。
だけど振り返れば優しく頼もしい毬子さんに頼ってばかりで、それではぜんぜん恋人としての努めを果たせていないと思ったのだ。
「忍ちゃん、カップルの形式にこだわりすぎていない?」
「……え?」
意外な指摘が飛んできて、一瞬思考が固まった。
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