【毬子視点】世は定めなきこそいみじけれ
春の終わりは爽やかで、秋の終わりは聖夜の息吹を覚え、冬の終わりは暖かい。
だけど、夏の終わりは四季の中でいちばんの切なさを感じる。
終戦記念日や夏休みなどの”何かが終わる”時期と重なっているからだろうか。
連日35℃超えの猛暑日が続いている熱気も、いつかは台風にさらわれそよ風に移り変わっていくのだろうか。
今年はラニーニャ現象と聞いているから、夏が酷暑で冬が極寒らしいわね。また節電が呼びかけられるのかしら。
この時期になるともうひとつ、忘れられない思い出がよみがえってくる。
いつかの大学時代を。
『卒業するか休学するか就職留年をするか、親に迫られちゃったよ』
7月になり、周囲が海外旅行だの国内旅行だので浮き足立ってる頃。
未だスーツで日々都内を回っていた友人は、あっけらかんと言い放った。
春先に就活を終えていたわたしは、もう少し危機感を持ってよと内心呆れていた。
わたしたちにあるのは新卒カードと大卒ブランド。
それと資格取得やサークル活動やインターンシップといった”打ち込んだ実績”だけ。
だからなんとしてでもしがみついて、正社員切符を手に入れなければならないのに。
新卒神話にとらわれたわたしは、闇雲に受けてたって意味がないわ、自己分析や就活マッチングアプリを利用してサポートを受けてみようと切り出した。
就活は運と縁で、いつかは巡り合えるからと。内定者の余裕から。
それがどれだけ、笑顔の裏で深くえぐられている彼女の傷に塩を擦り込んだのか。
それくらいのことはもうとっくにやっているのだと、最期まで気づかずに。
『50社いったよ。100社までもうひと踏ん張りだ』
『8月もう半ばかあ。まだスーツ着てる私ってレアモノじゃん?』
『こんだけお祈りされたら、私もう神になれるね』
そして9月に差し掛かる頃、友人は自宅で首を吊った。
どんなときも笑みを絶やさず、就活に励んでいた彼女が。
前日まで和気藹々としながら飲み明かして、また遊びに来るからと手を振った彼女が。
テーブルに、『これで奨学金がチャラになるね』とまるで買い物メモのような軽い筆致で書き残して。
さらに数日後、わたしのもとには『経営状態の悪化による内定取り消し』の通知が届いた。
多くの新卒に採用を出していた羽振りの良さが仇となり、企業に全員を迎え入れる余力は残されていなかった。
結果、優先順位が低い大学生を切る決断を下したのだ。
そして、わたしは切っても問題のない対象と判断された。
順調だと思っていた人生のレールは、紙切れ一枚によってあっけなく外されたのだ。
あるいはこれこそが、あの子に寄り添えなかった罰なのかもしれない。
そのときにようやく、心が虚無へとうつろぎたった1つの漢字がはっきりと浮かんできた。
死ねば楽になれる。すべての苦痛から解放されて、先立った者に会える。どんな人間でも誰かに悲しんでもらえる。
死にきれたって、とても勇気ある行動で幸運なことだったんだって。
意識が浮上し、薄れていた五感が起動を始める。
最初に知らせたのは室温だった。
身体に蒸し暑さがまとわりついて、汗がじっとりと肌着を湿らせていく。
たまらず蒸し風呂と化していた布団を跳ね除けた。
ああそうだ。寒くなってきたからって除湿に変えるのを忘れて、消したんだったわ。
夜間熱中症を恐れたわたしは、リモコンを探そうとした。
重いまぶたをこすって、薄暗い室内をぼんやりと捉える。
目的の物はスタンドライトの隣にあった。
除湿のボタンを押して、そこで。
中途半端な時間に起こした目覚ましに気づいた。
「…………」
隣で寝入ってると思っていたわたしの恋人、忍ちゃんは喉を押さえていた。
呼吸が浅く、ときおりぐっと喉仏が上がる。
最近見なくなったと思っていた持病が再発したのだとすぐに分かった。
「大丈夫?」
こういうときは落ち着くまで見守ること。下手に心配すれば、余計に悪化する。
今まではそうしてきたし、分かっていても今の忍ちゃんは苦しそうに見える。
あくびが止まらないのと似た原理で、喉がクセを覚えてしまい空えづきのループにハマってしまったみたい。
隣で呑気に二度寝できないほど、ひゅうひゅうと死にそうな呼吸音が漏れ続けていた。
忍ちゃんは目をつぶって安眠に戻ろうとしていたけど、誤作動を起こした脳が許してくれない。
胸元を握りしめていたシワが強くなって、寝ていられないと音を上げたまぶたが開く。
目が合って、起こしてごめんと言うように忍ちゃんの手が上がった。
「いいのよ」
気にしてないわと首を振る。
わたしも生理痛に(子宮を)叩き起こされて、しばらく闘っていたけれど吐き気と痛みで眠気が吹っ飛んだこと、よくあったもの。
さて、まずは締め上げるクセがついてしまった喉を均さないとね。
苦しさからまた喉を押さえようとする忍ちゃんの手首を掴んで、わたしは覆いかぶさった。
忙しなく隆起する胸を押さえつけるように、さらに密着する。
失礼するわ、と声をかけると弱々しく頭が揺れた。
「…………」
唇を重ねて、息を静かに吹き込む。
深呼吸を共有し、足りなくなった酸素を補う昔ながらの人工呼吸療法を。
図らずも、忍ちゃんとの最初のキスはここから始まったんだっけ。あのときは真冬だったけど。
今は、高熱にうなされているような熱さを吐息から全身に覚える。
額には汗がにじんで、掴んだ手首も、寝間着越しに覚えた体温も湯気が出そうなほどに熱い。
身体感覚が過敏になる夏場に、この持病は引き金になりやすいとは聞いた。
けど、それだけが理由じゃないことはお互い声に出さずとも分かっていることだった。
「……うん。だいぶ楽になった」
しばらく折り重なって、息を吹き込んで。
ようやく呼吸が安定してきた忍ちゃんが、辿々しく口を開く。
暑そうに胸元をぱたぱたあおいで、はーっと息を長く吐いた。ずっとくっついてたから、28℃の冷房でも北風並みの冷気に感じるわね。
「お水飲む?」
「うん。でも大丈夫だよ、もう動けるから」
さっとベッドから降りると、ひらひら手を振って忍ちゃんは階下にある台所へと向かっていった。ありがとうとごめんねを付け加えて。
一人分の温度が消えたシーツに寝っ転がって、冴えてきた頭で考える。
この発作は、心労によるものだ。
原因は、就活疲れ。
わたしたちのいる会社は廃業が決定し、営業終了日は着々と迫っている。
会社都合退職だから失業給付が出るとはいえ、忍ちゃんは真面目な子だった。
転職で苦労した苦い経験があるから、なおさら早く行動しないと長期化してしまうだろうと。
再就職手当のメリットよりも、会社に属してないと不安になっちゃう気持ちは分かるのだけどね。
あのときと同じだ。
わたしは再就職先が決まって、忍ちゃんは今も就活中。
そのことが彼女をどれだけ焦らせ発作が出てしまうほどに辛い思いをしているか、考えるだけで胸が痛くなる。
こういうときは、どう支えるのが正解なんだろう。
不登校児がいる親御さんも、こんな気持ちになったのかしら。
学業は大事だけど、無理やり行かせるのも正解とは言いづらい。
社会復帰するか引きこもりコースを歩むか、すべては子供次第だからどう導いたらいいのか接し方に悩む。
先輩と後輩の関係じゃなくなったから、転職のタイミングで晴れて一緒に住むことが決まったのに。
忍ちゃんの家に住民票を移して、やっと待ち焦がれた同棲生活が始まったのに。
喜びよりも、苦しい気持ちのほうが強くなっているだなんて。
さて。今日もいつもどおり、わたしは残務処理という名の出社日だ。
忍ちゃんは就活のため、有給でいない。
今日は2社ほど面接が入っているみたい。
この暑い中スーツをまとい、苦手な電車に乗る彼女にLINEを送ってわたしは車に乗った。
「……さん。本庄さん?」
「…………あ、すみません」
床に散らばった段ボール箱を、あわてて片付ける。
わたし、いつ段ボールの束を持ってどこに行こうとしていたのだっけ。それすらも一瞬思い出せなかった。
隣に立っていた部長が素早く拾い集めて、僕が運びますから、と心配そうに声をかけてくる。
「暑いですからね。しばらくそこのスポットクーラーで冷やしたほうがいいですよ」
「いえ、体調面では特に。ぼーっとしていたみたいです」
それに見た目でいえば、部長のほうが暑そうだ。太っている方というのもあるけど、顔は汗だくでてかっている。
今も工場内の熱気にふうふう言いつつ、首に巻いたタオルでぬぐっているものだから心配になってきた。
「見た目ほどじゃないですよ。保冷剤は巻いてますから」
「でも」
「いいから。喉が渇いていなくても、水分補給は徹底してください。熱中症は一度なれば癖がつくうえ、回復にも時間はかかります。雇用を守れなかった者の努めとして、せめて体調面だけはお節介を聞き入れてください」
いつもの穏やかさとは打って変わった強い口調で、部長は束の段ボールを持っていってしまった。
……でも、自分じゃなかなか気づきにくいものよね。ここで倒れたら洒落にならないし、ちゃんと言うことは聞きましょう。
見渡すと。あくせく動いているのは工場長と部長と狭山さんくらいで、あとは個々の持ち場に配置されたスポットクーラーの風を受けていた。
工場内は古いし、こういう猛暑日は常に冷風を受けてないと危険なのよね。とくに今日は、40℃近い酷暑みたいだし。
わたしは急いで持ち場に戻り、水筒を取り出した。
氷をたくさん入れたスポーツドリンクの冷たさが喉から臓腑に染み渡り、生き返る心地が湧いてくる。
時刻は、そろそろお昼を回るところ。だから部長も休めと言ってくれたのかしら。
冷風を吐き出す排出口に顔を近づけ、前髪をぶわぶわと揺らす。
学生時代、公立とはいえクーラーのない教室でよく乗り切ってたわね。わたしたち。
あの頃は夏日であっても、30℃くらいだったからかしら。
「工場長からの差し入れだって。よかったら」
「わあ、ありがとうございます」
鳩山さんから袋に包まれた棒アイスを受け取る。
爽やかな水色の、昔懐かしいソーダ味のアイスだった。
そういえば忍ちゃん、ただでさえスーツで熱こもりやすいんだからちゃんと水分摂ってるかしら。
そんなことを考えつつ封を切って、澄んだ甘さに舌鼓をうつ。
この室温じゃ溶けるのも早そうだし、垂れる前にいただかないとね。
「上里さんは有給?」
「ええ、転職活動で……」
「えー? まだ決まってないんだ。だいぶ前からやってるって聞いたのに」
鳩山さんは意外そうにアイスをかじった。若くても厳しいんだね今、と後頭部を掻きながら。
ちなみに彼は失業手当をもらいながらゆっくり探すらしい。
……本当は、それくらい気軽に構えてたほうがいいと思うのだけどね。
他の人の今後については、鳩山さんが大まかに教えてくれた。
隣県の工場への異動、本社への単身赴任、退職して自分で探す。
そのいずれかの選択肢があって、大半は異動を選んだことを。
隣県とはいえ、通勤圏内の人が多かったのが不幸中の幸いってとこかしら。
わたしも声が掛かったけど、収入の面で辞退することにした。
稼げるうちに稼いでおきたかったし、何よりわたしには支えるべきパートナーがいるから。
「次はちゃんとクーラーがあるとこにしたいわな」
工場の暑さはいつか死ぬわと危惧した鳩山さんは、飲食業界に行く予定だと語ってくれた。
ああいうとこも厨房は暑さむんむんのイメージがあったけど、副業で短期のバイト経験をした彼によれば、空調が効いている飲食店のほうが多かったらしい。
少なくとも、ここよりは。
「上里さんもまじめだよねえ。いまクソあちぃし、夏が落ち着いてから探せばいいのに」
「そうですよね……」
「まー、取り残されてる感あって休む気になれないのは分かるけどさ。俺の息子も就活中だし」
鳩山さんのお子さん、もうそんな歳になったのね。わたしが入社したての頃は高校に上がったばっかと聞いていたし。
……ああ、でも8月ってことは。
「あいつも今日の朝からな、面接3本あって都内行ってんだわ。この時期になるとリ○ナビもマ○ナビもほとんど残ってないから、とにかく受けなきゃって」
溶けかけたアイスの欠片を飲み込むと、鳩山さんはスマホを取り出した。
LINEのトーク画面を眺めて、『品川まだ行ったことねーなー』と羨ましそうに語尾を伸ばす。
「今って基本みんな進学するよね。ひとりだからいいけど何人もいちゃ、老後資金すっからかんになっちまうよ」
「身も蓋もない話ですが、新卒じゃないとまともな仕事に就けないからって風潮があるんですよね。大卒の称号を得るためのFラン大学がわんさか建ってるのも、だいたいそういう理由です」
「あはは、じゃあ俺みたいな高卒とかどうなるねんって話だ」
「わたしも既卒だったので人のことは言えませんが……大企業はともかく、中小や零細まで学歴を見るようになったのはシビアな話ですよね」
LINEに返信して、鳩山さんは小さく息を吐いた。丸坊主の頭にタオルを巻いて、じっと手元のスマホを見つめる。
「あいつ、飯残す日増えたんだよ」
昨日は嫁さんが好物のハンバーグ作ってくれたのに、半分くらいしか入らなくてさ。
今朝も胃がその気じゃないからって、冷蔵庫の中で手つかずで。
そう鳩山さんは、トーンを落としてつぶやく。
「毎日毎日、金払って暑いスーツ着ていろんな会社渡り歩いて。不採用通知受けるたびに、社会にいらないって言われてるようでしんどいと。ちょっと前にそう愚痴られたんだ。あんなん、面接官に気に入られるまで口説くゲームだろうに」
「お詳しいのですね」
「だっておかしいじゃん。俺みたいな低学歴が働けてるのに、はるかに優秀な子供が社会に必要とされないなんてさ」
そうなのよね。
会社に好かれる。それだけで就活は、あっけなく幕を閉じる。
いかに高学歴でも経験豊富でも、結局最後は相性だ。
たったそれだけのことに、わたしは卒業してからやっと気づいた。
嘘つき合戦だと揶揄された就活の本質を、身をもって知った。
好きか嫌いか。その見えない感情にわたしたちは振り回され、かき乱され、人生を左右されていたのかと。
「親としてはなんでもいいんだよ。生きてさえくれれば。フルタイムで働いてりゃ、一人で食うぶんには困らんからって」
「食べていける、それだけで十分ですよね」
「そーそー。だから上里さんにも言ってやって。あんまり根詰めすぎんなよって」
そこで昼休みを知らせるチャイムが鳴って、鳩山さんとの会話を切り上げる。
給湯室にあるクーラーボックスを借りられるから、上里さんにアイス持ってってあげなよってありがたい言葉も受け取って。
そうね。ちょっとお家に戻って、アイスを冷凍庫に置いていくのもいいわね。
信号待ちの途中、スマホが震える。忍ちゃんからのLINEだった。
ひとつ面接が終わって、今ファミレスにいるよと。
絵文字も顔文字も添付された写真もない、シンプルなメッセージ。
その飾り気のなさから、彼女がどんな精神状態にあるかはなんとなくわかってしまう。
面接では、自己肯定感も武器のひとつだ。
だから口が上手い人は好かれるし、ひとつ内定をもらった人はギリギリまで就活を続ける。
だけど、不採用続きであれば。次も駄目なのかもと悲観的になり、それが態度にあらわれてしまう。負のループだ。
今の忍ちゃんは、どうしてもかつての友人とだぶってならないのだ。
わたしにもっとお金があれば、養ってあげられるのに。
前にぽろっとそう言ったらその必要がないくらい稼ぐからって、やんわり断られてしまったけど。
「あ、おかえりなさい」
仕事が終わって帰宅すると、すでに忍ちゃんが戻ってきていた。
台所からは野菜を煮込む香ばしい匂いが漂い、食欲を刺激する。
当然だけどとっくにスーツからは着替えて、カジュアルな夏服にエプロンという出で立ちで迎えてくれる。
「都心、今日39℃って言ってたわよ。身体のほうは大丈夫だった?」
「へーき。オフィスは涼しかったし、面接始まるまではそのへんのお店で冷房に当たってたから」
都内はそこかしこに避暑施設があっていいね、と旅レポートのように思い出を振り返りつつ、忍ちゃんは着々と夕飯の支度に取り掛かっている。
肉体的にも精神的にも疲弊しているだろうに、まるでそのそぶりは見えない。
「今日、差し入れでアイスをいただいたのよ。冷凍庫に入れてあるから、あとでどうぞ」
「いいの? ありがとう。ついでに私もお土産買ってきたんだ」
「そうなの? ありがたくいただくわ」
……でも、面接のたびにお土産を買ってくるのは忍ちゃんの懐が心配になる。
ほぼ毎日交通費と食費が出ていくわけだし、向こうは物価高いし。
面接の話題に切り替わらないように、なのかもしれないけど。
「東京に行ったらうまいもん食っとけ、って花崎さんが言ってたんだよね。確かに高いけどご飯は美味しいし、面接のためだけに行くよりはいいし。無理してるわけではないよ」
ああ、だからわたしにはお土産を買ってきてくれるのかしら。
自分だけ美味しいものを食べてる引け目とかがあって。
にしても、あの忍ちゃんが電車を使うようになって、単独なら外食も大丈夫になったなんて。
就活中だから普通の光景ではあるのだけど、あの頃のあなたに聞かせたいわね。
未来のあなたは、ちゃんと前に進んでいるわよって。
お腹も空いていたのでちょっと早めの夕食を済ませて、わたしたちはぼんやりと食後のテレビを眺めていた。
お茶をすすって、忍ちゃんが買ってきてくれたお土産をつまむ。
うん、名物だけあって美味しい。
ふわふわのスポンジ生地に包まれた、このカスタードのなめらかさがたまらないわね。
「毬子さん」
口と手を拭いて、背筋を正した忍ちゃんがつぶやく。
「ありがとう。ここに来てくれて」
わたしの手を取って、忍ちゃんは両手で静かに包み込んだ。
忍ちゃんの手の中は熱く、力強い。
入社当時のしなやかだった指は長年の肉体労働で関節が太くなり、ごつごつとしている。
だけどそれはわたしも一緒。
互いにたくましくなった武骨な手には、苦労も喜びも汗も涙も沁み込んでいる。ちょっとずつ、大人になりかけてきた証拠だ。
「ごめんね。せっかく長年の悲願が成就したのに、暗い顔ばっか見せてきちゃって。あこがれだった同棲生活、もっと楽しまなきゃいけないのにさ」
「いいえ、それが共に生きるってことだもの」
恋愛も、人生も、きらきらしている時間よりも辛いことのほうがはるかに長く感じる。
だけど、見方を変えてみればきらめく一瞬はそこかしこに転がっているのだ。
週末のごほうびに奮発する、出勤前にペットを愛でる、休憩中、大好きなグループの曲を聞く。
ちょっとチャンネルをひねるだけで、世界は変わる。
なんかの随筆でも書いてあったわね。
限りある儚さのなかだからこそ、余計に美しく感じるのかもしれないって。
人生、案外そこまで捨てたものではないのだから。
「大丈夫。私はずっと、ここにいるから」
でも、たまにあなたに逃げてもいいですか。そんな可愛い台詞を放って、忍ちゃんはわたしの胸に抱きついてきた。
「今は我慢しなくていいわ」
頭を撫でて、顔を埋めたまま微動だにしない忍ちゃんにささやく。
やがて泣き声の代わりに、恨み節が漏れ始めた。
面接しんどいめっちゃつらいまじ就活なんて否定され続けるイベント滅べばいい。堰を切ったように、つらつらと。
ええ、どんどん吐き出しちゃって。どんな顔のあなたも、ぜんぶ見せて欲しいから。
あの頃、こんなふうに受け止めていたら友人を失うことはなかったのだろうか。
きっと近くに浮かんでいるであろう彼女を思い浮かべて、ふっと心が曇る。
だけど、過去のことを悔やんだってしょうがない。友人の選択を、否定してはならないのだから。
「すっきりした?」
愚痴の弾が尽きたマシンガン忍ちゃんがおとなしくなって、わたしの膝に頭を預ける。憑き物が落ちたように、表情には落ち着きが戻っていた。
「毬子さんがつらくなったときは、今みたいに胸貸したげるからね」
「ふふ、そのときはお言葉に甘えちゃおうかな」
小指を突き出して、互いに絡める。
小さなやりとりの積み重ねによって、今出口の見えないトンネルを進んでいる彼女を少しでも照らせるように。
「忍ちゃん、次の面接っていつ?」
「明後日」
「わたしは明日有給だから、忍ちゃんが帰ってきたらどこか連れてってあげるわよ」
「……うん。ここんとこずっと面接ばっかだったからいいかも」
毬子さんともぜんぜんデートできてなかったしね、と膝の上の忍ちゃんは手を伸ばしてきた。
察して頭を下げると、つむじに手がふわっと触れる。
このひとときこそが、きらめく時間だ。
大切な人と触れ合うだけで、明日も生きようってささやかな活力に変わるから。
不思議なことに。不幸の連鎖なんて言葉があるように、幸福も連鎖するんだなってわたしたちは知ることになる。
忍ちゃんに採用の電話が掛かってきたのは、その直後だったのだから。
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