【毬子視点】あなたが欲しい

「私はいつまでもお待ちしておりますから」


 自問自答を繰り返していたわたしを現実に引き戻したのは、忍ちゃんの一言だった。

 唇が耳元に触れて、鼓膜を撫でていく。くすぐるウィスパーボイスが、痺れそうなほど耳に心地良い。


「なにかできることがございましたら、なんでもお申し付けください」

 わたしが重度のスランプに陥っているのだと忍ちゃんは見抜いていて、モチベ回復のために協力を申し出てくれる。

 その優しさが、痛い。


 できること。交流をやめて、わたしだけを見てほしい。

 言えるわけがない。束縛系彼女にもほどがある。


 忍ちゃんはやる気スイッチが入らないわたしをその気にさせたいと躍起になっているのだろうし、わたしだって他の並み居るライバルたちに勝つには描くしかないのだ。


 ゴールは見えていても、いっこうにエンジンがかからない。

 なら、この状況で、この空気で最適なお願い事はひとつしかない。


「じゃあ、今日は忍ちゃんからしてくれる?」

「して、って」


 忍ちゃんの表情が固まる。

 数秒の沈黙を挟んで、言葉足らずで意味深な台詞から意味を理解したのか、忍ちゃんは自分の口唇を指差した。


「忍ちゃんのペースでいいわ。そしたらやる気出るから」

 目を閉じて、少しだけ唇を突き出す。

 いつもは強引に奪う側だけど、今日は委ねるネコになりたい気分だったのだ。


「失礼します」

 仰向けになったわたしに覆いかぶさって、静かに唇が下りてきた。


 匂い、鼓動、体温。

 五感のすべてが、忍ちゃんに埋め尽くされる。


 柔らかくて瑞々しい感触を受け止めて、求められている嬉しさに沈んでいた心が躍動する。

 雲の切れ間から光が差して、いくつもの風船が打ち上がっていくように。


 わたしは悪い子だからあちこちをいじっちゃいがちだけど、忍ちゃんはストレートだ。

 技巧で勝負せず、ただ優しく安心感をもたらす愛で包み込んでいく。おりこうさんのキスね。


 愛される側というのは幸せなことだ。

 現代人のほとんどは愛に飢えている。


 男女はお互いに包容力を求めるようになってきたし、全身全霊で愛を伝えてくれるペットの需要は無くなることがない。

 母親神話が特に強いのも、この国特有のものかしらね。


「っ」

 なのに、わたしの器は底なしだ。

 腕を伸ばして、忍ちゃんの後頭部を押さえつける。腕で抱くように、閉じ込めるように。


 もっと、と。言葉にする間も惜しくて、背中に回した手で文字を描く。

 うなずいたように、わずかに忍ちゃんの頭が揺れた。

 ふたたび目を閉じて、心臓の音が重なる。きゅーっと心地いい締め付けが胸のなかを支配していく。


 こんなにも近くにいるのに、どうしてざわつく不安までもが心をかき乱していくんだろう。



「忍ちゃん、本当に誰ともつきあったことないの?」

 唇が離れて、腕の中に優しく抱き寄せられて。香りと体温に埋もれながら、わたしは尋ねてみた。


「恋人と呼べる方は毬子さんが初めてですよ」

「男女問わずモテそうなのに。忍ちゃんが採用された理由、若さやスキルの面もあるけど、きれいだからってのもあったのよ?」

「こんな中小でも顔採用ってあるんですね。……ああ、目の前に前例がございましたか」

「ありがと。どんな理由でも、未経験で雇ってくれたのはありがたいことではあるのだけどね」


 ようやく報われたからだろうか。わたしは自分でも引くくらい、彼女に対して依存心というか嫉妬心がふくれ上がっている。どうか、自分が最初で最後の人でありたいと。


 まだ外食は無理だけど、最近は一緒に街中を歩くことも増えた。

 すれ違うひとはたまに、日本人らしかぬ手足の長さをもつ忍ちゃんを物珍しそうに振り返る。


「忍ちゃん、気付いてないとこでモテてるんだからね」


 あのひとかっこいいーって黄色い声を上げる女の子の声も聞いたことがある。

 忍ちゃんはそれは毬子さんに向けられた声ですよって謙遜するけど、視線でわかるのだ。

 あんなに目立つ人とすれ違ったら、わたしだって振り返る。


 周りの目を引くくらいきれいな、自慢の彼女。仕事にも勉強にも持病の克服にも前向きな、自慢の部下。

 伸び悩んでいる絵描きさんのファンになって全力で応援してくれる、創作者からすれば神様みたいな人。


 こんなにも素敵な人が恋人なんだってことに、どうして喜べないんだろう。

 付き合ったら、複雑な想いを抱えなくて済むと思ったのに。むしろ、前より酷くなっている。


「……ふふ」

 苦虫を噛み潰したような顔をするわたしとは裏腹に。忍ちゃんは何かがおかしいのか、ふわりと笑みをこぼした。


「やきもち、と受け取っていいのでしょうか? それは」


 くすぐったそうに頬を緩ませて、わたしの額を撫でていく。

 嬉しそうにはにかむ顔に、こっちまで胸に溜まってた苦味や酸味が中和されていくような錯覚さえ覚える。

 好きな人の表情は、簡単に心情を塗り替えてしまうのだ。


「やきもち、なんてかわいい言葉じゃないわ。醜い嫉妬よ」

「それであれば、私も一緒ですよ」

「え」


 嫉妬? 忍ちゃんがわたしに? どういうこと?

 背中に回された腕の締め付けが強くなって、頭上から本音が放たれる。


「ずっと、今もです。今までどれだけの人と付き合ってきたのかとか、何をしてきたのかとか、手慣れているくらい買ってきたのかなって考えると。気がおかしくなりそうなんです。もっと早くお会いしたかったなって。どうにもならないと分かっていても、割り切れないのです」


 初めて聞く、恋人の複雑な心情。

 だけど忍ちゃんは、こうして悶々としているのが自分だけじゃなかったことに安堵感を覚えたのだという。


「毬子さんが言う、醜い感情まで。強く向けられていることに嬉しさを覚えてしまったんです。今は私のことばかり考えてくれているんだって」


 いびつですよね、と苦笑いを浮かべる彼女に、わたしはあふれる気持ちを抑えられず身を乗り出した。なにそれ、かわいすぎる。

 そのまま、唇を重ねる。


「この先もずっと、わたしはあなた一筋よ。……自分でも抑えようがないくらい、今も」

「奇遇ですね。私もですよ」


 そうして似たもの同士くすりと笑って。また深い口付けに溺れていく。

 過去は変えられない。だけどその分だけ、未来を思い出で埋め尽くしていけばいい。


 もっと忍ちゃんの力になりたい。もっと彼女のいろんな顔が見たい。

 心も、身体も、人生も。なにもかもが、欲しい。


 欲しいのであれば、行動するしかない。

 絡まっていた糸が解けていくように、ふたたびやる気がみなぎっていくのを感じた。



 さあ、もう一度描こう。

 わたしはまっさらなキャンバスを前に、ペンを手に取った。

 もう逃げない。わたしの作品を完成させることができるのはわたしだけなんだ。


 絵を描くことから逃げて、恋人の立場に固執しメンタルを保とうとする。

 そんな不誠実な姿勢で心をつかめるはずがない。身体では落とさないって決めたのだから。


 プロの神絵を描けっこないなんて決めつけるな。表現技法が飛び抜けているだけで、ツールは同じ。


 人が描いている以上、作者ごとに技法の癖がある。

 画風をどんどん吸収して、近づき並んでいずれは飛び越える覚悟で筆を入れろ。


 こうしてわたしは趣味に本気の火をつけた。

 帰宅後から寝るまでのわずかな時間、会社の昼休み、休日。自由に使える時間のほとんどを、絵に費やした。


 画力が上がっていると実感できるのは、伸びていく数字のみ。

 だけど今は、どれだけ多くの人から注目を浴びようと高揚感は湧かない。

 わたしの中ではまだ、成長途中であり未完成なのだから。目指している高みにはまだまだ足りないのだ。


 技法練習も兼ねて作品を発表する傍ら。

 1枚描きあげるたびに掴んだ技法を、広がった視野を、たぎる情熱をもう一枚の絵にぶつけた。


 誰にも見せることなく、亀のごとき歩みで完成への途方もないピースをはめていくキャンバス。

 たったひとりのために持てる実力のすべてをこめた、線と色彩につづる恋文を。


 周囲と比べてしまう気持ちがなくなったわけじゃない。

 自分よりも後に始めた人。自分よりも若い人。

 才能と努力の天才秀才たちにあっという間に追い抜かれたときは、凡才である現実に打ちのめされそうになる。


 それでも。どんなに苦しんだって筆を止められないのは、やっぱり描くことが好きだからだ。


 思う存分嫉妬したっていい。立ち止まって見つめ直したっていい。

 その先で自分を貶め相手を下げることなく、また筆を執ればいい。


 作品には描き手たちの様々な想いがこめられている。

 どんな感情であれ完成に至れたのであれば、それこそが原動力なのだから。

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