共に乗り越えていく

 翌朝。覚醒しつつある意識が最初に知覚したのは、息苦しさだった。


 久々に来やがりましたかこれ。身体を起こして、喉に指を当てる。


 治ったと思った頃にやってくるのはよくあることだよと担当医は言ってたけど、時と場所は選ばないんだもんな。

 初夜の次の日なんだし、もうちょいムード読んでくれよ。


 窓の外は白く、濡れた木々が重たげに葉っぱを垂らしている。

 ときおり庇を叩く雨音が耳に届く。雨の日特有の寒々しい空気が、熱が引いた肌にぶるっとまとわりついてくる。


 昨日は真夏かってくらい晴れ渡ってたのにね。

 この急激な気圧の変化も、原因の一つだろう。


「おはよう……?」

 少し経って、隣で寝ていた毬子さんが目を覚ました。

 体を丸めて浅い呼吸を繰り返している私を見て、大丈夫? と背中に手を添えてくる。


「はい……あ、いえ、」

 つい敬語に動いてしまう口をつぐんで、言葉遣いを切り替える。


「少ししていればおさまるから。ありがとう」

 まだ新しい口調には慣れず、ぎこちない言い方になってしまう。

 心配そうな面持ちから少しだけ毬子さんの表情が緩んで、ぽんぽんと背中が叩かれた。


「ずっと敬語だったから新鮮ね。ご家族の前ではこんな感じなの?」

「そう……だったと思う」

 家族どころか友達とまで離れて数ヶ月も経っているから、いまいち感覚がつかめてこない。


 毬子さんと出会う前の私って、どんな感じだったっけ。

 それすらも薄れていることに、自分の占める彼女の割合が想像以上に大きくなっていることに気付かされる。

 私は、変わっているのだろうか。


「いろんな忍ちゃん、もっとわたしに見せてね」

「そうなるよ。これからずっと」


 先輩でもあり、恋人でもあり、いずれ家族となる人へ。少し照れくさい言葉を贈る。

 まだ苦しさは抜けないけれど、自然と笑みがほころんできた。写し鏡のように、毬子さんも柔和な笑みを浮かべている。


 数日限りの、恋人との生活。

 いつもと違う日常は、そこかしこに発症のスイッチが潜んでいる。


 思い通りに過ごせない日もあるかもしれない。けど、うまく付き合っていくしかないんだ。

 この疾患に限らず、何かを抱えながら暮らしている人は大勢いるんだから。



 朝食を済ませて、一通りの家事も終えた。

 今日は一日中雨らしいから、図らずもおうちデートということになる。


「見て見て。忍ちゃんがいるわよ」

 金子さんのweb漫画では、ついに私らしきキャラクターが登場した。


 最近現場へ配属された若い新人。誰もが震え上がる厳しい上司の下につくが、持ち前の元気と素直さであっという間に職場へ馴染んでいく……


 多少褒め過ぎだとは思うけど、設定だけなぞれば私のことだよね。私でいいんだよね。


「金子さんって私にどんなイメージ抱いてたの」

「この漫画の中では一番のイケメンって設定らしいわよ」


 グラサンマッチョ毬子さんで察してたけど、私のキャラデザもなかなかぶっ飛んでいた。てか金子さんのイケメンの基準がわからん。


 スキンヘッドで顔に傷跡があるちょび髭色黒のあんちゃんなんだぜ。

 一重で細目だから目つきがすげー悪い。

 ここ来る前に何人か埋めてそうな面構えだ。元気で素直(大嘘)と読者に突っ込まれてそう。


「仕事もあるのに、毎週きっちり上げてこのクオリティって。やっぱりプロだった方は違うわね」

 絵を描く側としては、一定の画力で早く描く能力と尽きないアイディアは喉から手が出るほど羨ましいのだろう。


 働く大人の視点で見ても、副業を両立している人はやっぱりすごい。それも片方は趣味と実益を兼ねているのだから。


「毬子さんはお仕事とか募集したりしないの? あんなに上手くなったのに」

「しないわ。わたしは描きたいものしか描かないもの」


 スマホを掲げて、きっぱりと毬子さんは言い切った。

 画面には昨日私にプレゼントした、あの文句なしの大作である一枚が映し出されている。


「描き手の最終目的はプロが大半でしょうけど、そうなると利益が第一になる。流行りやクライアントの要求に従って、納期までに仕上げないといけない。たとえ描きたくないものでも。ヒット作を生み出した方に聞くと”描きたいものとは違ったけど描くしかなかった”って答える人はわりといるわよ?」


「ギャグ漫画家とか精神病むって聞くよね……どんなに辛くても笑いをひねり出さないといけないし」


「だからこれからも、わたしは描きたい絵の最高の一枚を追求し続けるだけよ」


 そう言いながら毬子さんは、今もiPadに向かって手を動かし続けている。描くのが好きで好きでたまらないと言った顔だ。

 一度は筆を折った人が、こうして戻ってきてくれたのは本当に嬉しいことだ。


 どこまで進化を続けるのか、ずっと傍で見届けたい。

 恋人として、ひとりのファンとして。


 毬子先生の邁進を期待し、上げた絵にいいねを押したタイミングで。

 突如私の携帯が鳴った。


 発信元を見ると、父親からだった。

 え、いきなりどうしたんだろ。


「もしもし……え?」


 電話の内容は、予想だにしない出来事であった。



 次の日、即座に日程を今日に指定した私はPCを立ち上げた。

 受け取ったメールを開いて、記載されているミーティングIDを入力する。

 zoomのオンライン面会画面へと、私はアクセスした。


「久しぶり。どう、見える?」

『ああ、見えてるよ』


 画面の向こうには、病院のベッドに腰掛ける父親の姿があった。


「その……大丈夫なの。いろいろ」

『早期発見だったからなあ。ちと前までは術後で吐きまくりでろくに食えない状態だったが……まあこうしてお前と話せるまでに回復してよかったよ』


 離婚前の、私の知る顔で父親はけらけらと笑う。

 いきなり胃がんに罹ったことを知らせて動揺させてはいけないと思って、回復に向かったタイミングで連絡しにいこうと思っていたらしい。


『あの保険のおかげで助かったよ。医療のあれ』

「それは……えと、よかった。うん、本当に」


 年齢的に、いつかこうなることは分かっていたはずなのに。

 家族が、大病を患った。

 そのショックに打ちのめされて、うまく言葉が出てこない。


『胃はいくらか切ったし、退院も近いよ。ま、あと数年は寿命が伸びたんじゃないかね』

「やめてよそういうこと言うの」


 まだ母を亡くした辛さから立ち直れていないのに、父親までもこんなに早く失いたくない。

 20代で、なんて。同年代はまだまだ親と仲良くしている家庭ばかりなのに。


『すぐじゃないんだし、んな泣きそうになることないだろう。八潮やしおなんか、まだかーちゃんのとこにゃいかせねえよ親父って言ってきたぞ』

 ってことは、あの子にはもう知らせたのか。八潮はそういう軽口、よく父親と叩いてたしな。


 それから父親は、不思議そうにあたりをぐるりと見渡す動作を見せた。


『そういや忍。お前いま、どこで喋ってんだ?』

「あ」


 忘れてた。ここは毬子さんの部屋だと言うことを。

 母親の没後、一度父親も家に招いて線香を上げていったから。まだ記憶に新しい我が家の内装を見間違えるわけがない。


『友達か、彼氏んとこか? そうならそう言ってくれよ。面会はいつでも取り付けられんだから。せっかくのGWだろう』

「ちゃ、ちゃんと許可もらってるよ。父さんほったらかしてGW遊べるわけないよ」


 画面外、部屋の隅で黙々と私たちの会話を眺める毬子さんを見やる。

 大丈夫よ、とジャスチャーするように彼女は手を振った。気にしなくていいからと。


「で、でも退院するって分かってよかった。また連絡してね。まだ術後で辛いだろうし、ゆっくり休んで」

『ありがとう。……って俺が言えることじゃないけどな。あとはそのお友達と楽しんでこいよ』

「うん、またね」


 zoomを切って、ノートPCを閉じる。

 またね、ってまだ親と交わせることにほっとする。

 終わったよと毬子さんに伝えると。


「……びっくりした。面談の相手が吉見よしみ先生だったなんて。そういや離婚したって言ってたものね」


 吉見、とはまだ父親が家にいた頃の私の旧姓だ。離婚して母親の名字になったから表札も変えた。


 周りからは別れたってばればれだったろうけど、それくらい母の元夫に対する憎しみは深かったのだ。


「隠してたつもりはなかったんだけど……お父さん、美術教師だったんだ」

「ああ、だからお家にアトリエやあんなに立派な石膏像があったのね」


 やっぱり教え子だったんだ。

 とすると先生と話したかったかな。それを聞いてみると。


「家族団らんには割り込めないわよ。もともとわたしは、いい生徒ではなかったから」


 それに、お友達ですとは嘘をつけない。かと言って、恋人ですとはもっと言いづらい。

 同性愛に寛容になりつつある世の中と言えど、実の親が相手となれば別だ。


「でも……そうね。絵を描くことからは戻ってきましたって。それだけは伝えたいかな。わたしがやる気なさすぎて他の先生から見捨てられても、吉見先生だけは喝を入れてくれたから。厳しい先生だったけど嫌いではなかったわ」


 もしかして、以前父親が言ってた問題児とはそういうことだったんだろうか。


 芸術分野はスポーツと同じく、できる子とできない子で大きく差が分かれる科目だ。


 どうしてできないのか、どうしたらできるのか。教師は寄り添って生徒の道標にならないといけない。

 父親も、現役時代は相当苦労していたのだろう。


「私も、いずれ会いに行こうとは思う。いつお母さんのようになるかわからないから」

「じゃあ、そのときはわたしも元生徒に恥じない作品を持ってご一緒してもいい?」

「うん、ぜひ」


 小指を絡めて、毬子さんはふたたび机へと向かった。

 さらなる画力の向上のために、真剣な眼差しで筆を握って。


 父さん、あなたの生徒はこんなにも変わったのですよ。

 こんな素敵な方と巡り会えて、私は本当に幸せです。


 いつか、そう伝えられるといいな。

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