副業編・ひと月後
レールから外れた者たち
上里、と。優しく澄んだ声が、私を揺り起こす。
目覚めて最初にぶり返してきたのは、羞恥心と後悔であった。
なんであんなお願い事をしてしまったんだ、私。
タメ口&呼び捨てでいいですよなんて無茶振りして。
年が近い女性からタメ口で接されるのなんて、学生時代の友人以来だ。
その唯一だった友人とも敬遠になったから。きっと。友達が欲しい感覚で先走ってしまったのかもしれない。
でも相手年下だぞ。何のプレイだよ。
上里。
耳の奥にはまだ、本庄さんの私を呼ぶ声がこびりついている。
頭の中で反響するたびに奇声を上げたい衝動に駆られる。
近所迷惑なので枕に顔を押し付けた。代わりに、ばたばたと布団の上で両足を漕ぐ。
友達同士ならタメ口は当たり前。相手はお友達から始めたいと言ってきたのに。
どうせ遊びなのに、なんでこんなにも胸を締め付けられるのか。
入社してからひと月ほどが経過した。すぐ終わると思っていたデートも、なんとなく続いている。
今日も今日とて私のやるべきことは変わらない。いつも通り黙々とピッキングリストを出力したタイミングで、あまり耳に入れたくない会話が聞こえてしまった。
「……ええ、申し訳ございませんが書類選考の段階で……今後のご活躍をお祈り申し上げます」
工場長、血も涙もないな。お祈りメールを口頭で読み上げるって。
ここに採用されるまでに数十件お祈りされた身としては、ものすごく胸が痛い。
履歴書返送のため、狭山さんが茶封筒へ丁寧にしまっていく。
「お見送りですか?」
「ま、50歳で未経験だとねぇ」
応募者は年齢と経歴で弾かれたのだ。そりゃ会社に育成する余裕なんてあるわけないし、コストを考えれば若い人材がいいに決まってる。
どんなに労働意欲があっても、レールから外れた者に社会は厳しい。
やり直しがきかない国とまでは言わないけど、ききづらいのは確かだ。
「うちに来るだけありがたいと思わないんですか? ただでさえ万年人手不足で、ハロワで募集掛けても来ないってのに……選り好みしているうえに繋ぎ止める企業努力もしないから、いつまで経っても新人が定着しないのでしょうが」
部長のお小言には概ね同意する。
したところで、やっぱり会社には選ぶ権利があるし唱えた理想論をすぐに実行できないのが現状だけど。
コストも考えずまた口ばっかりと、工場長と狭山さんが同時に顔をしかめた。
仕事中、私は常に得体の知れない不安にかられている。
いつ、あなたはいらないと言われるか。
年齢はもう、20代の半ばを過ぎた。同年代であれば順調にキャリアを積んでいる頃だ。近しい人で言えば本庄さんが良い例だろう。
私はずっと非正規を渡り歩いてきたから、職歴なんて鼻で笑われる有様だ。
金があるやつは金を出せ。
頭の良いやつは知恵を出せ。
何も無いやつは汗を出せ。
会社に対価の給料として、何を提供できるか。
現時点で私が出せるものは労働力くらいだ。
ある意味、副業で本庄さんに自分自身を売りこんでいるのと変わりないのか。
……でも、社員さんから見れば私なんていなくても回るレベルだろうな。
寒い工場で自分たちはくたくたに働いているのに、お前は事務所でぬくぬくすごしやがってとやっかまれても不思議じゃない。
私、このままでいいんだろうか。
仮にクビになっても後任が困らないようにマニュアルを作り上げることが、今私がやるべきことだ。
「
「1日10ケースがやっとでしょ? それだとねえ……」
お昼休み。情報通の川角さんがバッドニュースを出してきた。
どうやら、従業員の金子さんが雇い止めの危機らしい。
金子さんについてはほとんど話したことがないから、詳しいことは知らない。2人の話を聞いていると。
「やる気はある人なんだけどね……人当たりも悪くないし。でも肝心の仕事が遅いから話にならないんだわ」
長らく定職に就かず40を超えたため、危惧した社長の親戚から無理やりねじ込まれたのだという。
つまり、コネ入社。
身内びいきかよ。さっき電話でお祈りされた50代の方が気の毒すぎる。
「でも、直属の上司が本庄さんでしょ? 倍近く年齢差がある人の下で働くって、指導する方もされる方もやりづらいよね」
「あんなに綺麗で穏やかな人なら、男性社員にとってはモチベ上がりそうだけど」
大変だなと本庄さんの苦労を案じると同時に、あの歳で仕事もできてすでに部下もいるんだ……って複雑な気持ちが湧いてくる。
嫉妬心というより、比べて自分の現実に打ちのめされてしまうのだ。
敬語も敬称も恐れ多い。私なんぞ呼び捨てがお似合いだ。
うん、あのお願いは身の程を知って出た台詞だったんだな、きっと。
「…………」
「あれ、どうしたの?」
狭山さんが声をかけてくる。
顔に出ちゃったかな。唇を曲げていたことに気づいて、あわてて口角を緩める。
それでもネガティブな感情は拭えず、とっさの返事に表れてしまった。
「あはは……いえ、私はまだまだだなって。本庄さんみたいに頑張らなきゃって思いました」
ぼやきで終わるところを、とっさに前向きな意見もつけて返す。
「何を卑屈になってるのさ」
私の発言が予想外のものだったのか、川角さんはおかしそうに笑い出した。
狭山さんもうんうんとうなずいている。
聞き耳を立てていたらしい、向かいのテーブルに居た男性社員も『上里さんはじゅうぶん役に立ってるよ』と励ますように補足した。
……何が役立ってるんだ?
いまいち腑に落ちなかったが、詳しいことは教えてくれなかった。
帰り際。
今週末の副業に備えて、私は珍しく帰り道とは異なる方角へと自転車を走らせていた。
緑茶とほうじ茶しかなかったから、お出しする飲み物のバリエーションを増やそうと思ったのだ。
本庄さんに紅茶とコーヒーどっち派ですか、と聞いたところ後者とのこと。
私はあるお店を目指していた。
「いらっしゃいませー」
着いた先は、駅を出てすぐ近くにある大型ショッピングモール……の隣にある喫茶店。
アンティーク風の外装が特徴的で、女性人気がすげー高いらしい。
通りがかった際には、よく女子高生がたむろしてる光景を見る。
コーヒーの芳しい香りがいつも漂っていたから、いつか行ってみたいと思っていたのだ。
といっても外食じゃなくて、コーヒー豆を買うだけだけど。店名にも珈琲ってあるから自信はあると見た。
さて、どれにしよう。
キリマンジャロ、ブルーマウンテン、コロンビア……
名前だけは知っている銘柄が飾られた、ショーウィンドウを眺めていると。
「ねえ。あんた上里だよね」
……誰?
声のした方角を振り向くと、近くのテーブルには複数人の若い女性が私を興味深そうに見つめていた。
げ。
高校時代の、クラスメイトたちだった。
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