人工呼吸

 浅い呼吸にわななく口が、今は本庄さんによって塞がれている。

 直に感じる、人の唇と体温。その熱に融かされていくように、冷や汗に震えていた背中にむずむずとした痺れを覚え始める。


「わたしに合わせて。ゆっくり吸ってください」


 ささやかれて、手汗に冷え切った指先が絡め取られる。包み込むように。


「っ……」


 間髪入れず、再度唇が重ねられる。

 本庄さんの胸が上下して、息が吹き込まれていく。

 ゆっくり吸ってください。彼女の言葉を頭の中で反芻しつつ、肺へと送り込んでいく。


 すう、はあと。2回づつ、数秒に1回。重なる熱と吐息を受け止める。


 本庄さんの鼓動からは焦りを覚えない。緩やかなリズムを刻んで、心拍数を落ち着かせようとしてくれている。


 吸うたびに二酸化炭素がスムーズに取り込まれて、お菓子みたいな甘い香りが胸いっぱいに満たされていくのを感じた。

 いい香水使ってるな……


「そう、いい調子です。上手ですよ」


 不安がらせないように。本庄さんは笑みを絶やさず、穏やかで優しい声を掛けてくれる。


 何度か繰り返すうちにコツを覚えた。

 息を吹き込んだ際に盛り上がっていく胸部が、口を離す時に沈んでいく。深い隆起が大事なのだ。


「んん……」


 よくできましたね、と幼子を褒めるかのように。

 絡めた指がにぎにぎと動いて、私の手へとくすぐったい刺激を伝えてくる。


 どれだけの間吸っていただろうか。

 何度目かになる息継ぎで、ようやく喉のつかえが取れてきた。


「さっきまでは真っ青でしたが、血色が戻ってきております。もう大丈夫ですよ」


 作り物のような美しい顔が離れていって、握りしめていた手にはポケットティッシュが残される。

 夢と現にたゆたうぼんやりとした気分が、一瞬にして現実へと引き戻されていった。


「もっ、申し訳ございませんっ」


 涙だけではなく鼻水も垂れかけていたことに今更気づく。


 恥ずかしすぎる。みっともないにも程があるだろ私。

 そんな状態の女に嫌な顔ひとつせず人工呼吸を施してくれた本庄さんは、天使にも程がある。


「……ありがとう、ございました」

 鼻をかみ終わって、それまで黙って隣で待ってくれていた本庄さんに頭を下げる。


 本庄さんには感謝してもしきれない。だけど同時に、会社の人に持病持ちであることを知られてしまった。

 今みたいに誰かの助けが必要なレベルであれば、なぜ隠していたのか。疑念の眼差しを向けられてもおかしくない。


「会社では普通にしていたように見受けられますが、これまで勤務中に出たことはございますか?」

「いえ。予兆はありましたが、じっとしていれば対処可能です。薬も飲んでおりますので」


 もうひとつ、会社では耐えられたのになぜさっきは発作が出てしまったのかを説明する。


「先ほどは……すみません。同じ会社の方に知られたらどうしようという焦りが、悪化につながってしまいました」


 だから、不特定多数が集う外出先ほど私は予期不安を覚える。

 電車、バス、映画館。密閉空間は『逃げ場がない』と脳が思い込んでしまうからだ。


「わかりました。他言はいたしませんので、どうかご無理はなさらないでくださいね」


 それ以上は追求せず、本庄さんは自宅まで送ってくれた。



 やっと見知った住宅街が見えてきて、家の前で停車する。

 やっぱり、いらないと突き返されたけどお金くらいは渡しておきたい。


「もう、本当にお気になさらないでください。わたしの家はここからそう遠くないですし。何より上里さんはまだ、非正規でしょう。ご自分の生活を第一に考えてください」

「す、すみません……」


 ド正論を説かれてしまった。

 親の家とはいえ、生きていくのにお金はかかる。今の収入じゃ、生活費を引いたらほとんど手元に残らない。


 私の未来を案じて遺してくれた遺産を食いつぶして、日々をつなぐということは絶対に避けたい。

 だからさっさとスキルを上げて、社員を目指さないといけないのに。


「エゴだということは分かっています。それでも……何か私にできることがあれば、お礼をさせてください。本庄さんは命の恩人です」


 大げさな表現ではない。この人の力になることなら、なんだってしたい。

 そうでもしないと、せっかく仲良くなったのに友達だなんて恐れ多いと思って話しかけづらくなりそうな気がした。


「そうですね……」

 本庄さんはしばし考え込むように腕を組むと、思いも寄らない返事をした。



「でしたら。今日ここでお金を受け取る代わりに、上里さんの気が晴れるまでわたしのために働いてもらう。といった落としどころはいかがでしょうか」


 は、働く?

 その一言から何をしてほしいか読み取ることは難しくて、詳細を尋ねると。


「ですので、副業の提案です。平日は会社のために働いているわけですから」


 つまり、休日に? 本庄さんのために副業?

 さらなる説明を求めると、『来週からわたしとデートしてください』と返ってきた。


「デートって、あのデートですか」

「他にどのデートがあるんですか」

「さ、差し出がましい意見ですがその。お店を回ったりお食事をするってことですよね。つまりは」


 どうしよう。

 外で他者を楽しませる。私がもっとも苦手とすることだ。

 せっかく提案してくれたのに、これでは満足に要求を叶えることができない。


「大丈夫です。どこにも出かけませんから。さっき調べましたが、外出が難しいということは把握しておりますよ」

 じゃあ、どこでデートするんだ。オンラインチャットとかだろうか。


「いいえ、ようはおうちデートです。ご自宅がいちばん安心できますよね」

「は、はあ」


 休日、本庄さんが私の家に訪れる。デートっぽいことをする。

 ……え? そんなんでいいのだろうか。


「ご質問よろしいですか」

「ええ、どうぞ」

「デート、と申し上げましたよね。仲のいい女友達同士でわいわい……というニュアンスではないのですよね」

「はい。ご理解が早くて助かります」

 いや、論点はそこではなくて。


「私、女性ですよ」

「そうですね。実はけっこうタイプでして」

「一人の女性として好意を持っている……という解釈でお間違いないでしょうか」

「そうでない方とデートする気は起きませんね」

「デートって割り勘でいいんですよね」

「働く人からお金をもらうビジネスがどこにあるんですか。支払うのはわたし、お代は上里さん自身です」


 つまりそういうことらしい。

 ……さっきは無我夢中だったけど、私、本庄さんとキス、したんだよな。

 いやでもあれは助けるためにしたことで。下心なんてあるわけがなくて。


「上里さん」

 呼び止められて、振り向く。


 本庄さんの鋭い目つきに捕らえられる。

 口端をにっこりと釣り上げて、さっきの行為で少し剥げかけた口紅が見えた。


「っ」


 もう一度、柔らかい感触が唇へ押し当てられる。

 今しがた触れたばかりの私の唇へと、本庄さんの細い指が押し当てられて。


「たとえ緊急時であっても。好意がない人にわたしはこういったことはしません」


 人工呼吸でも挨拶でもない、心からの口づけを受ける。

 好きな人に告白ではなくお金の絡む関係の提案。どう見ても普通じゃない。

 ないけど、そもそも私に普通の恋愛などできるのだろうか。無理だ。


 それに、こんな私を求めてくれる人がいる。文字通り買ってくれている。

 普通か普通でない基準よりも、その事実に私は揺らいだ。

 ようはどうかしていた。


「わかりました。来週よりよろしくお願いいたします」

「ええ、仲良くしましょうね」


 かくして普通の恋人になれない私は、普通じゃない関係を私が好きらしい人と結んだ。

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