発作さえなければ

 パニック障害はいつ波が襲ってくるかわからない。

 何の前触れもなく這い寄って、普通の人なら出来て当たり前の日常リストにチェックを入れていく。

 今まさに”他人の車に乗らない”と記されそうになるチェックを、私は頭の中で打ち消した。


 よりにもよって本庄さんの隣で起こしてたまるか。

 手汗のにじむ拳を、膝の上でぎゅっと握りしめる。


 短く息を吸って、たっぷり時間をかけて吐き出して。これは身体の異常反応ではなく脳の誤作動だと言い聞かせていく。


「上里さん」

「っ、はい」

 吐き出し中だった息を飲み込んで、ワンテンポ遅れて返事を絞り出す。


「このまま直進、でいいんですよね?」

 長らく指示がなかった私に不安を覚えたのか、本庄さんは帰宅ルートの再確認を取る。


「あ、いえ。申し訳ございません。次の信号を左折でお願いいたします」

「かしこまりました」


 十分に息が整う前に声を出したことで、落ち着き始めていた気道にまた違和感を覚えるようになる。


 なんとか気をそらそうと、外の景色をじっと眺める。

 真冬の夜空にしんしんと降り注ぐ、みぞれ雪の光景も長く続かず。

 前方の車のナンバーが見えてきて、運転はそこで止まってしまった。


「混んでますね……」

「……ええ」


 最悪だ。

 雪で視界が悪いから? 帰宅ラッシュ時だから?

 ひどい渋滞ではないからそんなに慌てることもないんだけど、”早く家につきたい”気持ちが先走りかけている私には焦りの感情が影を落としてくる。


「……すみません」

「いえいえ。知らない道なのでむしろ新鮮で楽しいですよ」


 すみません、の一言しか出せない自分に苛立ちを覚える。


 家事もあるのに送迎を申し出てくれたことや、お話できて嬉しかったこと。

 語るべき項目は頭の中でいくらでも出てくるのに、今は言葉にできない。


 息苦しさを紛らわせることに必死で、雑談する余裕がない。

 さっきまではあんなに尽きることなく喋れたのに、今は一言もない状況を望んでいる。

 自分のことしか考えられない。身勝手な思考に、腿の肉を強くつねった。


 早く、早く沈まれ。


 大通りを突っ切って、ようやく車が動き出した。

 この道を直進していくと、やがて学校が見えてくる。


 差し掛かる通学路を曲がれば、それで私が出すべき指示はおしまい。

 あとは自宅に続く住宅街に行きつくのみとなる。


「そうだ、聞いてくださいよ。今度の雑木林合同オーディションで、7期生の誰がメンバー入りかって語り合ったのですが……」


 私はお腹に力を入れて、喉から笑って、相槌を打つ。

 誰かと話して意識を集中させるのも克服のひとつだ。せっかく友達になりかけているのだから、ちゃんと返さないと……


「……っ」

 喉から絞り出していた反動だろうか。

 空嘔を覚えて、私は口元を押さえた。


 大丈夫、大丈夫。吐くわけじゃない。

 発作くらい、なんてことない。私は乗り切れる。


「……上里さん?」


 えづく衝動がもう一度喉に襲いかかってくる。

 どうして。今までは一度そうなったら治まっていたのに。


「……もしかして、酔っちゃいましたか?」


 口元を押さえていたらそりゃ勘違いされる。

 本庄さんの声には焦りが出ていた。

 当たり前だ。車酔いを我慢されて、マイカーをゲロで汚されたらたまったもんじゃない。


 感謝すべき気遣いなのに、ますます落ち着きを取り戻すことは難しくなってきた。

 酔ってないから、頼むからそっとしておいてくれという本音を塗りつぶすように。

 心臓を叩く動悸の音が、どんどん大きくなっていく。


「だい、だいじょうぶです。あくび噛み殺してただけで、」

 言い終わる途中で、ふたたび喉が塞がる圧迫感を覚え始めた。

 今度は抑えきれず、ごふっと、単なる空咳ではない声が漏れる。


 もう、ごまかしきれる状況ではなかった。


「えっ、ちょ、ちょっと待って下さい」


 本庄さんは突如進路を変更すると、とある施設の方向にハンドルを切った。

 駐車場に停めて介抱するのだと分かった。


 いえ、大丈夫です。本当です。このまままっすぐ行けばお家なんです。

 伝えたくても、もう喉が言葉にすることを許してくれない。


 苦しい。喉から突き上げる衝動が止まらない。

 このまま治まらなかったら本当に胃から押し出されてしまうのではないかと、嘔吐への恐怖が這い上がってくる。


 嫌だ、吐きたくない。汚したくない。吐くくらいなら死んだほうがましだ。


 断りもなく私はシートベルトを外した。震える指でコートのボタンも引き裂くように外した。

 窓のボタンを手探りで当てて、まとわりつく暖房風を払うように窓を数センチ開放した。全開にしたい衝動を理性がぎりぎりのところで止めた。


 代わりに、首を上に向ける。

 海面から命からがら顔を出した漂流者のように、外の冷気を必死で肺に入れようとした。

 プライドなんてもう、消し飛んでいた。


「いったんここに停めます。えっと……」

 駐車すると、本庄さんは素早くカバンの中をまさぐり始めた。

 エチケット袋かそれに代わるものを探しているのだと分かった。


 一方私は、ぜいぜいと瀕死の両生類みたいな声を漏らして過呼吸のまっただ中にいた。


 恥晒しが。

 こっから徒歩で着く距離なのだから、こないだみたいに這ってでも帰ればいいのに。

 頭の中に知識としてあっても、今は指の一本も動かせない。


「上里さん。出したかったら遠慮なさらず出して下さい」

 本庄さんに肩を揺り動かされる。


 袋は見つからなかったらしく、本庄さんは受け皿のように両手を差し出してきた。

 気分が悪い子供にする、大人の優しさ。

 そのまま外に出すほうが車を汚す心配がないのに、気遣って追い出さないでくれている。


 あまりにも申し訳なくてみじめで、泣ける立場じゃないのに勝手に涙がにじんできた。


「ごめん、なさい」


 過呼吸の持病で、だから吐かないんで、それだけを伝えればいいのに。

 繰り返し謝罪の言葉が喉から溢れていく。


 付き合いが長いくせして持病も抑えられない。

 そんなんだから、先輩の楽しいはずだった思い出を介抱というかたちで台無しにしている。


 やっぱり、私には友達を作る権利なんてなかったんだ。

 普通に生きられない私が人と親密になることは、自分の都合に振り回すことを意味する。


 迷惑をかける人間は、誰にも頼らず独りで生きていくしかないのだ。


「少し治まってきました、だいじょうぶです、ここから帰れます。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」


 足元に置いていたバッグを掴んで、長財布を引っ張り出す。

 タクシーどころか救急車代わりに使ったのだから、今ある分のお札はぜんぶ置いていこう。


 ごめんなさい。あなたと少しお話できただけでも、本当に幸せでした。


「けっこうです」


 チャックに指をかけようとする私を、本庄さんは押し返してきた。

 私からひったくるように長財布を奪うと、そのままバッグへと戻す。


 ああ、そうだよなあ。申し訳ない気持ちをお金で解決するのは不誠実だ。

 受け取ってもらえないのも当たり前か。


「今はご自身を落ち着かせることに集中してください。上里さん、うなずくだけでけっこうです。この症状は過呼吸でお間違いないですか?」


 首を縦に振る。こんなときでも本庄さんは、自分の気持ちよりも他人の身を案じてくれている。


 きっと関係はこれっきりで終わってしまうだろうけど、やるべきことを忠実にこなす。その姿勢に目の奥が熱くなって、また涙が流れていく。


「昔は紙袋等で対処しておりましたが、今は最善策ではないのですね……」


 本庄さんはつぶやくと、私に向き直った。

 ぐっと、両頬が抑え込まれる。

 ……え?


「失礼いたします。少しだけ、わたしに委ねてください」


 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 柔らかい髪の毛が額をかすめて、もっと柔らかいものが私の唇を塞いでいた。

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