失望と希望

 この会社ではもっとも新しく来た私の面談は、1日の最後に待っていた。

 応接室に続くドアを軽くノックする。就活時代の面接を思い出すな。


「本日はよろしくお願い致します」


 すでに着席していた肩幅の広い社長の真向かいに腰を下ろす。隣には工場長も座っていた。

 社長、年齢的には工場長よりも若いんだよね。30代くらいだっけ。


「ま、そうガチガチにならんでも。緊張してるのは僕も一緒ですので、まずはお茶でも飲みましょか」


 言葉遣いはほとんど標準語寄りだけど、ときおり独特のイントネーションが入るのが親しみを感じる。

 私は生まれも育ちも標準語だから、方言ってものにあこがれを抱いてしまうのだ。


 最初の数分は緊張をほぐすため、単なる雑談会が進んでいった。



「じゃ、そろそろ本題に移りますか」


 肩の力が抜けてきたところで、本格的な面談が始まる。

 今の仕事内容を聞かれて、私はあらかじめ持参してきた仕事用の記入用紙と元帳を開いた。


 入力作業と用紙への記入のほか、発注処理を行っています。

 最初は慣れない作業に戸惑いましたが、今はミスもずいぶんと減ってある程度の業務は定着してきましたと。


「なるほど」

 その程度? と言いたげな乾いた声から、工場長は慌てて一冊のファイルノートを取り出した。


「彼女には時間の合間を塗って、こうして業務内容をまとめたマニュアルを自発的に作って頂いたのです。マニュアルがない問題点は以前から社員に指摘されていたのですが、うちは編集ソフトを使いこなせる人がいなかったもので……」


 問題点の提示により、相対的に私を持ち上げるというかフォローする。

 社長は興味深そうにふーんと相づちを打つと、ファイルを受け取りぱらぱらとめくり始めた。


「さて、上里さん。現状の仕事について、なにかご不明な点や改善したほうがいいという点はございますか」

「ええ、それでしたら……」


 前々から抱えていた、ある改善点を口に出す。


 午後3時を過ぎれば、仕事があらかた終わってしまう。狭山さんに尋ねても、電話さえ取ってくれればいいからーと自分で探せというスタイル。


 雇っている清掃員さんがいるのに、掃除か備品の整理かマニュアルの見直しといった雑用で午後が終わる日が増えてきた。


 これでは給料泥棒となってしまう。

 なので、もっと会社のお役に立ちたいのですと私は主張した。工場長もうんうんとうなずき、社長の反応を伺うと。



「あなたは何か勘違いされているようですね」



 刃のような社長の鋭い声が、応接室へと振り下ろされた。

 雑談時の気さくな調子とは打って変わって。あまりにも温度差がある声色に、臓腑を冷気で撫でられるような悪寒が通り過ぎていく。


「ミスもずいぶんと減った、そうおっしゃいました。ですが、それは今でもケアレスミスが続いているということですよね」

 それまで黙って聞いていた社長の丸い目が細められて、視線が真正面から突き立てられる。


「狭山さんから伺っております。個数の記入ミスがたまにあると。頻度の問題ではありません。普通はあなたが、再三のチェックで見つけるものですよね」

「……はい」

「最初の数週間ならまだしも、もうふた月めです。現在与えられている仕事が完璧でないのに、暇とはどういうことですか?」


 私の思い上がりを一刀両断すべく、次々と言い逃れできない指摘が重ねられていく。


「上里さん。あなたがこの会社に採用された意味を、もう一度考えてください。答えられますか?」


 すでに強張り始めている舌と回らなくなっている頭をフル回転させて、なんとか社会人らしい答えを絞り出す。

「現在事務員として長らくお勤めされている、狭山さんの後任となるためです」


「はい。そのためには彼女が安心して定年退職できるよう、完璧に成長していかなくてはならないはずです。それこそ、急な用事や体調不良であなた一人に事務員を任せる日が来ても、滞りなく働けるくらいには」


 なのに、この程度の仕事量で未だにミスが続いているとは。

 ひとつの仕事を1から10まで任せられるというレベルでの信頼性がないくせして、できる仕事がありますかと聞くのは思い上がりも甚だしいですね。


 ごく当たり前の現実が、具体的な言葉となって身の程を知らしめていく。


 喉元に突き立てられている刃が鎖に変わり、首を締め上げていくような苦しさを覚え始めた。

 必死に奥歯を噛み締めて、喉に力を入れる。空咳を殺すために。

 くそ、こんなときに発作なんか起こして被害者面してんじゃない。


 私は胸ポケットに手を当てて、たったひとつの支えを握りしめていた。

 本庄さんから貸していただいた、ペン型のボイスレコーダーを。


「あ、その。手が空いたときに、何か他の仕事をさせて欲しいと申し出た意欲と姿勢自体は間違ってないからね。今自分に何ができるのかを見つめ直したうえで、いずれ仕事ができるレベルに成長なさいと言いたいだけであって」


 工場長が即座にフォローしてくれたけど、社長は横からの言葉に何の反応も示さない。

 すでに答えは彼の中で決まっている。そう確信させるには十分な表情だった。


 こうして、目上の方から客観的な視点をいただけるのはとても貴重な機会だ。

 自作のマニュアルですら、もう何の武器にもなりはしない。

 未だにミスがある新人がまとめた資料なんぞ、これっぽっちも価値がないからだ。


「二次面接のときに、僕はあなたの仕事に対する姿勢を評価しておりました。未経験ということもあり、パートから相応の評価を頂いて社員へステップアップしていきたいと。正社員の安定した給与だけが目的で、コストに見合った働きをしていない無能もいるなかで。その謙虚さを買って、採用に至ったというのに。それもまた、とんだ買いかぶりだったようですね」


 そして、今の私にふさわしい相応の評価が下される。


「現状のあなたはパートでもなく、ましてやアルバイトでもなく。ボランティアです。厳しい言葉ですが、それが嘘偽りないあなたへの印象です」


 何の期待も抱いていない、無機質な表情と声がすべてを物語っていた。


 いち従業員どころか、人として。

 心の底から失望されているのだと、好きの反対は無関心の意味を身を持って知った。



 時計の針は終業時刻を大幅に回っていた。

 工場長や部長と話し合って、明日また判断します。

 わずかな猶予を社長からいただき、お礼を言って私は逃げるように暗い廊下へと出た。


 放心状態というのは恐ろしいもので、応接室を出てからの記憶がない。

 喉だけが灼けつくように熱い。気づけば夜に差し掛かろうとしている宵闇の外へ、私は突っ立っていた。


 日に日に春の足音は近づいている。気温が高くなり、若葉は芽吹き、多くの人には新たな生活の分岐点となる季節。

 今の私には、この空よりも暗い未来しか視えない。


 そんな私を現実に引き戻したのは、もうとっくに帰ったはずだと思っていたひとつの声であった。


「お疲れ様」


 え。

 見慣れた車がぽつんと、一台停まっていて。

 缶コーヒーを片手に、運転席から本庄さんが降りてきた。


「夜道は危険だから送っていくわ。自転車はスポーツバイクみたいだし、積載には問題ないから」

 頬に温かい手が添えられる。

 今彼女がここにいることに現実味がなくて、声が耳をすべっていく。


「どうして、」

「言ったでしょう。ここで応援しているって」

 それで、こんな遅くまで? 声に出す前に、喉が震えていく。


 視界が熱くにじみ始めた。

 張った氷が溶けだして、涙に決壊していく。

 本庄さんの車の助手席で、しばらく私は声を押し殺して泣いた。

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