エピローグ

いつかの時代、どこかに咲く幸せ

「おはよう」


 休日の穏やかな朝。変わらず笑顔でたたずむ、仏壇に飾られた在りし日の母親に手を合わせる。


「おはようございます」


 違いは、挨拶の声と香炉杯に立つお線香がふたつに増えたこと。


「今年も綺麗に咲きましたよ」

 今や私の大切なパートナーとなった毬子さんは、四季折々の仏花が差してある花瓶を遺影の隣に供えた。

 ちなみに今月は、庭で最近開花したばかりのサザンカだ。


「いやあ、きれいな部屋っていいねえ」

 母の仏壇は、日当たりのいい和室に鎮座している。


 線香の落ち着く芳しさと、真新しい畳から漂うい草の香りは、入室のたびに爽やかな気分をもたらしてくれる。

 お母さん、きれい好きだったし喜んでくれるといいな。


「忍ちゃんが頑張ったおかげよ。今やわたしより稼いでいるじゃない」

「早くお嫁さんと母親をきれいなマイホームにお呼びしたかったので」


 気取って言うと、いい時代になったわねえ、とはにかむ毬子さんが左手を取ってきた。両手でぎゅっと握りしめて。


 毬子さんと付き合ってからそろそろ10年。その間にいろいろあったものだ。


 彼女と出会った場所である勤め先が倒産して、次に始めた運送業で正社員として働けていること。

 持病の発作はほとんど出なくなったこと。

 それと、念願だった自宅を大規模リフォームしたこと。


 そこまで広い間取りではないので、建築費用も互いの貯金から工面できる数字だったのはありがたい。工期も建て替えに比べれば短かったしね。


 ちなみに費用の一部は、”副業”を始めた頃から貯めていたお金から出している。



 そして。同性婚が去年、我が国にも正式に認められたことも大きなニュースだ。


「本当、夢みたいね。こんなきれいな家で、忍ちゃんと一生おうちデートできるなんて」

「そこは結婚生活って言いましょうよ」


 ペアリングも買ったし、ちょっと前に婚姻届を役所に提出したばっかりなんだしさ。

 ああでも、やっぱり形だけじゃ物足りないか。改修を優先したからちょっとお金がね。

 花嫁衣装の毬子さん、早く見たいなあ。


「式にこだわらなくても、着るだけでいいならフォトスタジオ行けばいつでも可能よ? わたしも忍ちゃんのドレス姿は見たいし」


 それと見て見てー、と毬子さんは嬉しそうに、写真が映し出されているスマホを掲げた。


 先月、毬子さんの知り合いである同性カップルが式を挙げたらしい。

 画面には趣ある礼拝堂をバックに、穏やかに微笑む純白の花嫁ふたりが写っている。


 片方は私よりも背が高くて、もう片方はどこの芸能人ですかってくらいお綺麗な人だ。

 リアルで他の同性愛者を見る機会は滅多にないから、本当にいるんだなーってまじまじと見つめてしまう。


「本当におめでとう。先生」

「先生?」

「ええ。中学時代の家庭教師の先生だったの。英語がてんでダメで、教わってもなかなか成績が上がらなくて。先生には数え切れないくらい苦労を掛けたわ」


 毬子さんは感慨深そうに目を細めて、すっと画面を撫でた。

 そうだよね。この二人のように、挙げたくてもできない方々がいっぱいいたんだよね。中には悲願成就の前に先立ってしまった方もいるだろうし。


「次の休み、撮ろうか。ちょうどお給料も入る頃だし」

「ええ、絶対よ」


 予定をスマホに打ち込んで、私たちは玄関を出た。


 今日の予定は、買い物と父親へのお見舞い。

 こうして当たり前のように外出できるようになったことも、昔の私に言っても信じないだろうな。



「お、あったあった」

 次の電車が来るまでそこそこ時間があったため、駅ビルにある小さな本屋へと入った。


 目的は、ライトノベルの新刊コーナー。まだ知名度が浅いから入荷数は数冊と少ないけれど、ちゃんと見つけることができた。


「そのPN……忍ちゃんのお友達だっけ」

「うん。めちゃめちゃ絵柄変わってたから、名義見ないとわからんくらいだったけど」


 友人はめきめきと画力を上げて挿絵の仕事が来るようになっていた。

 彼女からのLINEで初めて本が出ることを知った。


 そっかあ。プロになったのかあ。

 懐かしいな、最初は薄いイラスト本から始まったんだよね。

 それが10年以上も同人活動を粘り強く続けてて、やっとここまで来たなんて。継続は力なりだね。


「買うの?」

「お布施とかじゃなくて、好みの絵柄だからね」


 いいと思うものにはちゃんとお金を出すのがポリシーだ。

『さすがプロ……』みたいな焦る目で毬子さんが表紙絵を見つめていたので、あわてて『今年も楽しみにしてますよ』と補足する。


「まかせて。傑作を更新してみせるわ」

 毬子さんはむんと胸を張ると、完成途中の絵を見せてくれた。


 相変わらず描き込み量がやばい。この時点で十分完成品に見えるんだけど、ここからさらに進化するのが彼女の凄まじさだ。


 プロ顔負けレベルなのに、あくまで趣味というのがもったいないけど毬子さんらしくもある。


 いつからか、私の誕生日には毬子さんが絵をプレゼントしてくれるのが恒例になっていた。

 家のアトリエには父親の絵画と並んで、毬子さんの神百合イラストが毎年増えていく。


 自分のために神絵師さんが描いてくれるって、最高の贅沢だよなあ。


「あ、この人……」

 新刊コーナーを眺めていた毬子さんが、ある一冊の本を手にする。


「知ってるの?」

「知ってるも何も、高校時代の同級生よ」

「まじですか」


 挿絵担当には、戸田とだ先生の名前があった。


 とあるゲーム会社の看板絵師だった戸田先生は、どんどん劣化が激しくなって担当原画のゲームの売れ行きが悪くなって、ついには会社を辞めてしまった。


 そこから先は細々とソシャゲやラノベの挿絵を手掛けて活動していたらしいけど、そのうちのひとつであるラノベのアニメ化が決定したのだ。

 心なしか絵柄も、少しずつ全盛期の頃に戻り始めているように見える。


「ちょっと前に同窓会で会ったとき、ひどくやつれていてね。スランプでネットでもさんざん叩かれて、自殺も考えたって聞いたわ。クラスで一番上手い子だったのに」


 だけどそのどん底の頃、ゲーム会社時代に組んだことがあるシナリオライターさんに誘われたらしい。

 フリーとなった今。本を出すから、もう一度コンビを組んでみないかと。


「そのラノベ自体の完成度が高くて売れた、って運もあるだろうけど。ライターさんが付きっきりで指摘してくれたのも大きいみたい。誰よりも客観的に彼女の全盛期を知っている方だからこそ、的確な指摘で絵柄を取り戻すことができたんだって」

「他人は劣化したことに気づいても、なかなか指摘してくれませんからね……」


 戸田先生、いい人に巡り会えてよかったなあ。

 美少女ゲーム業界自体、悲しいことに今は斜陽産業になってきているんだよね。戸田先生のいた会社も、ここ数年くらい新作を出していないし。

 なので一般に行ったのは勝ち組なのかもしれない。


 にしてもこのライターさん、ラノベ畑にいたのか。

 ライター買いはあまりしないんだけど、個人的にはこの人の文章好きだったんだよね。口コミも上々みたいだし、読んでみるかなあ。


 最終的に友人の本と戸田先生の本、2冊を抱えて私はレジへと向かった。



 続けて向かったのは、すぐ近くにある雑貨屋さん。

 もうすぐクリスマスのため、ミニツリーかリースを飾ろうと思い立ったので。

 いろんな種類があって迷うな。どれにするか商品棚を眺めていると。


「あら、あなたたち……」


 見知らぬ女性がこちらを見て、知っているようなそぶりでつぶやいた。

 えっと、どちら様?

 近い年齢の知人の記憶を探っていると、毬子さんが『ああ』と合点が行ったように手を合わせた。


「お久しぶりです。狭山さん」

 さ、狭山さんだったの?

 髪はすっかり白くなってて、帽子を目深に被っているから誰だか分からなかったよ。


「こんなところでお会いするとは奇遇ですね」

「うん……まあね。川角さんのお見舞いに行く途中だったの」


 狭山さんの持つカゴにはブランケットが入っていた。

 クリスマスシーズンを意識したのか、赤と黒のチェック柄が鮮明で温かみがあるデザインだ。


 しかし、会社が倒産してから何年も経っているのに。川角さんが辞めてからも加算すると、およそ10年。

 同僚というつながりが消えても、友情の絆は残っていたんだ。


「相変わらず仲がいいんだね」

 私たちが婚姻関係にあることを知らない狭山さんは、うっすらと微笑みを浮かべた。

 自身も川角さんという長い付き合いの存在がいるためか、親近感を覚えているらしい。


「それは狭山さんもですね」

「そうでもないよ。だってもう、川角さんは私のことを元同僚とは認識できていないもの」


 少し寂しそうに、狭山さんは語ってくれた。

 川角さんの認知症はかなり進行しており、ご家族ですら分からない状態らしい。


 最初の頃は彼女の子供さんや、狭山さんを含むご友人が会いに来ていたものの。

 病状が進行するにつれて会話の成立は困難になり、あまりに変わり果てた姿に今は誰も訪れることはなくなってしまった。


「娘さんも遠方に引っ越してしまったためか、ぜんぜん来なくなってしまってね。娘のことは娘と認識できないのに、今度は私のほうを子供だと思い込むようになってね……」


 あの怖いもの知らずだった川角さんが、子供を愛おしむ母親の顔で唯一会いに来てくれる狭山さんを迎えてくれる。

 少し前に亡くした自身の母の影を重ねて、狭山さんも離れるに離れられないのだという。


「私も、最近ね……物忘れが多いんだよ。そのうち何もかもわからなくなっていくんだろうね。独りだから頼れる人もいない。だけどそうなるまで、足は運び続けようって思ったんだ」


 仕事ができるとか長く勤めているとか。そんなの関係なく老いは訪れる。

 かつて川角さんが放った言葉が、今になって頭の中によみがえってきた。


「薬……あなた達の頃には出回ってるといいね」

 私たちのようにはならないで、と狭山さんは残してレジへと向かっていった。


 悔しいな。やっと認知症の研究が進んで、進行を食い止める薬が今年承認されたのに。

 まだ高価すぎて、一部の医療機関でしか使えないんだもんな。


 川角さんの連絡先を聞いて、私たちは駅へと向かった。

 忘れないうちに、いつか会いに行こう。



 何駅か乗り継いで、バスに乗って、やがて閑静な敷地内にぽつんと建つ病院の前に降ろされる。

 父親との面会の時間がやってきた。


 懸念していた胃がんの再発は今のところないものの、今度は脳梗塞を発症しここへと搬送された。

 お酒が大好きな人だったから、時間の問題ではあった。

 さいわいにも発見が早かったため意識ははっきりしており、食事も会話も可能。


 今は少し麻痺が残ってしまった身体のリハビリのため、ここに入院している。

 脳梗塞も再発するって聞くし、回復に向かってるからって油断はできないな。


「おう、よく来たな」

 こうして会うのは何年ぶりだろう。少し痩せた父親がベッドから身を起こした状態で迎えてくれた。


「これ、もうすぐクリスマスだから」

「ああ、もうそんな時期か。病院の景色ってずっと同じだから、カレンダー見ないとわからないんだよな……」


 リースを渡したところ、ちったあこの殺風景な病室も明るくなったなと喜んでくれた。


 こうして普通の会話ができるというのは、本当に幸運なことだ。

 意識不明、言語障害とかでそのまま何も意思疎通が測れなくなってしまった話も聞くからね。


「お久しぶりです。吉見先生」


 わたしからはこちらです、と毬子さんは1枚の油絵が撮影されたスマホの画面を見せた。

 こうして顔を合わせるようになってから、毬子さんはたびたびアナログの画材も使って作品を上げるようになった。


 描くたびに研ぎ澄まされていく画力に、毎回父親は『お前本当にあの本庄か?』と驚愕の表情をあらわにする。


「お前なあ……なんでその潜在能力を学生時代に出さなかったんだよ」

「描く理由に迷っていたもので」


 今は描くことそのものが楽しいからという理由が見つけられました、と毬子さんは生き生きとした表情で父親に笑いかける。


「要するにやる気だろ。でもまあ、才能なんていつ開花するかわからんからな。定年後に絵を始めて画家になった奴もいるし。ようやく生徒が成長した姿を見れて嬉しいよ」

「先生にお褒め頂き、たいへん光栄です」


 この光景をあの見る目がない教師どもにも見せてやりたかったねえ、と父親は天を仰いだ。遠い記憶に想いを馳せるように。


 いつか芽が出ると信じて、近くで成長を見守る教師の顔がそこにはあった。

 ある意味、イラストスコッパーが趣味になった私に通ずるものがあるのかもしれない。



「少し席を外しますね」

 親子水入らずの会話も必要だからと、毬子さんは病室を後にした。


 気を遣ってくれたのだろう。

 意を決して、ずっと隠していた秘密を口にする。


「ご報告があります、父さん」


 何度も毬子さんと一緒に訪れている以上、感づいているとは思うけど。

 国に正式に認められたということもあり、正直に私たちの関係を告白する。


「そうか……うん、そうか……」

 彼氏ではなく彼女か、とつぶやき、父親はまっすぐに私を見つめる。


「父親になりきれなかった俺が言えることではないが……おめでとう。末永く幸せにな」

「ありがとうございます」


 お互いに向き合って、深々と頭を下げる。

 いきなりその気がなかった娘が実は同性愛者なんです、なんて告白されたらまずは困惑が先にくるだろう。

 父親も例外ではなく、声と表情に複雑な面持ちがあらわれている。


「娘と教え子が会社で出会ってゴールインとは、数奇な巡り合せもあるもんだなあ」

「確かになかなかないね」

「でも、安心したよ。お前がひとりじゃないってことが分かって」


 別れて、ペットと妻が先立って、子供の一人も家を出て。

 今さら元の家には戻れないし、自分のように娘が孤独に苛まれていないか、それだけが気がかりだったのだと言う。


「逆に、忍から聞きたいことはあるか? なんでも話すよ。次いつ話せなくなるかもわからないし」

「だからそういうこと言うのはやめてって……」


 でも、いつかは覚悟しないといけないんだよな。

 なんでも、か。

 長年の疑問を、私はぶつけてみることにした。


「どうして、二人は別れたの?」

「やっぱそこ聞いてくるか」

「どうしても言いづらいなら無理は言わないけど……」

「いや、いいよ。約束だしな」


 てっきり浮気あたりだと睨んでいたのだけれど、父親から返ってきた答えは予想を上回るものだった。


「趣味の不一致だったんだよ」


 母親は優しく穏やかで家庭的でバリキャリと、一見結婚相手には申し分ない人材であった。

 ただひとつ、重度の性嫌悪の部分を除いては。


「娯楽としての性を許さない方であったというか……特に萌え絵なんかは、汚らわしいものとしてしか見えなかったみたいでね。創作物とリアルは別物と説いても、聞く耳を持ってくれなくてな……」


 どうやら、私のオタクな部分は父親から受け継がれていたらしい。

 結婚前からオタクであることは知っていたくせに、アニメってだけで難色を示す人だったという。


 さすがに子供にも悪影響だからとAVやアダルトゲーム、成人向け漫画にまでは手を出さなかったものの。

 ラノベやアニメも封じられ、スマホまで管理される生活は相当しんどかったらしい。


「ロリコン男を選んだ自分が馬鹿だった、ということで一方的に別れを切り出された。仮面夫婦すら無理だと言われてしまった。触られたくないし、顔も見たくないと」


 趣味嗜好がもっと普通のものであったら、今でも一緒にいられたのかな。

 そう、父親は申し訳無さそうに頭を下げた。


「母さんのことは今でも好きだよ。ごめんな、気持ち悪い話をして」

「いや、私は全然平気だから。なんならキモオタだし」


 ロリも異種姦も凌辱も調教もいけるとの性癖暴露はさすがに父親にも言えない。墓場まで持っていく。

 ははは、仮に母親があられもない美少女の姿が描かれたパッケージの山を発見してたらどうなってたんだろう。その場で絶縁だったろうな。


 微妙な空気が流れて、お互い意味もなくへへへと苦笑いを浮かべる。

 オタク同士と言えど、なんでも腹を割って話せるわけではないのだ。


「まあ……その、なんだ。相手の趣味は相容れないものであっても、頭ごなしに否定しないことかな。あとはお互い納得いくまで話し合うこと」


 すれ違う二人には総じて話し合いが不足しているのだと、父親は悟ったような口ぶりで教えてくれた。


「そっか……うん、ありがとうね。教えてくれて」


 また来るよ、と締めて毬子さんを呼ぶ。


「元気でな。また、いつでも歓迎するよ」

 2人で最後にお辞儀をして、麻痺が残る手を振る父親に切なさを覚えつつ、私たちは帰路についた。



 冬の日照時間は短い。

 時間的にはまだ夕方頃ではあったけど、家につく頃にはすっかり日が落ちて冷え込みも厳しくなっていた。


「ただいま」

「はい、おかえりなさい」

 一緒に帰ってきた人から、帰宅を迎える声が返ってくる。


 かつては返事のない暗い部屋に、一人寂しく帰宅していた。

 けど、今は違う。隣に最愛の人がいて、おはようからおやすみまでを共にする。


 誰かと暮らす日が来るなんて、一生ないと思っていたのに。

 一生、ひとりでも生きていけると思っていたのに。

 寄り添う温かさを知ってしまったら、もう、ひとりには戻れないんだ。


 夕食は外で済ませてしまったため、家事は洗濯物の取り込みとお風呂の準備くらい。

 ちゃっちゃと済ませて、さっと湯船から上がる。


「ごくらくー」


 風呂ですべての疲労を開放し、湯上がりのだらけた姿勢でソファーへともたれる。

 この眠くなるまでのくつろぎの時間が、1日の中で私は一番好きだ。


「そっち寄りかかっていい? 眠くなってきちゃった」

「どうぞー」


 膝枕でもするように、こてんと毬子さんが腿の上に仰向けになる。

 容赦なくぼすんと頭が乗ってくるものだから、その遠慮のなさが膝に乗りたがる猫みたいでかわいい。


「ねえ」

 閉じかけていたまぶたがぱっちりと見開かれて、目が合った。


「どうしたの?」

「んーん。忍ちゃんは相変わらずかわいいなあって」


 伸ばした腕からなでなでと、後頭部がさすられる。


「嬉しい言葉ではあるけど……もう私はちゃんづけされる歳でもないよ」

「大人は大人のふりをしている子供にすぎないのよ? いくつになっても、忍ちゃんは忍ちゃんのままよ」


 哲学めいたことを言って、ふたたびなでなでが始まる。

 心地いい感触に意識を委ねていると、ふと、毬子さんが尋ねてきた。


「ところで今日、デートだったと思わない?」

「え? お出かけだったよね?」

「思い返してみて。忍ちゃんが昔言ってた、”普通のデート”じゃなかったかしら。今日」


 首を傾げて、持病に苦しんでいた時期の記憶を探っていく。

 私は普通であることに執着していた。外出もろくにできなかった当時は、普通のデートの基準はとてつもなく高かったのだ。


 普通のデート。こうして外に出たり、一緒にご飯を食べたり、遊んだりして……二人で楽しむってことですよね。

 かつて毬子さんに放った台詞を思い返してみる。


 確かに言われてみれば、今日の一連の流れはそれに沿っていたのだと思う。

 外出、外食、買い物。あんなに焦がれていた普通が、当たり前のように染み付いていた。


 でも、それは。なんでもないようなことであって、何よりも優れていた時間だったと定義できるだろうか?


 普通の生き方。普通の恋愛。そんなものは存在しない。

 そう説いてくれた隣人へと、今の気持ちを贈る。


「外もいいけど……やっぱり私は、おうち時間が好きだなぁ」

「でしょ? インドア派も悪くないものよ」


 なにもかもを委ねて、一緒にのんびりと。

 生まれ変わった我が家で大切なパートナーと共に過ごす時間は、この上なく至福のひとときだ。


「この時代に生まれて、よかった。今は心からそう思う」


 手を伸ばして、銀の誓いが埋められた薬指をなぞる。

 そのまま指を絡めて、向かい合う。視界いっぱいに、最愛の伴侶をおさめる。


「あなたと出会えて、よかった」


 静かに唇を重ねて、あふれる想いをもう一度言葉へと贈りだしていく。


「あなたと共に生きる未来が叶って、よかった」

「ええ、わたしもよ」


 愛しています。誓いの言葉を互いに交わして、今度は深い接吻を。


 いつまでも傍にいよう。いつか朽ち果てる日まで愛をささやき続けよう。

 ひとつになりたい想いを、きつく抱きしめて満たしていく。


 これまで過ごしてきた、すべての日々へ。

 今日につながっている軌跡に、ありったけの感謝を。


 ありふれたかけがえのない幸せは、今ここに咲き誇っているのだから。


(了)

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