第43話 駆流の心配
数日後。
駆流の心配が現実のものになったのは、六時限目が終わった直後だった。
これから帰りのホームルームが始まるという頃である。
「――――ハルが倒れて保健室に運ばれたって!」
大慌てで一組に駆け込んできた朝陽の第一声に、駆流は教科書をしまう手を即座に止め、立ち上がった。座っていた椅子がガタンと大きな音を立て、周りのクラスメイトが駆流の方に目を向ける。
「倒れたって何で!?」
「それはわかんないけど、って篠村!?」
朝陽の言葉を最後まで聞かず、ホームルームもクラスメイトの視線もそっちのけで、駆流は教室を飛び出した。
(やっぱりずっと具合が悪かったんだ……! もっと早くに、無理やりにでも捕まえて聞いてたら!)
『後悔先に立たず』とはまさにこのことだ、などと悔やみながら二階の廊下を全速力で駆け、飛び降りるようにして階段を下り、保健室へと向かう。
途中で出くわした数人の教師に、「おい、これからホームルームだぞ。何してるんだ!」などと声をかけられたが、駆流は一切聞く耳を持たなかった。
ノックもそこそこに保健室のドアを開けると、養護教諭の姿はなく、代わりに一番奥、窓側のベッドのカーテンが閉まっていた。
他の場所はカーテンが閉まっていないから、春果が寝ているとしたらおそらくここだろう。
なるべく音を立てないように、と気を遣いながら、閉まっているカーテンの前まで近づく。
「……東条?」
カーテンの外側から小声で遠慮がちに声を掛けた。
すでに春果は帰っていて、今寝ているのが違う生徒だという可能性もあったから、それを考慮した上での行動である。
少しの間気配を窺っていると、カーテンの中から布団の衣擦れの音と共に掠れた声が返ってきた。
「……その声、篠村くん……?」
やはり春果だ。
駆流はほっと安堵の息を吐き、そして恐る恐る聞いた。
今回はさすがに逃げられないだろうが、自分の顔を見たくないのではないかと思ったのである。
「あ、あの、その……入ってもいいか?」
「……うん」
まだ力の入っていないか細い声ではあるが、きちんと答えてくれた。
その返答にさらに安堵した駆流は、そっとカーテンに手を掛けると、そのままゆっくり開ける。
カーテンが窓の方までしっかり閉められていたせいで、中は少し薄暗かった。
そこに起き上がろうとしている春果の姿が見えて、慌てて傍に寄った。
「まだ寝てないと!」
「でももう平気だし……」
「いいから!」
春果がまた無理やり元気そうに振舞おうとするのを察した駆流は語気を強める。
するといつもとは違うその迫力に驚いたのか、一瞬だけ目を見張った春果は、
「……わかった」
渋々ながら布団の中に戻っていった。
「……で、実際のところ、体調はどうなんだ?」
駆流がベッドの横に無造作に置いてあった丸椅子に腰を下ろす。これまで心配と不安でいっぱいだった自身の心を落ち着かせながら穏やかに問うと、春果は困ったように視線を天井に向けて泳がせた。
「えっと……別に体調は全然悪くないよ?」
「体調の良い人間がこんなとこに寝てるわけないよな?」
駆流の声音が一転して、厳しく問い詰めるようなものに変わる。
その顔には引きつった笑みが張り付いていた。
「……それは、まあ……」
「じゃあ何があった? 倒れたって聞いたけど」
「……ただ、体育の時間にちょっと立ちくらみがして、気付いたらここにいただけだよ?」
そう言って、春果は駆流から視線を逸らしつつ、気まずそうにまだ青白い頬を掻いた。
「それを倒れたって言うんだよ」
「……はい」
こんな時でも春果は自分に心配をかけさせまいとするのか。こういう時くらいは誰かを頼ってもいいだろうに。
駆流が大袈裟に溜息をつく。
「本当に心配したんだからな」
「……ごめんなさい」
小柄な春果がさらに小さくなりながら、布団に顔を半分隠す。
「病院には行ったのか?」
「何で病院?」
春果がキョトンとして首を捻り、駆流を見上げた。
「最近ずっと疲れたような、具合の悪そうな顔してたろ」
「あー、えっと、それは……」
「何か俺に言えないことでもあるのか?」
駆流の口調がまただんだんと厳しくなっていく。
やはり、春果は何かを隠しているようだ。
「……特にそんなことはないんですが……」
もごもごと口ごもる春果に、
「学校では逃げるし、電話にも出ないし。そして今回のこの有り様だ」
駆流は呆れたように、また嘆息した。
「……ごめんなさい」
当の春果は特別何かを説明するわけでもなく、ただ小声で謝るだけだ。
そんな何の進展もないやり取りが、とても虚しくなった。
声のトーンを落とした駆流は、今度こそきちんと答えて欲しいと願いながら、春果に問い掛ける。
「それとも俺、何か東条の気に障ることした? 知らないうちに嫌われるようなことしてた?」
これまで思っていたことを実際に口にすると、心の中がすっきりするどころか、さらに悲しく、苦しくなった。言わなければよかったかもしれない、とすら思った。
しかし言い終わるや否や、春果が弾かれたように起き上がって反論する。
「っ、そんなことない! ただ、すごく疲れてて眠かっただけで!」
そして早口でまくし立ててから、「しまった」という顔をした。
「疲れてて眠かった……?」
途端に駆流の声音が不穏なものに変わる。
「えーと、ずっと徹夜で勉強してて……それで、あの……」
また、春果の視線が泳いでいた。
「嘘だな」
「……うちのクラス、いっぱい課題出てて……」
「絶対嘘だろ」
「……すみません」
「じゃあ何で」
腕を組んで、春果の様子を探る。
とりあえず、自分は嫌われてはいないようで一安心したが、一体何をそこまで隠そうとするのか。さっぱり見当もつかない。
ただ黙って相手の出方を待つ。
今回ばかりはすべてを吐かせるつもりでいた。
春果はうなだれながらしばらく考え込んだ様子を見せた後、ようやく諦めたように、
「……篠村くんに、見せたいものがあって」
小さな声で、そう紡いだ。
視線は、布団の上に乗せた自身の両の拳に向けられていた。
(今、何て言った……?)
春果の言葉に、駆流は一瞬、自分の耳を疑う。
まさかそんな答えが返ってくるとは予想もしていなかったのである。
一応「嫌われてはいないようだ」と安心してはいたが、まだ「本当はもう嫌いになったの」とか、「顔も見たくない」だとか、そんな自分にとって悪い台詞が、改めて春果の口から出て来るのではないかと心の奥底ではひやひやしていた。
だから、そうではなかったことに大きく安堵したのだが、見せたいものとは何だろうか。
「見せたいもの?」
「うん。もうすぐだから、出来上がったら見てくれる?」
駆流が首を傾げるのと同時に、春果が顔を上げる。そのまま視線を駆流に向け、青白い顔で静かに微笑んだ。
春果がどんなものを見せてくれるのかは、当然のことながらまだわからない。
でも近いうちにはきちんと見せてもらえるようだし、そこで春果が自分を避けていた理由もはっきりとわかるだろう。
駆流は、今はそれだけで十分だと思った。これ以上問い詰める必要もない。
「わかった。楽しみにしてるから! 約束な!」
返事は、もちろんこれしかなかった。
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