第3話 保健室にて

(大丈夫かな……)


 駆流を運び込んだ保健室。

 その片隅で、春果は小さな丸椅子にちょこんと腰を下ろし、ベッドの上で眠っている駆流を不安そうな顔でずっと見守っていた。

 現在は養護教諭が少し席を外す、と出ていった直後だった。

 運んでからしばらく経つが、今のところ目を覚ます気配はない。しかし顔色はほんの少しではあるが、良くなっているように見えた。


(きっと、体調が悪いのにわざわざ来てくれたんだよね)


 このような状況だというのに、そんなことを考えると胸の辺りがふわりと温かくなる。

 手紙を無視することだってできたはずなのに、そうせずにきちんと来てくれた。疑っていたわけではないが、本当に律儀で優しい人なんだな、と心底実感した。


 自分が呼び出さなければこんなことにはならなかったのかもしれない、他の日にすればよかった、とは考えたが、今さら言ったところでどうなるものでもない。

 ならば自分が責任を持って、目が覚めるまでしっかりついていなくては、と強く思った。

 それに責任感だけではない。自分の好きな人が目の前で倒れたのだ。心配して傍にいたいと思うのは至極当然のことだろう。

 そんな時、眺めていた駆流の顔にわずかな変化が起こる。


「……ん……」


 駆流の口から小さく息が漏れて、ゆっくり目蓋が開いていく。そして、その視線は何かを探るかのように静かに天井から窓へと流れ、やがて春果を捉えた。

 目が合った春果の心の中は、駆流が目を覚ました喜びと、まだ告白途中だったという緊張感の入り混じった複雑な状態だった。それでも今この瞬間だけは喜びの方が大きく勝っている。


「よかった!」


 しっかりと目を開けた駆流に、春果はほっと一息つくと、破顔した。

 今は告白のことはどうでもいいと思った。こうして駆流が目を覚ましてくれただけで十分だ。


「俺、どうしてここに……?」


 駆流はまだ少しぼんやりとした様子ではあるが、まっすぐに春果を見据え、起きたばかりの掠れ気味の声で問う。


「私と話してた時に、篠村くんが倒れちゃったの。で、ちょうど通りかかった先生に保健室まで運んでもらったの。さすがに私一人じゃ無理だったから」


 春果は告白のことには直接触れず、そう言って照れくさそうに頬を掻いた。


「……そうだったんだ、ありがとう。でも話してたって何を……?」

「――っ」


 駆流の核心をついた質問に、春果は息を呑んだ。

 告白のことは覚えていないらしい。ならば今言える答えはこれくらいしかないだろう。というよりも、これしか思い浮かばなかった。


「え、えっと、別に大した話じゃなかったし、篠村くんが覚えてないならそれはそれで……」


 さすがに「告白してました」とは言えず、春果は俯きがちにもごもごと口ごもる。

 駆流が倒れたことで、春果の心の中はすっかり告白どころではなくなっていたし、今はそんな場合ではないとも考えていた。

 今ここで改めて告白するのも失礼だと思ったし、駆流が目を覚ました途端に何だか気が抜けてしまっていたので、それ以上は言わずに適当に誤魔化すことにした。


「確か、東条の教室に入ったところくらいまでは覚えてるような気がするんだけど……」


 うーん、と唸りながら、駆流が視線を天井に移す。

 駆流の記憶がどこから途切れているのかは定かではなかったが、どうやら春果の名前を呼んだ辺りの記憶はあるらしい。

 名前はどうにか覚えてもらえているようで、今はそれだけで満足だった。とりあえず自分という存在を認識してもらえていればいい、そう思う。


「とにかく、その辺は気にしないで! それよりもう平気?」


 まだ少し心配だ、とでも言いたげに顔を覗き込むと、


「ああ、随分良くなったと思う。最近ほとんど寝てなくて、きっとそのせいだから大丈夫」


 そう答えながら駆流が上半身を起こす。特に身体が痛んでいる様子はなさそうで、そのことにも春果は安堵した。


「寝てないって、勉強でもしてるの?」


 五月に中間テストは終わったばかりのはず、それとも駆流のクラスでは課題が大量に出ているのだろうか、と春果が小首を傾げる。

 その様子に駆流は小さく笑みを浮かべながら、違う違う、と手を振った。


「いや、今原稿中でさ――」


 途中まで零してから、駆流ははっとした表情で慌てて自分の口を両手で塞ぐ。けれど春果はそれを特に気にすることなく、さらに不思議そうな表情で首を捻った。


「原稿……って、小説とか?」


 もしかして、高校生作家だったりするのだろうか。もしそうなら、顔も良くて運動神経も抜群なのに、さらに小説家だなんてやだすごいカッコイイ。一体どんな小説を書いているのだろうか。芥川賞とか狙っていたりするのかもしれない。


 そんな妄想を瞬時に脳内で繰り広げた春果は、両手を胸の前で祈るように組むと、瞳を爛々と輝かせる。


「あー、えっと、小説じゃなくて漫画……」


 素直に答えた駆流はまたも慌てて自分の口を塞ぎ、今度はそのままうなだれた。それでもやはり春果は気付かず、さらに妄想を広げていく。


「漫画? あ、もしかして高校生漫画家とか!?」


 なるほど、なるほど。高校生で漫画家なんていうのも、それはそれでカッコイイ。どんな漫画を描いているのだろうか。バトルものやスポーツものは何だかそれっぽい。いや、意外とファンタジーなんかもありかも。


 これまで知らなかった駆流の意外な一面を知れそうな雰囲気に、春果の期待は高まるばかりだった。


「……そうじゃなくて」


 ぽつりと落とされた駆流の否定に、春果が「それでは一体何の原稿だろうか?」と問いたげな目を向ける。

 今の春果には、小説や漫画以外の原稿というものはさっぱり思いつかなかった。

 駆流はやや間を開けると、言いにくそうに口を開く。


「……同人誌の、原稿」


 ぼそぼそと小さく紡がれた思いもしなかった言葉に、春果の中で一瞬だけ時が止まる。

 そんな様子に、駆流はわずかに表情を歪めながら、気まずそうに背中を向けた。




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