第40話 後輩
放課後、春果は部活のために音楽室に向かっていた。
今日は新しい演奏曲の楽譜が配られる日で、それを楽しみにしていた春果は少々浮かれ気味だった。
(今回はどんな曲かなぁ!)
新しい曲はもしかしたら定期演奏会のアンコールで演奏するかもしれない、と顧問の教師が昨日言っていた。
別に演奏会用の曲でなくただの練習曲になったとしても、新しい楽譜をもらう時はいつも新鮮な気持ちになる。
その気持ちに呼応するかのように、今の天気もすこぶる良い。
早く譜読みをしたいとソワソワする気持ちを抑えながら一階の廊下を足早に歩いていると、不意に見知った人物が中庭のベンチに座っているのを視界の端に捉え、その足をピタリと止めた。
(てっきりもう帰ったと思ってたけど、こんな時間に一人で何してるのかな。ゲーム中……?)
ベンチに腰を下ろし、スマホの画面を見ている駆流の姿だった。
声を掛けようかとも考えたが、もしゲームをしていたら邪魔をすることになってしまう。
(ちょっとくらいは話してもいいかな……? いや、でもなぁ……)
どうしようか、などと思案していると、そこに駆流を呼ぶ声が聞こえてきた。
「篠村先輩!」
その可愛らしい声に、春果は思わず校舎の陰に隠れてしまったのである。
※※※
(何か咄嗟に隠れちゃったんですけど……)
中庭からは見えない場所にこっそり隠れた春果は、この後はどうしたものかと考えあぐねていた。
(うーん、部活あるしこのままずっとここにいるわけにもいかないよね。てか、何で私が隠れないといけないわけ? ただ通りかかっただけなんだけど?)
頭の中はクエスチョンマークでいっぱいになっている。
先ほどちらりと見えた女子の制服のリボンの色は一年生のものだった。『先輩』と呼んでいたし、それは間違いないだろう。
「お待たせしてしまってすみません」
後輩のしきりに謝っている声が聞こえてきた。
「別に気にしなくていいよ」
そんな後輩の態度に対して、駆流は朗らかに返している。
とりあえず不穏な空気ではなさそうだ。
しかし。
放課後の中庭。駆流を呼び出したらしい後輩の女子。
(ん、あれ? もしかしてこのパターンって……)
どう考えても一つしかないのでは? と春果は思い当たってしまった。
なるほど、そういうことか。
うんうん、と頷いて、
(だったらなおさら早くここから離れた方がいいよね。うん、そうだ。その方がいい)
人の告白現場を黙って覗き見するなんて良くない。
そう考えた。
だが、この場を離れようと抱えていた鞄を持ち直そうとしたところで、はた、とその手が止まる。
(……いや、でもこの場合告白されるのは私の好きな人だよね?)
そんな当たり前のことに今頃になってようやく気付いた。
(んー、覗き見とかはいかがなものかと思うけど、篠村くんに関することだもんなぁ。気にするなって方が無理だよね)
やはりこの後の展開が気になってしまう。
赤の他人のことならば、このままさっくりとスルーしても全然構わないし、実際するのだが、今回は自分の想い人が関係しているのだ。
ダメだとは思いつつも、どうしても無視することはできず、つい聞き耳を立ててしまった。
「それで話って何?」
聞こえるのは相変わらず優しい駆流の声だ。
「え、えっと……」
それに対し、どうやら後輩は言い淀んでいる様子だった。
(どうなるんだろう……)
二人のやり取りを陰からこっそり聞きながら、春果は自分の心拍数がだんだんと上がっていくのを感じていた。
そして、しばしの沈黙の後、
「……先輩のことが好きなんです! 付き合ってください!」
後輩の振り絞るような声が聞こえた。
当然のことながら表情などはまったく見えないが、声はしっかりと聞き取れた。
(やっぱり……っ!)
予想通りの展開だった。
春果の全身から血の気が引いていく。と同時に鞄を抱える両腕に力がこもった。
(しかもちゃんと『好きだから付き合ってください』って言ってた。私はまともに言えなかったのに……先を越された)
駆流に告白した時のことを振り返る。
自分は何度も練習したにも関わらず、本番ではきちんと伝えられなかった。
結果的には現在の良好な関係があるのだが、決して付き合っているわけではない。
いつかはまた告白し直そうと考えていたが、現状に満足していて『様子見』と言い訳をしながらそれをずっと先延ばしにしていたことを、今になって激しく後悔する。
(まさか、付き合っちゃうの……?)
後輩の告白に対して駆流がどう返答するのか、と春果は息を呑み、さらに聞き耳を立てた。
「あー、えっと……」
返事に困っているような駆流の声が耳に入ってくる。
即答しないということは、おそらくその子のことを好きではないのだろう、と春果は推察した。正確には、そうであって欲しいという春果の希望だった。
(学年が違うから顔すら知らなかった可能性が高いはず。うん、きっとそうだ。篠村くんはそういうとこ鈍いもん)
春果がそんなことを自身に言い聞かせている間も、駆流は返事をしようとはしない。
どう断ろうかと悩んでいるのか、それとも付き合うかどうかを考えているのか。できれば前者であって欲しかった。
だが、そんなはっきりしない駆流の態度に業を煮やしたのか、
「……最近よく一緒にいる女の先輩いますよね? もしかしてその人と付き合ってるんですか?」
後輩の声音が、詰め寄るような低いものに変わる。
(え、最近一緒にいる先輩ってまさか……)
思い当たることが多すぎる。春果は何だか嫌な予感がした。
「それって東条のことか?」
駆流が何の躊躇いもなく、あっさり春果の名前を口にすると、
「そうです」
後輩は厳しい声できっぱりと言い切った。
(やっぱり私のことだ――っ!)
春果の心臓が大きく跳ねる。
確かに最近は学校でもよく話していたし、一緒に帰ってもいた。それらがまったく見られていないはずがない。
駆流は学校内でもかなりモテる部類の人間だったことを、今になってようやく思い出した。そんな人間としょっちゅう一緒にいる自分は、駆流に好意を持つ女子からは間違いなく敵とみなされるだろう。
最近は一緒にいるのが当たり前になっていて、すっかり忘れていたのだ。
(そうだ、初めて篠村くんが音楽室に駆け込んできた時もみんなの視線が痛かった……っ)
あの全身を刺す、女子部員たちの視線は本当に痛かった。音楽室に戻った後もしばらくは何となく気まずい雰囲気だったことを回顧した。
(その後は特に何もなかったから完全に油断してた……!)
これまで誰かに敵視されて嫌がらせをされたり、などということはなかったはずだ。運が良かったのか、それともただ単に自分が鈍くて気付かなかっただけなのか。それはわからない。
「……東条は……」
また自分の名前が聞こえる。
これ以上のこと、特に駆流が自分という存在をどう説明するのかが怖くなって、春果は慌てて中庭に背を向けた。
(もう聞きたくない……っ)
そして、そのまま走り去る。
雲一つなかったはずの空は、いつの間にか少しずつ陰ってきていた。
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