第37話 春果の後悔

「ちょっと言い過ぎたよね……」


 自室のベッドの上で体育座りをしながら、どんよりと曇った表情の春果がうなだれる。

 家に帰って来てから冷静になって考えると、そこまで熱くなって喧嘩する程のものではなかった、と激しく後悔した。


 今さらではあるが一般的な喧嘩の原因というものは、意外と大したものではないことが多いような気がした。もちろんその時の当事者たちにはとても重要なことではあるし、関係が破綻してしまうことだって割合的には少ないだろうがないわけではない。


 けれど、今回の場合は本当に些細なことが原因だった。

 推しキャラが被らなかったのは別に構わない。それと同じように受けキャラの違いだって寛大な心で受け入れればよかったのだ。


 何より、同じ作品を一緒に楽しむのが一番大事なことだった。


 そんなとても単純なことをすっかり忘れていた。


「別にカップリングが逆だったわけでもなかったし、てか詳しいカップリングの話になる前に喧嘩しちゃったもんなぁ……」


 盛大に溜息をつく。

 きっと心の狭い子だと思われた。これはもう間違いないだろう。

 隣にあった大きなクッションをぎゅっときつく抱え、顔を埋める。


(今からでもちゃんと謝れば許してくれるかな……)


 普段温厚な駆流のことだ、きっと誠意をもって謝れば許してもらえるのではないか、と心のどこかで思った。そう期待したかった。


 だが、今回はその温厚な駆流を怒らせてしまったのである。許してもらえるどころか、このまま口を利いてもらえる可能性すらないかもしれない。

 さすがにそこまではないにしても、これから先の関係がギクシャクしてしまうことは十分にあり得ることだった。


 しかもきちんと謝ろうと思ったところで今日は金曜日である。週明けの月曜日まで会うことができない。何とタイミングの悪いことか。


 直接駆流の家まで行くという考えも一瞬頭をよぎったが、今日はもう夜も遅いし、それはそれで重すぎるような気がした。


 では、月曜日まで待った方がいいのか。


「いや、それじゃ遅すぎる! 電話にしよう!」


 春果は勢いよく顔を上げた。


 直接顔を見て謝ることはできなくても、例え電話であっても一分一秒でも早く謝った方がいいに決まっている。遅くなればなるほど、謝りにくくなるのはわかっていた。


 近くに置いていたスマホを素早く手に取ると、慣れた動作で駆流の電話番号が登録されている画面を開く。

 だが、通話ボタンをタップしようとした時、ふとその手が止まった。


 見れば、小刻みに震えている。


(もし、許してくれなかったら……?)


 そんなことを漠然と考えた。


(ううん、それ以前に着信拒否されたら……?)


 そうなったら、もう謝ることすらできなくなってしまう。


(どうしよう……っ)


 タップしようとしていた指だけでなく、スマホを持った左手までもが震えている。


 ただ電話をするだけなのに、それがすごく怖い。

 ここまで怖い思いをしたのは生まれて初めてだ、と思った。


 何より、謝った時の駆流の反応を想像するのが怖かった。


 けれどここでうじうじ悩んでいたところで何も始まらないし、事態が好転するわけでもない。


「――――こんなんじゃダメだ!」


 しばらくしてようやく思い切ると、春果はその勢いのままボタンをタップした。


 ほんのわずかな間があって、電話は駆流を呼び出し始める。その呼び出し音を、春果はスマホをしっかり掴んだまま、ずっと緊張した面持ちで聞いていた。


 しかし。


(なかなか出ないなぁ)


 留守電には切り替わらないが、呼び出し音がずっと鳴ったままだ。


(着信拒否……はされてないよね……?)


 だが、あえて無視してこちらから切るのを待っている可能性だってある。

 なかなか電話に出ない駆流に、春果の心にはだんだんと焦りと不安が募っていく。


(いつまで待ったらいい……?)


 まだ鳴りやまない呼び出し音を黙って聞き続けた。


 一体どれだけ待っただろうか。


(いい加減切った方がいいよね)


 仕方がないから、また後でかけ直してみようと小さく息を吐いた時だった。


「……東条?」


 ようやく電話の向こうから声がした。



  ※※※



 駆流が電話に出てくれたまではよかったが、春果はどうやって謝罪の言葉を切り出せばいいか迷っていた。


「あ、あの……」

「何?」


 駆流の声にはまだ怒気が含まれているような気がして、怖くなった。


「用がないなら切るけど」

「ま、待って! ちゃんと用事あるの!」


 今にも電話を切られてしまいそうな雰囲気に、春果は必死になって言葉を紡ぎ、引き留める。


「今日はごめんなさい! ただ私は篠村くんと一緒に楽しめればそれでよかったの。それなのに、変な意地張って嫌な思いさせちゃった……本当にごめんなさい。まだ怒ってるよね……?」


 一気に言い切ると、ややあって、駆流が大きく息を吐くのがわかった。


「いや……俺も悪かった。それに今はそこまで怒ってないから」

「そこまで、ってことは、やっぱり少しは怒ってるんだ……」


 これ以上はどうやって償えばいいのか、と春果のスマホを持つ手に力がこもる。


「……怒ってるのは自分に、かな」

「自分?」


 意外な答えに、春果は思わず聞き返した。


「うん。推しとかの好みなんて人それぞれなのに、それを強要しようとした自分にってとこかな。それに、俺も東条に嫌な思いさせた」

「それなら私だって同じだよ。無理やり自分の好みを押し付けようとしたもん」


 結局、お互い一緒に楽しみたいだけだった。


 推しキャラが被っていないことは全然構わないし、受けキャラだって別にそんなに気にする必要はない。これから先、被ることだってあるかもしれないのだから。


 ようやくそんな結論に辿り着いた二人は、


「じゃあ今回はおあいこってことで仲直りだな!」

「そうだね!」


 電話越しに揃って笑い合った。


 そして、電話を切ったあとすぐベッドに潜り込んだ春果は、


(ちゃんと仲直りできてよかった……!)


 これまでと打って変わって、満ち足りた気持ちで深い眠りについたのである。




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