第35話 奈緒と駆流
「あ、駆流、おかえりー」
アニメショップを出て、春果をいつもの駅まで送り届けた後、まっすぐに帰宅した駆流を待っていたのは夕食の支度をしていた菜緒だった。
「ただいま!」
「よかった、ちょうど今できたとこ。冷めないうちに食べちゃって」
見れば、食卓にはすでに数点のおかずが並んでいた。
食べ盛りの駆流のことを考えられて大盛りにされた肉じゃがと、こんがりと良い具合に焼き目のついた焼き魚が美味しそうに湯気を立てている。
その横にはしっかりと野菜サラダも鎮座していた。たんぱく質だけでなく、食物繊維やビタミンも大事だということだ。
両親が揃って出張中の現在は、菜緒が家事のほとんどをこなしてくれていた。自分一人ではごみ捨てくらいしかできない駆流にはとてもありがたい存在である。
ソファーの上に鞄と今日の収穫の入った大きなアニメショップの袋を置くと、ちょうど二人分の味噌汁を食卓に置こうとしていた菜緒がそれを見て、ぎょっとした。
「これまた随分買い込んできたね……今日も三個ずつ?」
「久しぶりだったからな! もちろん三個だけど、東条にはあまり理解されなかったな」
どうしてだろう、と駆流が不思議そうな顔で首を捻る。
その台詞を聞いた菜緒は、
「そりゃ、そうだろうよ」
冷ややかに、それだけを返した。
さすがの春果でもこればかりは理解するのは難しいだろうな、と菜緒は思う。
自分だって、とにかく駆流はこういう人間なのだ、と納得はしたが、理解までは追いついていない。
春果は、今日も新たに駆流の残念さを目の当たりにしたのだろう。
姉として申し訳なく思う。
けれど、それでも春果は駆流を見捨てるようなことはしない、という自信がどこかにあった。
きっとこないだ春果と車で話したことが影響しているのだろう。
もしかしたら、今頃は駆流と一緒にアニメショップに行けたことを喜んでいる可能性だってある。いや、間違いなく喜んでいるはずだ。むしろそうであって欲しい。
(春果ちゃん、こいつのことホントによろしくね……!)
心の中で涙を浮かべながら、そっと祈った。
「まあ、最近は家にこもってる方が多かったもんね。たまにはいいんじゃない。それに春果ちゃんならそのうち理解してくれるでしょ」
菜緒は微笑んで、「ほら、早く」と駆流をテーブルにつくよう促した。
※※※
姉弟二人だけの食卓は、特別うるさくもなく、かといってものすごく静かというわけでもなかった。
今日駆流が行ったアニメショップの話や、次の新刊の話、それに菜緒の大学での話など、話題には事欠かない。
そんな中で、菜緒がふと思い出したように切り出した。
「今日はあんたが春果ちゃんを誘ったの?」
「そうだけど」
向かいに座る駆流は箸を止めることなく、大きく口を開けながら視線だけを菜緒に向けた。
「春果ちゃんってすごくいい子よね。あんたの買い物にも付き合ってくれるし」
言いながら、菜緒がニヤニヤと意味ありげな視線を送ると、
「ああ、それだけじゃなく売り子や原稿まで手伝ってくれるし、東条は本当にいい奴だ……!」
駆流は今にも涙ぐみそうになりながら、何かを噛み締めるようにそう答える。
「……」
その様に菜緒は呆れてものが言えなくなった。
男のくせにそこで泣くなよ、とは思ったが、言ったら言ったで「いや、ここは泣くとこだろう!? 今泣かないでいつ泣くんだよ! 人は感動した時に泣いたっていいんだ!!」などと、何だか面倒くさそうな反応が返ってきそうな気がしたので、口には出さない。
「いや、そういう意味じゃなく」
「ん?」
どうやら真面目な話らしいことに気が付いた駆流がようやく箸を止める。もちろんこれまでの話が不真面目な話だと思って聞いていたわけではないが、特別重要な話だとも考えていなかったのだ。
「だから、あんたは春果ちゃんのことを女の子としてどう思ってるのか、って話よ」
我が弟ながら本当に鈍いやつだ、とも思うが、これも口にはしなかった。
「どう、って……」
小さく呟いて、駆流は箸を止めたまましばし考え込む。
「……同士? いや、戦友……? それとも相棒か……?」
ようやく出てきた答えは、そのどれもがとても曖昧なものだった。
「いやいや、そこ疑問形で返されても困るし」
すぐさま菜緒が突っ込みを入れ、その後には心の底から呆れたように大きな溜息を落とす。
この様子では、今はこれ以上何を言っても無駄だろう。それでも最後に一つだけ、これだけは駆流に言っておきたかった。
「あんたは残念な腐男子だけど、リアルでは女の子が好きだったんじゃないの? 私はそう記憶してるけど」
言い捨て、席を立つ。そして数拍、厳しい双眸で駆流をまっすぐに見下ろすと、今度は無言で背中を向けた。
すでに食べ終わっていた食器を手早く台所に片付けると、菜緒は変わらず無言のまま、部屋を出て行こうとする。
駆流はその背を視線だけで追うが、突然張り詰めた空気の中ではさすがに声を掛けることは憚られた。
そのまま、ドアの外へと菜緒の姿が消えていくのを見送るのが精一杯だったのである。
※※※
「東条のことを女の子として……? あれ、俺……?」
一人きりになった食卓で箸を持ったまま、駆流は菜緒の残した言葉を繰り返す。
菜緒が急に不機嫌になった理由はわからないが、おそらく自分に何かしらの非があったのだろう。
そこまでの考えにはどうにか至ったが、やはり自分が菜緒に対して何をしたのかは、皆目見当もつかなかった。
「……残念な腐男子か」
小さく口にして、自嘲する。確かに周りから見ればそうだろうな、と思った。
それでも菜緒に言われた通り、女の子が好きなのは事実である。腐男子である今も昔も変わっていない。
春果のことはもちろん好きだ。
今までそれは仲間として、あるいは友人としてのものだと漠然と思っていた。
だが改めて問われると、はっきりとした答えが出てこない。
「そうか、東条も女の子、だよな……」
まだ少し肉じゃがの残っている皿に視線を落としながら、独りごちる。
最近は一緒にいるのが当たり前になっていたから、性別がどうのだとかそんなことを考えることはなかったし、必要性もなかった。
春果が隣にいると楽しいし、嬉しいと思う。春果が笑顔だと自分も自然と笑顔になるし、悲しんでいる顔は見たくない。
それは何でも話せる友人としてだろうか。それとももっと違う意味なのか。
(そういえば……)
オーケストラコンサートの少し前、駅まで春果を送っていった時に目が合ったことがあった。
その時の春果の顔は赤かったように見えた。けれど、すぐに慌てた様子で走り去ってしまったから、本当にそうだったかは今となってはわからない。
自分の気のせいだったかもしれないし、どうして急に一人で行ってしまったのかもいまだによくわかっていない。
ただ、呆然と見送った自分の左手が、春果の頭の高さで止まったままだったことだけは覚えている。
あの日、自分は一体何を思ったのか。
それは何だか、とても重要なことのように思えた。
駆流は自問自答する。
いきなり春果の態度が変わって、「どうしたのだろう」と思うのと同時に、「嫌われたのかもしれない」とも考えたが、心配は翌日すぐに解消された。春果が謝ってきたからである。
その時、いつもと何ら変わらない春果の態度にほっとして、「気にするな」と明るく返した。
単純に、ただ一時だけ機嫌が悪かっただけなのかもしれないと思ったのだ。先ほどの菜緒と同じように、女子はよくわからない生き物だな、と。
(……いや、ちょっと待てよ)
そもそもどうして心配になったり、逆にほっとしたりしているのか。
答えはすぐ近く、手の届くところにあるような気がするのに、どうしてもそれが掴めない。懸命に伸ばす手はただ空を切るだけで、指先さえも触れさせてもらえないのだ。
「うーん……?」
今度は腕を組み、天井を見上げながら、唸る。
(女の子……か)
残ったままの肉じゃがは、いつの間にかすっかり冷めきっていた。
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