第18話 修羅場

「春果ちゃん!?」


 閑静な住宅街にある駆流の家。

 玄関のチャイムを力いっぱい鳴らすと、菜緒が驚いた様子で出迎えてくれた。

 まさか、春果が現れるとは予想すらしていなかったのだろう。

 春果は駆流の家がどこにあるのかたまたま教えてもらっていたのだが、菜緒はそのことを知らなかったのだから、驚くのも当然である。

 正直、春果自身も『いつか行けたらいいなぁ』などと一人で妄想していた程度で、本当に駆流の家に来ることになるとは思ってもみなかった。

 しかもこんなに切羽詰まった状況で。


「菜緒さんこんにちは! 篠村くんは!?」


 挨拶もそこそこに、菜緒に詰め寄る。

 血相を変えた春果に少々たじろぎながらも、相変わらずよく気の回る菜緒はすぐに何かを察したようだった。


「ああ、そういうことか。とりあえず上がって」


 菜緒に促されて、家に上がる。


「お邪魔します!」

「今、両親は仕事でいないから安心していいよ」


 その言葉に、春果ははっと目を見開いた。

 駆流のことが心配で、つい勢いに任せてここまで来てしまったが、ご両親への挨拶だとかそんなことは微塵も考えていなかったのだ。


「そ、そうですか」


 平静を装いつつ、心の中で安堵する。


(もし今度来ることがあったら、ちゃんと挨拶を考えてこないと! 危うく礼儀のなってない子だとご両親に思われるとこだったよ……っ!)


 次への決意を胸に秘めながら、菜緒と一緒に階段を上がる。

 階段を上りきると菜緒が立ち止まったので、それに倣い春果も足を止めた。すると、菜緒が眉をひそめながら廊下の奥を指差す。


「この廊下の突き当たりが駆流の部屋なんだけど……」

「すっごくよくわかります……」


 詳しい説明がなくても、菜緒の言いたいことはすぐにわかった。

 突き当たり、つまり駆流の部屋から結構な音量で聞こえてくる音楽は、春果にはよく馴染みのあるものだ。


 この家に上がった時からずっと聞こえていたもの。

 それは、ゲームのサウンドトラックだった。


「サントラならギリセーフって感じ、かな……」

「これがキャラソンだったら多分アウトですね……」


 二人揃って、遠い目で呟き合う。


 サントラなら声が入っていないから、もし外に漏れていてもちょっと聞いただけでは何の音楽かはわからないだろう。むしろわかったとしたら、それはきっと同士だ。固い握手を交わしたい。


 春果も同じサントラを持っているし、キャラソンなども同様に持っているが、さすがに自分の部屋であってもヘッドホンをつけて聴いている。

 それなのにヘッドホンなし、さらにこの音量で堂々と聴くことのできる駆流は、やはり大物なのかもしれない。さすが腐男子といったところか。

 菜緒と顔を見合わせながら、静かに部屋の前へと向かう。


「駆流、入るよ?」


 一応、軽くノックをしてドアを開けた菜緒と春果を待ち受けていたのは、


「篠村くん!?」


 大音量の中、床に倒れ伏している駆流の無残な姿だった。


「どうしたの!?」


 慌てて春果が駆け寄り、駆流の様子を見ようとしゃがみ込む。


(あれ? こんな光景、前にも見た気がするな)


 ふとそんな既視感を覚えた。

 すると、駆流がわずかに顔を上げる。


「……東条とうじょうの、登場とうじょうか……なんてな……」


 色の薄くなった唇でそれだけを小さく紡ぐと、またぱたりと突っ伏してしまった。

 その様子を春果の後ろで眺めていた菜緒が、大袈裟に溜息をつく。


「やっぱり今回もか。しかも親父ギャグとか全然笑えないし、今回は相当やばいね」

「菜緒さんどういうことですか!?」

「駆流の周り、よく見たらわかるよ……」


 春果の混乱とは対照的に、菜緒は倒れたままの駆流から目を逸らしつつも冷静に言う。


「え……?」


 言われた通り、駆流の周囲を見回した。


 部屋の中央に置かれた大きめのローテーブルには、大量の紙類と筆記用具が散らばっている。

 下描きのされた同人誌用の原稿用紙、墨汁とつけペン。他にあるのはシャーペンと消しゴムくらいのものか。

 ほとんどは春果も見知ったものである。


 この状況で考えられるのは原稿中だった、ということだけだが、その場合ここにあっていいはずのものが数点見当たらない。

 ベタ用の筆もしくは筆ペンに、トーンと、それを切るためのカッターである。

 すぐ傍で倒れている駆流の両手には、ところどころ黒い汚れが見て取れた。墨汁の汚れだということはすぐにわかった。そして額に貼られた冷却シート。


 それらを合わせると、考えられる結論はただ一つだ。


「篠村くん! この原稿の締め切りっていつ!?」


 春果は駆流の身体を大きく揺さぶりながら、声を荒げた。


 よく見れば、原稿にはまだトーンどころかペン入れすらされていないページもあった。ペン入れの終わったページが数枚テーブルの上にあるということは、おそらくペン入れの途中で力尽きたのだろう。

 要するに、次の新刊が落ちそうだということだ。

 すぐにそこまでの答えを導き出した春果は、やっと先ほどの既視感の正体を掴むことができた。


(あの日も同じような感じだった……っ!)


 初めて駆流と言葉を交わした日、告白はうやむやになってしまったけれど、仲良くなるきっかけになった日のことだ。

 まさか、その時とほぼ同じような体験をまたすることになるとは思いもしなかった。

 しかし、今はそんなことはどうでもいい。


「……火曜日……」


 駆流がよろよろと起き上がりながら、今にも死にそうな声で一言だけ答える。


「火曜日って明後日じゃない!!」


 その言葉に、春果は悲鳴にも似た声を上げた。


 改めてテーブルの上に視線を走らせる。

 まだペン入れの終わっていないページの方が多いように見受けられた。つまり、ベタやトーンが丸々残っていることになる。

 今からやって締め切りに間に合うだろうか。いや、どうにかして間に合わせるんだ。きっと新刊を楽しみにしている人たちが沢山いる。自分だってその一人なのだから。


「わかった、私も手伝うから間に合わせよう! 菜緒さんも一緒に……!」


 駆流の身体を支えながら、春果が助けを求めるように菜緒を見上げる。

 しかし。


「……姉貴は絶対に原稿に触るな」


 春果とは対照的に、駆流は低く唸りながら、菜緒を睨み付けた。


「そんなこと言われなくてもわかってるわよ」


 奈緒も冷たい瞳で駆流を見下ろす。


「でも三人でやった方が早いんじゃ……」


 春果はおろおろと困った顔で、途端に険悪な雰囲気になってしまった二人を交互に見やった。


「東条、甘いぞ」

「え?」

「姉貴は美術全般が壊滅的にダメなんだ……!」


 そして、拳を握りしめた駆流はさらに続ける。


「前に一度手伝ってもらったら原稿の半分が描き直しになったんだよ……! 新刊はぎりぎり落ちなかったけど、あの時の地獄といったら……っ!!」

「――っ!」


 春果は思わず息を呑んだ。そして、その顔からはみるみる血の気が引いていく。

 締め切り間際での描き直し。自分自身で体験したことはないが、それがどんな地獄だったのかは想像に難くなかった。


「そんなこともあったわね」


 ドアの前で腕を組んだまま、冷徹に答える菜緒に、


「だから絶対にダメなんだ……っ!」


 駆流は心底悔しそうに歯噛みし、拳を床に叩きつけた。


 できれば手伝って欲しい。でも、そのせいでまた描き直しになるのはまっぴらごめんだ。

 その気持ちは春果にも痛いほどわかる。

 だから、今言えるのはこれだけだった。


「……うん、じゃあ二人で頑張ろう!!」




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