第5話 金閣寺の謎
京都に修学旅行に行ったならば必ずや訪れるであろう金閣寺。
そのまばゆい金箔の輝きに目を奪われる学生は多いであろう。管理人なども銀閣寺などより印象深く思ったものである。
しかし高校生当時は知らなかったがこの金閣寺、決して見た目が派手なだけの寺ではない。
いや、そもそもは寺ですらないのだ。
そこには将軍足利義満の知られざる野望や現代に忘れ去られた驚異の構造が存在した。
金閣寺は正式な名称を鹿苑寺といい、足利義満の法号である鹿苑院にちなんで名づけられてる。
もともとは京都北山の義満の山荘であり、死後寺に改築されて現在の鹿苑寺となった。
臨済宗の名僧夢窓疎石によって開山され、現在は臨済宗相国寺派に属している。
この金閣寺、非常に特殊な造りをしていることで知られている。
3階建の1階部分は寝殿造りであり、公家の様式で建築されているのだが、2階部分は武家造りであり、3階の究境頂は中国風の禅宗様で造られている。
これは公家よりも武家がえらく、その武家よりも義満がえらいということを暗示していると言われている。
当時義満は禅宗の僧として出家しており、また中国の明から日本国国王に任命されてもいた。
自分こそは最高権力者であるというわけだ。
このような見解に至る傍証はほかにも数多い。
たとえば金閣寺の屋根の頂点には黄金の鳳凰が飾られているが、これは非常に縁起の悪い、というよりも皇室にとっては無礼な代物である。
なぜなら鳳凰とは中国で新たな天子が現れたときに地上に姿を現す瑞鳥とされており、天皇家が交替することを暗示しかねないものであるからだ。
日本のどこを探しても鳳凰をここまで堂々と見せつけているのは金閣寺以外に平等院鳳凰堂があるのみである。
平等院鳳凰堂も摂関政治が頂点に達し、「この世をば、我が世とぞ思う」と詠んだ藤原道長の息子頼道が建てたことも天皇家に対する軽視が生んだことを暗示しているように思えてならない。
また当時内裏の北側には相国寺の七重の塔がそびえ立っていて内裏を見下ろすような立地に眉をひそめる者は多かった。
現在東京で建築される高層ビルには、皇居を見下ろすことが出来ない程度の高さにするという暗黙の了解があるが、当時はこうしたタブーに対する批判はさらにつよかったであろうと思われる。
全長109m東大寺五重の塔が54mなので桁外れの高さを誇る。たびたび放火されその後再建されることはなかった。
それだけではない。
天皇家が使う鴨川の水は一旦相国寺に引きいれられ、相国寺を経由して御所に届くようになっていた。
その気になればいつでも御所の飲料水を差し止めることができたのである。
次男である義嗣を皇太子格とし、自らも太政法皇(出家した天皇のこと)の宣旨を受けた義満の野望がどこまで先を見据えていたかはわからない。
興味のある方は井沢元彦氏の天皇になろうとした将軍を是非ご覧になっていただきたい。
さて、金閣寺をめぐる謎はそれだけではない。
金閣寺といえば誰もがその燦然と輝く金箔を思い浮かべるが、戦前の観光案内で金閣寺の売り文句は別にあった。
「金閣寺をごろうじなしたか、なんと楠一枚板ではないか」
という唄い言葉もあったという。
金閣寺の3階部分である究境頂の天井はなんと一本の楠から切り出されたというのである。
現在日本最大と言われる蒲生の大楠は 高さ30m、幹回り24.22mの巨大さだ。
究境頂の天井はおよそ3間、つまり5.4mである。
この一辺が5.4mの正方形を切り出すには日本最大の蒲生の大楠でも足りない。
最低でも幹回りで26m以上のサイズが必要なのである。
あの有名な屋久島の縄文杉でも幹回りは16mほどでそれでも樹齢は3000年を超えるという。
いったいどれほど巨大で長い年月を生きてきた楠から切り出されたのか、金閣寺に保管される資料からはいっさい窺うことができない……。
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