第22話 福岡大学ワンダーフォーゲル部羆襲撃事件

 三家別の羆事件と並んで我が国でも特筆すべき獣害事件である。

 襲撃から死亡までの間にある程度の時間の経過があることから、リーダーの決断が長く批判されることとなった。

 実際に羆の習性を知っていたら避けられたのではないか、と管理人も思うのだが、遭遇したのが登山経験の長いベテランではなく血気盛んな年若い大学生であったことが悲劇を生む遠因ともなった。






 1970年7月12日午前9時に九州博多から「つくし1号」で出発した地元福岡大学ワンダーフォーゲル同好会のメンバーは(当時部には昇格していなかった)14日新得に到着。

 新得警察御影派出所に登山計画書を提出し、その日の午後には登山を開始した。

 観光や休息も二の次にした彼らの行動に今回の登山に懸ける意気込みが伺えた。

 発足間もないワンダーフォーゲル同好会を部に昇格させるためにも、今回は大きな実績をあげるチャンスであったのである。


 パーティーは日高山脈の芽室岳(1754m)からペテグリ岳(1736m)までの日高山脈縦走を目標としており、そのメンバーは


 ・竹末一敏さん(経済学部3年 20歳 リーダー)

 ・滝俊二さん  (法学部3年 当時22歳 サブリーダー)

 ・興梠盛男さん(工学部2年 19歳)

 ・西井義春さん(法学部1年 当時19歳)

 ・河原吉孝さん(経済学部1年 18歳)


 の5名であった。



 7月25日に中間地点であるカムイエクウチカウシ山に達したパーティーであったが、やはり経験の少なさが表れ日程は大幅に遅延していた。

 そのため区間最高峰であり難所として知られるカムイエクウチカウシ山を登頂して下山することを決断する。

 日高山脈でも標高1900mを超えるのはこの山だけで、ここを制覇せずして日高を制覇したとは言えないし、日高山脈縦走の一番の目標でもあったからである。

 しかしアタックの前日、パーティーは峰下の九ノ沢カールと呼ばれる場所で野営をしたがここでパーティーは最初の襲撃を受けた。

 その羆を発見したのはリーダーの竹末氏でテントから7mほど離れた場所からこちらを窺っていた。

 当初メンバーは羆を怖がってはいなかったが、羆はゆっくりこちらに近づくとテントの外に置いてあったザックをあさり食糧を食べ始めた。

 発見してからおよそ30分後の出来事だった。

 慌てたメンバーは隙を見てザックを回収しラジオの音量を上げ、火を灯し、食器を鳴らすなどして羆を追い払ったが、この行動がのちにメンバーを恐怖のどん底に突き落とすことになる。

 


 ※野生の動物は火を怖がるという俗説があるが、少なくとも羆に限ってはむしろ興味をもって近寄ってくることが多いことがのちの調査で明らかになっている。

  ラジオの音もほとんど効果はなく、鈴を鳴らすなどの音はこちらの場所を知らせる程度の効果しかないので、一旦獲物認定されると逆効果にしかならないそうだ。

  羆があさっていたザックには帰路の現金などが入っており、羆に持ち去られては困ると判断したらしい。


 午後9時には二度目の襲撃があった。

 疲れて眠っていたメンバーが熊の鼻息で目を覚ますと、羆はテントに拳大の穴を開けるなどして暴れ、まもなく去って行った。

 メンバーは2時間おきに見張りを立てることとして恐怖の一夜を明かした。


 7月26日午前3時起床。天気は快晴だがメンバーは恐怖のあまり誰一として一睡もしていなかった。 

 出発前の午前4時半ごろ、メンバーは三度目の襲撃を受ける。

 テント内に羆が入ってこようとするためメンバーはテントの支柱やテント地を握り5分ほど羆と引っ張り合う形となった。

 このままでは埒が明かないと判断したリーダーの指示で、メンバーは羆とは反対側の幕を開けて逃げ出した。

 このとき羆はメンバーを追わず、テントを引き倒して相変わらず最初のザックをあさっていた。

 

 ここでリーダーの竹末氏は重要な決断をする。

 サブリーダーの滝さんと最年少の河原さんの二人を下山させ営林署に連絡してハンターの出動を要請するよう命じたのである。

 この時点でメンバー全員が下山することを決断していれば犠牲者はなかったかもしれないのだが、必死でかき集めた遠征資金、そして今年が最後の挑戦になるであろう竹末氏にその決断を求めるのは酷であるだろう。学生時代の金の貴重さはバイトで生活を支えていた管理人にはよくわかる。

 下山を開始した二人は途中の八ノ沢で別の登山パーティー「北海岳友会」と出会う。

 ちょうど彼らも羆に襲われており、(おそらくは同じ個体)下山するということだったので二人は救援要請を彼らに頼み、不要となった食糧・ガソリン・地図などを分け与えられて再び3人のもとへと戻り始めた。

 彼ら自身にも下山せず自分たちもあわよくば登頂したいという欲求があったのではないか?

 

 7月26日午後1時、二人はカムエク岳稜線上で三人と合流を果たす。その途上鳥取大学、中央鉄道学園の2つのパーティーとすれ違った。

 午後3時、稜線上のほうが安全としてここにテントを設営したがそれもつかのま午後4時30分、四度目の襲撃がメンバーを襲った。

 テントのそばから1時間経っても離れようとしない羆にこれ以上ここに居続けるのは危険と判断した竹末氏は八ノ沢の鳥取大学のテントに避難させてもらうことを決意。

 午後6時半、暗闇を駆け降りる彼らの背後にたちまち羆が迫った。

 熊が下り坂が苦手というのも完全に俗説である。彼らは鹿ですら捕食するほどに速度と瞬発力に富んでいる。

 まず羆は河原氏を狙い彼の背中に飛びかかった。

 「チクショウ!」

 絶望の悲鳴を上げて河原氏はやぶの中へと連れ込まれる。

 ガサガサという格闘の音が響き、足を引きずりながら必死に鳥取大テントに向かって歩く姿が彼の最後の姿となった。


 竹末さん、滝さん、西井さんの3人は鳥取大パーティーに助けを求め、彼らはホイッスルを吹いた。

 ここで鳥取大パーティーとともに下山するという選択肢が再び現れる。

 しかし河原氏と興梠氏という二人の仲間とはぐれた今、彼らを見捨てて下山するという決断は竹末氏には出来なかった。

 3人は結局鳥取大パーティーと別れ岩場に登り夜を明かした。そのころ興梠さんは逃げる途中に他のメンバーからはぐれ、別の場所に身を隠していた。

 3人は河原さんの無事を祈りつつ、はぐれた興梠さんの名前を呼び続けたが、1回応答しただけで姿を見せなかった。


 7月27日早朝、深い霧のために視界は5mを切っていた。

 これでははぐれた仲間を見つけることも羆の接近に気づくことも難しい。

 3人は午前8時ごろまで2人を探したが、ここでついに下山を決断した。


 しかしこの決断はあまりにも遅かった。

 下山を開始して早々に先頭を歩いていた竹末氏のわずか2.3m先に羆が出現。

 羆は逃げる竹末氏の後を追い、この隙にかろうじて滝氏と西井氏が脱出した。

 午後1時ごろ二人はなんとか五ノ沢の砂防ダム工事現場までたどりつき、自動車の手配を頼む。

 それから麓の中札内駐在所に到着することには午後6時を回ろうとしていた。


 翌7月28日遭難したメンバーの救助隊が編成されたが彼らが発見したのは3人の無惨な遺体であった。

 執拗に転がされたのか着衣はほとんどはがれておりベルトだけがかろうじて残されていた。

 ある者は顔が半分失われており、またあるものは腸が腹から引きずり出されていた。 

 検死結果によると、3人の死因は「頚椎骨折および頚動脈折損による失血死」であった。

 致命的な傷は首、顔、股間の3点に限られる。3人はいずれも逃げている最中に後ろから臀部を攻撃され、うつぶせに倒れたところを臀部や肛門部を噛み切られたものと見られた。

 臀部は三家別の羆事件でもよく狙われている。


 26日にメンバーからはぐれていた興梠氏も遺体で発見された。

 彼はたった一人でテントに戻っていたらしく、恐怖を伝えるメモが残されていた。




 

 26日午後5時。夕食後クマ現れるテント脱出。鳥取大WVのところに救助を求めにカムイエク下のカールに下る。

 17:30 我々にクマが追いつく。

 河原がやられたようである。

 オレの5m横、位置は草場のガケを下ってハイ松地帯に入ってから20m下の地点。

 それからオレもやられると思って、ハイ松を横にまく。するとガケの上であったので、ガケの中間点で息をひそめていると、竹末さんが声をからして鳥取大WVに助けを求めた。オレの位置からは下の様子は、全然わからなかった。クマの音が聞こえただけである。竹末さんがなにか大声で言ってた、全然聞きとれず、クマの位置がわからず。


 ガケの下の方に2、3カ所にたき火が見える。テントにかくまってもらおうと、ガケを5分ぐらい下って、下を見ると20m先にクマがいた。オレを見つけると、かけ上って来たので一目散に逃げる。前、後ろへ横へと転び、それでも振りかえらず前のテントめがけて、やっと中へかけこむ。しかし、誰もいなかった。しまった、と思ったが、もう手遅れである。シュラフがあったので、すぐ一つを取り出し、中に入り込み大きな息を調整する。しばらくすると、なぜか安心感がでてきて落着いた。それでもkazeの音や、草の音が、気になって眠れない。鳥取大WVが、無事報告して、救助隊が来ることを祈って寝る。


 27日 4:00 目が覚める。

 外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時までテントの中にいることにする。

 テントの中を見まわすと、キャンパンがあったので中を見ると、御飯があった。

 これで少しホッとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持悪い。

 もう5:20である。

 また、クマが出そうな予感がするので、またシュラフにもぐり込む。

 ああ、早く博多に帰りたい


 7:00 沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあったシャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。


 8:00頃まで・・・・(判読不能)しかし・・・・・(判別不能)を、通らない。他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ、助けに来るのか。すべて、不安でおそろしい・・。またガスが濃くなって・・・・





 時間的には28日の朝までは生存していたことになり、救助隊の到着が間に合わなかったのはさぞ無念であったろう。

 



 29日、福岡大ワンゲル部5人を襲った羆はハンター10人によって射殺された。

 胃袋が調べられたが、その羆は人間をいっさい食べていなかった。悪戯するかのようにいたぶっていただけなのである。

 そしてこの羆は4歳にして交尾をした形跡はなかった。4歳といえば人間でいえば20代の前半にあたり、もっとも活動的で恐れを知らない年齢であるらしい。

 これが老成した羆であればよほど飢えていないかぎりこのような危険な行為に走ることはしないそうだ。

 この羆を仕留めたハンターたちは「山のしきたり」により、この肉を食した。





 その後の啓もう活動

 羆は火を怖がらない。ラジオの音は効果がない。

 そしてもっとも大事なことは羆に何か奪われても取り返そうとしないことである。

 羆は獲物を奪うとそれを自分のものとして執着する習性がある。

 福岡大のメンバーもザックに貴重品が入っていたことから数回にわたって羆からザックを取り返しており、そのため羆が彼らを敵として認識してしまった可能性が高い。

 もうひとつはバラバラにならないことである。

 実はこの事件でも集団で固まっている間は致死的な襲撃はされていない。

 無秩序にバラバラに逃げ出したところを襲われているのがほとんどである。

 現地の猟師も「背中を向けて逃げ出すのが一番よくない」と語っている。

 突然走りださない、固まってばらけないというのが羆獣害を防ぐ一番のポイントだそうである。


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