第15話 コティングリーの妖精写真
管理人が小学生のころ大流行したものに、中岡俊哉氏の「恐怖の心霊写真」シリーズがある。
この「コティングリーの妖精写真」も収録されており、子供心に妖精の実在を信じたものだ。
出版されたのが1974年だが、まさか1983年にあんなことが起きようとは……
1917年7月、イギリスのヨークシャー州ブラッドフォードにあるコティングリー渓谷で、エルシー・ライト(16歳)と従姉妹(いとこ)のフランシス・グリフィス(11歳)は、自分たちが妖精と一緒に遊んでいるところを父親に借りたカメラで写真に撮った。
この二人は日頃から、「私たち、いつも森で妖精たちと遊んでるのよ」と、まわりの大人たちに話していたが、とうとうそれを証明する証拠写真を撮ったのだという。
これがのちに、“コティングリーの妖精事件”と呼ばれることになる大騒動の始まりであった。
1917年~1920年に二人が撮ったそれらの写真には、楽しげに踊る妖精の姿が写っていたが、それらを現像した父親のアーサーは、単純にまた二人のイタズラだろうと思っていたという。
2ヶ月後、今度はフランシスがエルシーの写真を撮った。
すると、そこには愛らしいノームが写っていた。
写真におさめられた妖精たちの姿は小さく、人間の形をしており、1920年代の流行の髪型、薄いガウンのようなものを羽織り、背中には蝶々のように大きな羽がついていた。
ノームの身長はおよそ30cmぐらいで、全体的にエリザベス王朝時代を思わせる風貌をしており、背中には妖精同様の羽がついていた。
1920年、エルシーの父が好奇心から『シャーロック・ホームズ』で有名な作家のアーサー・コナン・ドイルにこの写真が届けたことから、コティングリーは、一大“事件”の舞台として世界中に知られることになる。
当時コナン・ドイルはホームズの作者の名声もさることながら、有名な心霊学者でもあり交霊会の実験なども頻繁に行っていたビリーバー(心霊肯定者)だったのだ。
ドイルが写真の専門家たちに依頼し、これらの写真に二重写しがないか調べさせたところ、写真を鑑定した専門家が出した結果は、これらの写真が本物だということを示していた。二重写しの痕跡がどこにも見られなかったのだ。
妖精の姿をとらえた写真が存在すると、1920年12月、「ストランドマガジン」という雑誌に、ドイルは妖精の写真を発表した。これに端を発して、事件は一大論争へと発展する。(のちにドイルは「妖精の出現」を出版)
国中から大勢の記者が取材に詰めかけた。小さな田舎町で起こったこの珍事に誰もが昇天し、注目した。
ドイルは写真を、「紛れもない本物」と断定し、メディアを通じて、「写真は妖精の存在を裏付ける証拠である」と発表した。そして自説について述べた本まで出版した。
妖精写真は全部で5枚存在しているが、その内の3枚は、このドイルの依頼で新たに撮られたものだ。一連のトリック疑惑に対して、ドイルは、「労働者階級の幼い子供にトリック写真を作る知識などあるはずがない」という、現代の感覚で考えると、卑下とも庇護ともとれる言葉で反論した。
ホームズの合理主義とは相いれない思い込みであった。
“コティングリーの妖精写真”は、疑問を持つ懐疑派の人々によって、その後何年も様々な方面から検証された。
その中で明らかになった事実は次のようなものである。
1917年当時、16歳だったエルシー・ライトは、家の近くの写真館でアルバイトをしていた。
「ただの使い走り程度だった」と説明されていたが、よく調べてみると、実際は写真の修整も手伝っていた。
写真の修正技術を知っている人は、当時は非常に稀だったが、エルシーは、修整の現場を知っている子供だったのだ。
「子供にトリック写真の知識などあるわけがない」としたドイルの反証は、「ドイルの認識不足と調査能力のなさ」を示す結果になった。
1921年、ある女性写真家が、少女たちがどのようにして妖精写真を作ったのかを示す、非常に出来の良いトリック妖精写真を撮って発表していた。
1977年には、“プリンセス・メアリーのギフトブック”という絵本(1915年発行)が発見された。
その本には踊る妖精の絵が描かれており、写真の妖精とそっくりであった。この本に描かれている妖精には、羽があるものとないものの両方が描かれていた。
さらに当時、調査をしている人々に、エルシーの母親はこう言っていた。
「あの子はすごく想像力が豊かな子供なんです。小さい頃から妖精のお話が大好きで、妖精の絵ばかり描いていました。 」
1978年にコンピューターを使って写真を分析したところ、光の当たり方が他の部分と異なっていることから、写真の妖精は立体ではなく、平面な紙などに描かれ、切り抜かれたものであることが判明した。
原版ガラスプレートのネガを分析したところ、写真に写っている妖精の羽にまったくブレがなく、完全に静止しているものであるということが判明した。この点については、当時から妖精が飛んでいるのに羽が動いていないように見せることがすでに指摘されていた。
1930年7月7日、アーサー・コナン・ドイルが死去した。
あれほどの騒動を引き起こした事件も、広告塔の死とともに次第に忘れ去られていった。
しかし、半世紀後の1965年、この事件は意外な復活を遂げる。
1965年、デイリーエクスプレスの記者は、妖精事件の真相を探るために、その後もコティングリーで暮らしていたエルシーのもとを訪ねた。
記者が真相をたずねたところ、「実は、あの写真は私とフランシスの想像の産物だったの」と、エルシーがあっさり告白したのだ。
どんな分析結果が出されようとも、姉妹は決して捏造を認めようとはしなかったが、晩年のフランシスが書いた告白文によって、ようやく事実が明らかになった。
「私の唯一の遊び相手は、いとこのエルシーだった。エルシーはコティングリーの自然が大好きで、私たち二人は、よくベック川に遊びに行った。でも川にいくたびに、洋服や靴を汚して帰ったので、私は、よく母に叱られ、『どうして川にばかり遊びに行くの』と聞かれて、「妖精に会いにいくの」と答えていたわ。『もっと別の場所で遊びなさい』と言われてもいたので、写真があれば川に行くことを許してくれるかも知れないと思い、エルシーが妖精の絵を描いて、それをピンで止めて、写真に撮った。それがドイルの手に渡り、あんな大騒動になってしまった」
そして1983年4月4日、タイム誌にフランシスの告白文が大々的に掲載され、同紙上で、エルシーも真相を告白した。
その後、イギリスの超常現象番組に出演した二人は、番組の中でトリックの真相を自ら語った。その内容は、先の告白文と同じものであった。
二人は、妖精の話をしても真剣に取り合わない大人たちをやりこめたくなって、トリックを思いついたのだといった。あれから60年以上が経過し、あの時の少女たちは老婆になっていた。
彼女らが番組で明かしたトリックはこうである。“プリンセス・メアリーのギフトブック”にあった絵を厚紙に模写して、羽を描き加えて妖精に仕立てた。それを切り抜き、帽子を止める長いピンで地面や木や葉っぱなどに固定して撮影した。ただそれだけだった。写真の知識など少しも必要としない、二重写しの痕跡など調べたところで出てくるはずがない。実に原始的なトリックだったのだ。
彼女たち二人は、はじめは、ほんのイタズラのつもりだったのに、ドイルや他の大人たちが騒ぎだして、それぞれ勝手に主張をはじめ、事件は二人の想像以上に大きな騒動になってしまった。
エルシーは、「ドイルのような立派な大人が、私たちの妖精を本物だと主張しているのに、子供の私たちが真相を語るなんていけないと思った。私たちは黙っていることにした」 と語った。
して二人は、ドイルたち関係者がこの世にいる間は、決して真実は語らず、二人だけの秘密にしておこうと誓い合ったのだという。こうして真相を告白した二人だったが、フランシスの方は、最後の一枚だけは本物であると言い続けていた。
二人とも妖精は見たが、写真に撮ることはできなかったのだとも言っていた。
しかし二人の告白を待つまでもなく、写真の正体はトリック写真であるということは、懐疑派の人々の手で明らかになり、次いでデイリー・エクスプレス誌上でも偽造を伝える報道がなされていた。
晩年、フランシスは疎遠になっていたエルシーにこう述懐したという。
「やっぱり私たちは話すべきではなかった。あの森で、私たちは本当に妖精と友達だったのだから」と
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