第36話 アダムス医師の逆転裁判
イングランド南東部のサセックス州の保養地イーストボーンのでっぷりと太った医師ドクター・アダムスが突如として時の人となったのは1957年8月22日、デイリーメール紙のある新聞記事
によるものであった。
『イーストボーンで過去20年間に多数の金持ち女性が毒殺された疑いがある。捜査はまず当市で死亡した四百人余りの男女の遺言状の点検から始まるだろう』
この事件こそのちにイギリス犯罪史上もっともセンセーショナルな事件と呼ばれるジョン・アダムス大量殺人疑惑の始まりであった。
こういってはなんだが、ドクター・アダムスの容姿は鋭い目つきといい、ぼってりと垂れ下った両頬といい、迫力満点の肥満した体型といい、大量殺人犯の役を演じるにはぴったりの風体だった。
さらにマスコミが期待していたとおり、ドクター・アダムスが強欲でアクの強い人物であることが明らかとなり、報道はますます過熱していった。
1956年7月、ドクターアダムスは患者であるボビー・ハレット夫人と一夜をともにし、1000ポンドの小切手を受け取った。さらに彼女は所有するロールスロイスを彼に遺贈する遺言を残していた。
いくら世話になっていたとはいえ患者が医者に送る好意の限度を超えている、と疑いをもったハレット夫人の友人はこれを警察に通報した。
同時に警察もまた、このときすでにアダムスに疑いの目を向けていた。
ハレット夫人が何の前触れもなくこん睡状態に陥ったことで医師たちは自殺の疑いが濃いと判断したため、彼女の遺体は警察の検死を受けることとなったのである。
そこでアダムスは検死官に対し不可思議な手紙を送っていた。
「自分は夫人に少量のナトリウム・バルビタール剤を睡眠薬として与えていたが、私は彼女がそれを隠匿していたとは思えません」
という内容であった。さらに空瓶や空箱がないか彼女の部屋を調べたが彼女が何らかの毒を飲んだ形跡はまったくなかった、と結ばれていた。
まるで彼女が毒を飲んでいては困るというような内容であった。
これを読んだ検死官A・C・ソマーヴィルはたちまちアダムスに疑いを抱き再度の検死を求めた。
これらの捜査はマスコミには秘密で行われたが、地元新聞「ブライトン・ア-ガス」の新聞記者がこの内密の調査を耳にしたためたちまち事件はマスコミの注目を浴びることとなったのである。
マスコミの調査の結果恐るべき事実が明らかとなった。
偶然というにはあまりに巨額の遺産がドクターアダムスの懐に流れ込んでいたのである。
まず1935年、マチルダ・ホイットン夫人が3000ポンドの遺産を残したのを皮切りにアイリーン・ハーバードから1000ポンド、エミリー・モーティマー夫人から4000ポンド、エイミー・ウェア夫人から
1000ポンド、エディス・モレル夫人からロールスロイス、アナラ・ハレット夫人から100ポンド、クレア・ミラー夫人から5200ポンドなどなど。
贈与額の合計はおよそ22000ポンドに及びその大部分からおいた未亡人や老嬢からだった。
そのなかには所有する財産のほとんどをアダムスに譲り渡したものもいた。
少なくともドクターアダムスが独り者の老夫人たちにとって非常に魅力的な人物であったことは間違いないだろう。
新聞はこぞってこの事実をとりあげ、アダムスを大量殺人犯として起訴されることは間違いないと報道した。
しかし怪しいことは確かでもアダムスが殺人を犯したという証拠は何一つないのだということに気づいている人間は少なかった。
マスコミ報道の過熱ぶりからスコットランドヤードも重い腰を上げないわけにはいかなくなった。
ロンドン警視庁の主任捜査官ハーバード・ハナム軽視は1956年11月2日、ようやくにしてアダムス告発の準備を完了した。
起訴事実は13件からなっており主な内容はアダムスが患者に対して不当な投薬をした、というものと患者から財産的な利益関係にあったことをことさら隠したというものであった。
しかし1956年12月18日、アダムスはつに本命である殺人容疑で逮捕されブリクストン刑務所に収監されることになる。
主任捜査官であるハナム警視は殺人の証拠こそあがらなかったが、アダムスの犯行を確信していた。
実際にアダムスはエディス・モレルの小切手の金額を勝手に18000ポンドに書き換えていることが判明し、またいかがわしい取引をして二人の婦人をその住居から別のアパートに無理やり
たちのかせていたからである。
裁判は1957年3月18日ロンドンの中央刑事裁判所で開かれた。
検察側は意気軒高で、アダムスの雇っていた看護婦4人からアダムスの犯行の蓋然性の高い証言を得てもはやアダムスの有罪は疑いないと考えていた。
ところがアダムスの弁護を担当したローレンスは法廷闘争に知悉しており、陪審員制度において陪審員の心象がどれほど大切かということを知りつくしていた。
彼は切り札の切り時を正確に見定めていた。
「貴女はモレル夫人に何を注射したのか?」
「―――――四分の一グレインのモルヒネです」
「そこへアダムス被告がやってきて貴女に何を注射したのか聞かずにモレル夫人にさらに注射したのですか?」
「―――――そうです」
「注射を打てばそれは医療ノートに記録することになっていましたか?」
「―――――はい」
それは看護婦の記憶とも一致していたし、また事実もそうであったのかもしれない。
だがここでローレンス弁護士は爆弾を投下する。
「これは1950年6月の夜間記録です。貴女の筆跡で間違いありませんね?」
それは一冊のノートであった。
看護婦は「そうです」と答えざるをえなかった。
紛れもなくそれは毎日勤務している看護婦が記録していた看護日誌であったのである。
「貴女は先ほどアダムス医師が注射した時モレル夫人は朦朧として半ば眠った状態であったと言いましたね?その女性がウズラやセロリやプディングを食べますか?それにこの記録には貴女が
注射したとはどこにも書かれていないのですが……」
ローレンス弁護士の作戦は完全に成功した。
検察の切り札である看護婦の証言は、陪審員にそれほどの信用がおけないものであるということを強く印象づける結果に終わった。
本来もっとも重要な焦点はアダムスが用意し、ランドル看護婦が打ったとされる最後の5ccの注射であったのだが、その注射が打たれたという記録がノートにない以上裁判で検察側が勝利する
可能性は皆無といってよかった。
無罪判決を勝ち取ったアダムスは自らを犯人扱いしたマスコミを相手に片っぱしから訴訟を開始した。
そのため彼に関する論評は1983年にアダムスが死亡するまでタブーとして控えられてきた。
だがこれは数ある老夫人のなかの一人に関する裁判であり、彼の犯行を立証する証拠は採用されなかっただけで、彼の無実の証拠が発見されたわけではない。
むしろ彼の金銭に対する執着心やずさんな診療などの証言は多岐にわたっており状況証拠的には真っ黒であるとさえ言える。
著名な犯罪学者であるコリン・ウィルソンも「たとえ陪審が有罪の評決を出したとしてもそれほど重大な冤罪事件にはならなかったろうと感じざるを得ない」と書き残している。
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