第42話 海外版津山三十人殺し ワグナー事件

 田舎社会、犯人の自己愛性、そしてコンプレックス――津山三十人殺しと比較されるドイツで起こった大量殺人事件である。

 

 エルンスト・アウグスト・ワグナーは、1874年9月22日、バーデン=ヴュルテンベルク州のエグロスハイムで貧農の家の10人中9番目の子として生まれた。

 父は飲酒好きでうぬぼれの強い性格、そして母はいつも愚痴をこぼす陰険な性格で、性的にだらしがなかったといわれる。

 ワグナーが2歳の時に父が他界、母は別の農夫と再婚するがワグナーが7歳の時に離婚、稼ぎ手のいない一家はたちまち極貧状態に陥った。

 少年であったワグナーは、学校の成績は優秀で活発である一方、名誉欲が強く、自意識過剰な部分もあった。

 これは不遇な少年時代を過ごした優秀な人間に多くみられる傾向である。


 その後20歳で教員試験に合格したワグナーは、各地の国民学校で教鞭をとるようになった。

 この頃のワグナーは、周囲からは「礼儀正しく、おだやかで、親しみがもてる」とても温厚な人物と見られていたが、内面では他人を軽蔑し、知識人を気取って「標準ドイツ語」で話すのを好むなど、過剰な自意識を抱いていたようである。

 また、文学への関心も強く、この頃から多くの詩や戯曲を執筆し始めている。

 この時点でワグナーは自分が思い描いていた賞賛をほぼ手中に収めていた。


 だが1901年、ワグナーは事件発生現場となったミュールハウゼン村に教員として赴任し、そこで居酒屋の娘と関係を持ち妊娠させてしまう。

 ワグナーは彼女に愛情を抱いていなかったが、娘に結婚を迫られたうえ、周囲からの勧めもあり最終的には結婚に同意した。

 また、この件はワグナーの上司の知るところとなり、翌年、ワグナーは別の村に転任させられた。

 俗に言う出来ちゃった婚は、当時の常識では非常にはしたないことだと思われていたのである。

 しかしその後はワグナーとその家族は10年以上を平穏に暮らした。

 そして事件前年の1912年に、ワグナーはシュトゥットガルト近郊のデガーロットに転任し、家族とそこに住んだのである。



 だが平穏と思われていたのは表面上だけのことであった。

 人知れずワグナーはとある妄想をこじらせ、精神疾患を悪化させていたのである。

 ついに妄想が現実を凌駕したその日、ワグナーは犯行を決意する。



 1913年9月4日の朝5:00頃、デガーロッホの自宅で、ワグナーは最初に妻の頭部を鈍器で殴り、さらに喉と心臓をナイフで突き刺した。それから自分の4人の子供を次々と刺殺していった。

 家族に対する躊躇は微塵もなかった。

 その後、自転車でシュトゥットガルト市に向かったワグナーは、午前8:10分発の列車で、そこから12km程北にある都市ルートヴィヒスブルク市に向かった。

 自転車は手荷物として預けたが、銃3丁、実弾500発以上、拳銃2丁、革のベルト、縁なし帽などを旅嚢内に、さらにリボルバー1丁を上着の内側に携行していた。

 ルートヴィヒスブルクで軽い食事を済ませたワグナーは、午前11:00頃、そこに住む親戚の家を訪れ「これからミュールハウゼン村に行っている子供たちを迎えに行く」と告げている。

 もちろんすでに殺された子供を迎えに行くはずがない。

 次なる犯行のための嘘であった。

 その後近くの駅から、午後1:00発の列車でビーティッヒハイム市に到着したワグナーは、夕方7:00頃には自転車でビーティッヒハイムを出発、夜11:00頃ミュールハウゼン村に到着した。


 村に到着したワグナーは、村のあちこちで放火、炎から逃げ出して来た人々を無差別に銃撃し、9名を殺害、12名に重傷を負わせた。

 数か月前からワグナーは休日に射撃の訓練をしていたため、被害者の多くは心臓を正確に射抜かれていたという。

 ワグナーは本来男性のみを殺害しようと考えていたが、死者に女性が含まれていることを後に知って非常に後悔した。

 また、村の家畜数匹も負傷している。

 わざわざ家畜をも狙ったのには後で理由を語るとしよう。

 しかしワグナーの計画は甘すぎた。

 火事ということで集まった村人の数は数十人を超え、たった一人のワグナーがその全てを一方的に殺すことは不可能であった。

 結果ワグナーは、警官2人と怒り狂った村の住人達にタコ繰りにされて打ち倒され、重傷を負って捕らえられた。この時の負傷により後に、ワグナーは左腕の切断手術を受けている。

 殺されなかったのがむしろ不思議なくらいである。


 ワグナーはハイルブロン市の未決監に拘留された。

 そこでの尋問で、ワグナーがさらに自分の姉とその一家も殺害しようとしていたこと、そして最後にルートヴィヒスブルク城で銃により自殺しようとしていたことが明らかになった。


 ハイルブロンで行われた裁判審理や、精神科医による精神鑑定により、ワグナーの一連の凶行の驚くべき動機が明らかになった。

 なんとワグナーの供述によれば、ミュールハウゼン村に教師として赴任した時に、酒に酔って獣姦行為を行ったという。

 いつしかワグナーは自分のその行為が村の住人に知られるようになり、自分が嘲笑され、迫害されていると思い込むようになった。

 そこでワグナーは家族を道連れにして自殺する決意を固め、自らのプライドを守るため村の住民達へ復讐しようと企てたのであった。

 子供達を最初に殺害したのは、自分の死後、彼らが生きてゆくのを不憫に思ったためだという。


 しかし、事件後もワグナーの獣姦行為を証言する者は一人も現れなかった。

 ワグナーは獣姦行為が人に知られるのを恐れていたが、それを最初に明らかにしたのは結局自分自身であった。

 また、ワグナーの獣姦行為については、ワグナーが死ぬまで詳細を語ることを拒んだため、本当にワグナーがそのような行為を行ったのかどうかは不明である。



 判事は偏執病により責任能力がないことを認め、ワグナーは免訴された。

 ワグナーは1914年2月4日、ヴィンネンデンの療養所の一人部屋に収監された。

 バーデン=ヴュルテンベルク州の司法史上、被告人が責任能力の欠如により免訴されたのはこれが初めてであった。

 ワグナーは死刑を望んでいたため、自分の精神鑑定を行った精神科医を憎悪したという。

 収容されたワグナーは療養所内でも多くの戯曲を自ら執筆した。

 ワグナーはそれらをマンハイム市の国立劇場の館長に送り、劇場での上演作品として提供したが当然ながら上演は断られた。


 そしてワグナーは1938年、収監先の療養所で結核により死亡した。

 彼が正常な日常性を取り戻すことはなかったと言われる。




 管理人はうつ症状の人間が、自分が周りから悪口を言われているという強迫観念に駆られるのを何度か目にしている。

 しかしワグナーほど外面を隠蔽しながら狂気を増幅させた人間は、生涯めぐり合うことはないだろう。

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