第3話 ヘンリー・リー・ルーカス(ドクターレクターのモデル)

 数ある大量殺人犯のなかでもヘンリー・リー・ルーカスはその残虐性と、人間的な良心の無さにおいて特筆すべき犯人だった。


「オレにとって殺人は息をするのと同じだった」


 精神分析医に対して彼は平然とそう呟いたという。


 その後異常殺人者の典型的な例として彼は死刑囚でありながらFBIの捜査にも協力するようになる。


 もっとも天才的な推理力で犯人を当てるわけではなく、ただ精神異常者がどういう思考をするかということについて意見を求められたにすぎない。


 しかしこのFBIへの協力が、彼を映画「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターのモデルとした。


 彼が大量殺人犯のなかでもとりわけ有名なのは、あのアンソニー・ホプキンスの怪演で有名なドクター・レクターのモデルとされたことが大きいといえよう。



 ヘンリー・リー・ルーカスは1936年8月23日アメリカバージニア州ブラックスバーグに生まれた。


 母ヴィオラは重度の性的倒錯者でサディストでもありマゾヒストでもあったという。


 そうした倒錯したプレイを売りにした売春婦で、父親は両足を切断した元鉄道員であった。


 その父親も、ヴィオラに失われた足の切断部を踏みつけられることに性的な興奮を覚えるという重度のマゾヒストであった。


 なおこの父親は世話をするのが面倒になったヴィオラが車イスごと真冬の外に放り出し、それが原因で肺炎にかかって死亡している。


 崩壊家庭で育てられた犯罪者は多いがヘンリーの家庭の異常さはそのなかでも常軌を逸していた。


 母ヴィオラはヘンリーに「お前は死ぬまで私の奴隷」「あんたは悪魔から生まれた生き物なのだから当然あんたは悪魔なのだ。腐ったろくでなしとして生きてもらう」などと言い、ことあるごとに暴力をふるった。


 ヴィオラにとってヘンリーは虐待の対象以外の何物でもなかった。


 あるときはヘンリーがラバを可愛がっているのを見ると、「お前はあのラバが好きかい?」と聞き、「うん」とヘンリーが答えるとすぐさまショットガンでラバを射殺してしまい、またあるときは幼いヘンリーに女装させ自分の情事を見学させたりもした。


 ヘンリーには兄がいたが、どういう経緯かこの兄と同性愛関係になったヘンリーは兄との感情のもつれから左目を傷つけられ、さらにまともな治療を施せなかったこの目をヴィオラが嬉々としてつつくのでヘンリーの目は化膿して完全な失明状態に陥ってしまった。


 しかも運の悪いことにヘンリーに好意的であった学校の先生があろうことか誤ってヘンリーの目を定規で破裂させてしまう。


 そしてヴィオラは何かとヘンリーの扱いで文句を言う学校から今後一切口をはさまないという約束をとりつけたのである。


 ヘンリーを養子にしたいというトラック運転手を罵倒して追い返したのもこのころだった。


 あらゆる意味でヘンリーの家庭環境は最悪だった。


 のちにヘンリーは「おふくろはオレが何かを愛するという感情を抱くことに我慢がならなかった」と述懐している。




そ して14歳になったヘンリーは母親の悪趣味なスカトロプレイを見せつけられ、むしゃくしゃした気持ちでフラリと外にでるとバス停でバスを待つ17歳の少女を衝動的にレイプしてそのまま絞殺した。これがヘンリー最初の殺人であった。


 殺した理由は「誘ったのに断られたから」という短絡的かつ些細なものであった。


 その後ヘンリーは様々な犯罪を犯しては刑務所に入るという生活を23歳まで送っていたが、ここで彼に転機が訪れる。


 義姉のもとに身を寄せたヘンリーは彼女と恋に落ち、結婚を約束して生まれて初めて真面目に働こうと決心した。



 しかしそんな二人のもとに現れたのはやはりヴィオラだった。


 彼女はヘンリーは幸せになることを許さず、「この不細工な淫売と結婚するなんて気でも違ったのかい?」などと言って罵倒した。


 妻にこんな母を見せたくないと思ったヘンリーはヴィオラを人気のないところへと連れ出し、ついに幼いころからの呪縛を解き放つべく彼女を絞殺してしまう。


 まるでそれが儀式であるかのように首を切り裂き、服を脱がせてヘンリーは母を犯した。


 もちろん白昼のこんな殺人が露見しないはずはなく、ヘンリーは第二級謀殺の罪で40年の刑期を言い渡されたのだった。




 刑務所に収監されてからもヘンリーはヴィオラの亡霊に悩まされている。


 彼はヴィオラの亡霊から逃れるために幾度も自殺未遂を繰り返し、精神分析医によって精神分裂病であると診断された。


 にもかかわらずどういうわけか仮釈放審査会はヘンリーの仮釈放を何らの問題もなく認めたのである。


 自分の心に巣食った闇を熟知していたヘンリーは審査会をあざ笑うかのように言い放った。


「オレはまだ外に出ていけるような人間じゃない。約束しよう。オレは出るやいないや絶対に誰かを殺すぜ」




 約束どおりというべきか、刑務所の門をくぐってからわずか数ブロック先でヘンリーは女性を絞殺し、金品を奪って逃走した。


 このときヘンリー34歳、これが彼の殺人行脚の始まりだった。


 男も女も老いも若きも関係なく手当たり次第気の向くままにヘンリーは殺した。



 人を殺しては金品を奪い生活していく日々のなかでヘンリーは一人の男と出会う。

 彼の名はオーティス・トゥール。


 同性愛者かつ天性のサディストであったオーティスはヘンリーのまたとない相棒となった。


 もっとも趣向としては二人には歴然とした差があり、家のドアでもあけるように無造作に人を殺すヘンリーに対し、オーティスはアキレス腱を切り、逃げられない被害者を嬲りながら撃ち殺したり轢き殺したりするというもので、死体の舌を切り取っておもちゃのようにもてあそんでいたという。


 しかしこののち、ヘンリーに2回目の転機が訪れる。


 オーティスの姪であり、ヘンリーを全く怖がらずに自然に受け入れてくれる無垢な少女ベッキーにヘンリーはいつしか心を奪われていったのである。


 だが天性の殺人犯と少女の恋はそれほど長続きはしなかった。


 ヘンリーは彼女に恋したからといって殺人は止めなかったし、ベッキーはヘンリーを受け入れてくれるとはいえごく普通の少女にすぎなかったからである。


 逃亡の先で身を寄せた説教師の影響でベッキーはキリスト教の教えに目覚め、ヘンリーを真人間になれとさとし、彼との同行を拒んだ。


 無条件に自分を受け入れてくれた天使ベッキーはこの瞬間ヘンリーのなかから永久に失われた。


 彼は本能レベルまでしみついていた悪意の表出として、気がついたときにはベッキーの喉を切り裂いていた。




 悪魔のような殺人犯であったはずのヘンリーもこのベッキーの殺害だけは泣き崩れて後悔した。


「ああ、ごめんよベッキー。ああ、どうして、どうしてこんなことに……愛していたはずなのに………」


 この一件でヘンリーは完全に精神的に折れた。


 感情の赴くままにベッキーがなついていたグラニー・リッチを惨殺するが、もはやそこで証拠を隠したり逃亡する時間を稼ごうなどという冷静な計算は消えていた。


 当然警察も無能ではないからすぐさまヘンリーに疑いの目が向けられ、この稀代の殺人者は銃器不法所持の容疑であっさりと逮捕されたのであった。




 ヘンリーの車からは大量の人骨が見つかり、驚いた警察の前でヘンリーは約3000件にも及ぶ殺人を自供する。


 360人殺しヘンリーの異名はこのときについたものだ。


 しかし裏付けのとれた事件はそのごく一部で実際は360人も殺していないという説も存在する。


 非常に詳しい自供をしたためこれは間違いないと警察が調べに行くと殺されたはずの本人がピンピンしていた――などという例もヘンリーの犯罪の立証を困難にした。


 相棒のオーティスも精神異常と虚言癖の持ち主で犯罪を立件できたのはわずか11件にとどまったが、推定で300人以上に及ぶのは間違いなさそうであった。


 ヘンリーが自分が犯した殺人に対する記憶力は常人それではなかったからである。



 そのあまりの異常ぶりに数々の精神分析医が訪れた。


 逮捕後ベッキーの後を追うようにキリスト教に目覚めたヘンリーは進んでそれに協力した。


「自分がおかしいってオレみたいな低能でもわかってる。どこもおかしくないなんていう医者もいたけれどおかしくなかったらあんな殺しばっかりするわけないもんな。でもしょうがないんだ。そうしろっていうんだからそうするしかないじゃないか………」


 制御できない心の闇が本能的に殺意の牙を剥いてしまう。


 ヘンリーは誰よりもそのことをよく承知していた。





 心理学者ノエル・ジョリスは彼をこう表現した。


「彼は感情的にも社会的にも10歳未満ですでに死んだ人間なのです。この独房で彼がいくらか人間的な発達を見せたとしてもそれが完全になることはないでしょう。彼にはもはや他人への感情移入というものが決定的に失われてしまっていて、それが回復する見込みはありません」


 幼いころの母ヴィオラの折檻で、ヘンリーは前頭葉、側頭葉、脳下部にまで大きな障害が残されており、慢性的な栄養失調とドラッグで脳は正常な成長をずっと阻害されていた。


 精神的にも大脳生理学的にもヘンリーは通常の人間とは言い難かった。



 しかしテキサス州裁判所は彼に死刑を言い渡し、それは1998年に執行されるはずであったが、時のテキサス州知事ジョージ・ブッシュにより執行は見合され、2001年に心臓発作でヘンリーは永遠の眠りについた。






「人間?オレにとってはなんでもなかった。ただの白紙だった」

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