第9話 良栄丸遭難事件(和製マリーセレスト号)
乗員が全員煙のように消えていなくなったマリーセレスト号事件を知る人がいても、日本の良栄丸事件を知る人は少ないのではないだろうか。
この事件は1926年12月に千葉市銚子沖で操業にあたっていた和歌山県の漁船良栄丸が遭難し、乗組員全員が死亡ないし行方不明となった事件である。
しかも運の悪いことに第二良栄丸と名付けられた二代目も遭難事件を引き起こし、乗組員3名が行方不明となった。
遭難した良栄丸は当時としては最新のエンジンを搭載した42トンの小型動力船で乗員は12名。
しかしいまだ大正時代という過去の話であり、当時日本の小型漁船はほとんど無線を装備していないのが通常であった。
12月5日に神奈川県の三崎漁港を出港した良栄丸は銚子沖約100キロの地点でマグロ漁に従事していたが、12月7日から発達してきた低気圧によって海が荒れてきたため船長は再び三崎漁港へと戻ることを決意する。
ところが12月12日午前、大音響とともに機関のクランクシャフト(曲軸)が折れてしまい良栄丸は航行不能に陥るのである。
悪天候の強風に煽られ船は急速に東へと流された。
日誌には「十二日午前突如機械クランク部が折れ、チョット思案にくれた。仕方なく帆を巻き上げしが折悪しく西風にて自由ならず舟を流すこととした」とある。
15日以降も強い季節風が吹き続けたため西へ戻ることを諦めた船長は漂流を決意し、船に積載した食糧と魚で4ケ月は食いつなぐことを決定した。
翌16日には東洋汽船と書かれた船が近くを通ったが応答はなかったという。
なんとか日本へ戻るべきか、風に乗ってアメリカを目指すか船員同士で意見が分かれたようだが機関部の修理にも失敗し、西風に逆らって日本に向かうことも不可能だと知った良栄丸は一路アメリカへの進路を取る。
今後の船員たちの苦闘と絶望は想像するに余りある。
淡々とつづられた日誌の記録を見ただけで恐ろしさに寒気が禁じえないほどである。
「12月27日。カツオ10本つる」
「1月27日。外国船を発見。応答なし。雨が降るとオケに雨水をため、これを飲料水とした」
「2月17日。いよいよ食料少なし」
「3月6日。魚一匹もとれず。食料はひとつのこらず底をついた。恐ろしい飢えと死神がじょじょにやってきた」
「3月7日。最初の犠牲者がでた。機関長・細井伝次郎は、「ひとめ見たい・・・日本の土を一足ふみたい」とうめきながら死んでいった。全員で水葬にする」
「3月9日。サメの大きなやつが一本つれたが、直江常次は食べる気力もなく、やせおとろえて死亡。水葬に処す」
「3月15日。それまで航海日誌をつけていた井沢捨次が病死。かわって松本源之助が筆をとる。井沢の遺体を水葬にするのに、やっとのありさま。全員、顔は青白くヤマアラシのごとくヒゲがのび、ふらふらと亡霊そっくりの歩きざまは悲し」
「3月27日。寺田初造と横田良之助のふたりは、突然うわごとを発し、「おーい富士山だ。アメリカにつきやがった。ああ、にじが見える・・・・。」などと狂気を発して、左舷の板にがりがりと歯をくいこませて悶死する。いよいよ地獄の底も近い」
「3月29日。メバチ一匹を吉田藤吉がつりあげたるを見て、三谷寅吉は突然として逆上し、オノを振りあげるや、吉田藤吉の頭をめった打ちにする。その恐ろしき光景にも、みな立ち上がる気力もなく、しばしぼう然。のこる者は野菜の不足から、壊血病となりて歯という歯から血液したたるは、みな妖怪変化のすさまじき様相となる。ああ、仏様よ」
「4月4日。三鬼船長は甲板上を低く飛びかすめる大鳥を、ヘビのごとき速さで手づかみにとらえる。全員、人食いアリのごとくむらがり、羽をむしりとって、生きたままの大鳥をむさぼる。血がしたたる生肉をくらうは、これほどの美味なるものはなしと心得たい。これもみな、餓鬼畜生となせる業か」
「4月6日。辻門良治、血へどを吐きて死亡」
「4月14日。沢山勘十郎、船室にて不意に狂暴と化して発狂し死骸を切り刻む姿は地獄か。人肉食べる気力あれば、まだ救いあり」
「4月19日。富山和男、沢村勘十郎の二名、料理室にて人肉を争う。地獄の鬼と化すも、ただ、ただ生きて日本に帰りたき一心のみなり。同夜、二名とも血だるまにて、ころげまわり死亡」
「5月6日。三鬼船長、ついに一歩も動けず。乗組員十二名のうち残るは船長と日記記録係の私のみ。ふたりとも重いカッケ病で小便、大便にも動けず、そのままたれ流すはしかたなし」
「5月11日。曇り。北西の風やや強し。南に西に、船はただ風のままに流れる。山影も見えず、陸地も見えず。船影はなし。あまいサトウ粒ひとつなめて死にたし。友の死骸は肉がどろどろに腐り、溶けて流れた血肉の死臭のみがあり。白骨のぞきて、この世の終わりとするや・・・・」
日記はここで切れている。
だが三鬼船長は、杉板に鉛筆で、以下のような家族宛ての遺書を残していた。
「さて、私の事は仕合せの悪いことです。私のためにあなた等に苦労をさせましたこと、真にすみません。あなたもこれからは苦労です。子供等二人を頼りにして人に頼みます。イサクの爺さんや婆さんに宜しく言うてください。私もあと12、3年生きたかった。二人の子供頼みます。キクオが大きくなりても必ず漁師にだけはさせぬよう頼みます。オワセの人等に頼み、学校だけ入れてもらいなされ。キクオが大きうなりましたら、商売のことはトラキチさに任せなされ。いつまで書いても同じこと。私のすな]は、そうめんと餅でしたな。三鬼登喜造の妻、おつね様。
カツエ、お前の学校の卒業式を見ずにトッタンは帰れなくなりました。情けない。お前はこれから賢くなりて孝行もしたり、母に足しになりてやってくだされ。頼みます。賢く頼みます。母の言うことを聞いてくれ。トッタン。
キクオ、トッタンの言うことを聞きなさい。大きくなりても漁師はできません。賢く頼みます。母の言うことを聞きなされ」
自分と同じ漁師になってはいけない。
と故郷に残した息子に語りかける遺言には鬼気迫るものがある。
こうした阿鼻叫喚の地獄絵図と化した良栄丸はそのまま物言わぬ骸を乗せて漂流を続け、それから5ケ月後の1927年10月31日アメリカのシアトル沖でマーガレット・ダラー号によって発見される。
ミイラ化した船員を確認したアメリカ当局は必要な調査を開始したが、不思議なことに船にあったはずの現金と書類が見当たらず、漂流中に海賊によって奪われたのではないかとされた。
しかし航海記録を調べていたアメリカ当局は不思議な情報を掴んだ。
アメリカの貨物船「ウエスト・アイソン号」の船長リチャード・ヒーリィ船長が次のように述べている。
「1926年12月23日シアトルから約1000キロの太平洋上で波間に漂う木造船を発見したが、救助信号を送っても返答がないので近づきました。しかし良栄丸の舷窓や甲板に立ってこっちを見ていた船員は誰ひとり答えず馬鹿らしくなって引き上げたのです」
だが良栄丸の日誌に「ウエスト・アイソン号」との邂逅は記載されていない。
救助信号を送っても気づいてもらえなかったという記述は日誌の中だけでも十数回にのぼるにも関わらずである。
そして船の現金が盗まれていた事実を合わせると何とも言えず釈然としない気持ちがこみ上げてくるのは管理人だけであろうか。
時は大正時代の終わり、まだまだ世界中に人種差別がはびこり戦争によって利権を奪い合う帝国主義華やかなりし時代に小さな漁船の最後と謎だけが残った。
~不気味な後日談~
実は良栄丸事件は戦後にも起こっている。
昭和35年1月12日、高知県土佐清水市の「第2良栄丸」は沼津を出航し、翌1月21日夜に遭難した。
この時の乗組員は12名で、そのうち3名が行方不明となり、残り9名は自力で小笠原諸島の無人島・姉島に泳ぎ着いた。
9名はその90時間後に巡視船むろとに救助されている。
同じ名前の船、同じ数の乗組員、そして同じ数の行方不明者…
果たしてこれが偶然といえるだろうか…
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