盲信者 3

 鶏肉を買うのに、こんなにも時間がかかるなんて。マリナは自分の愚かさを悔やみそうになった。

 特に、一度興味を持ってしまうと幼子のように夢中になってしまう癖は、なんとかしなければならないと思った。

 ジェイに頼まれた鶏肉を買うために街へ繰り出したものの、悲鳴が聞こえ、向かった先で偶然、見かけた少年を追いかけていると酒場まで着き、こんなことをしている場合じゃないぞと気づいた時には、見知らぬ派手な服の青年に絡まれた。

「危ない橋を渡るな。それどころか近づくな」と、ジェイのこの言葉は、忘れずに頭に縛り付けておこうと思った。軽率な行動一つで、危ない橋へと誘われることだってあるのだから。

 危ない橋とは、もちろん殺傷や暴力などの直接的な危険を意味してもいるが、マリナにとって危険という括りで言うのなら、この世界にあるすべての物事が危険だった。

 真の平穏が静寂の中にあり、そこへ導いてくれる主は教会跡の聖堂にいる。つまり、聖堂から一歩踏み出した外、教会跡の周りにある世界はどこもかしこも危険で満ちているのだ。

 ジェイがいるなら安心してもいい。守ってくれるから。その点において、信頼があるからだ。

 だが、今ここにジェイはいない。一人で繁華街まで買い物に来ている。これがいかに危険な状況であるのか、それを今一度、深く認識すべきなのだ。


 繁華街で鶏肉を買うことができた。二人分だと考えれば大きいのがいいのか、それとも、少しでも節約するために小さいのがいいのか、そんなくだらないことで悩んでいるうちにずいぶんと時間が経った。店主にも苦い顔をされ、迷惑がられたほどだ。

 そもそも繁華街は人が多い。大勢の中に身を置くことは、聖堂での大火災を思い出すので、マリナは苦手だった。

 シスターたちの泣き喚く声が想起され、体中に突き刺さる。体はなんともないのだが、心が痛む。そんな経験はもうしたくない。だから、人混みを避けているうちに、店に着くまでにも時間を食ってしまっていた。

 鶏肉を買うという目的は果たした。あとは、まっすぐ家に帰るだけだ。

 西区の大きな通りからはずれると、辺りは一気に暗闇に包まれる。

 草木が生い茂ったその土地は、街というより林に近い。背の高い木々がアーチのように並び立ち、マリナの帰宅を迎えているかのようだった。

 人の手により整備されている道は、この林の手前で途切れる。そこからは自然の領域だ。虫が飛び、野生動物が走り、鳴く。

 暗い道は歩いていて不安になるが、マリナは慣れている。視界が悪くとも、道を覚えているので迷うことはない。林を抜け、少し開けた場所へ出たら、南へ向かう。足元の草花が減ってくるので、そのまま進む。

 小屋が見えてきた。室内の灯りが漏れ、暗い夜道を照らしてくれている。

 迷わず帰ってくることができた、ということだ。小屋の中では、ジェイが首を長くして待っていることだろう。

 もしかすると、火をつけたまま寝てしまっているかもしれない。前にそんなことがあったことを思い出す。危うく家事になるところだったし、焦げた料理を食べる羽目になった苦い思い出は今や笑い話だ。

 見たところ火は上がっていないし、焦げ臭いにおいもしないので今日は大丈夫のようだ。

 鶏肉の入った袋を大事そうに抱え、マリナは小屋の入り口に手をかけた。

 すると、風のせいか、きいと音を立てて扉がひとりでに開いた。

 戸締まりはちゃんと確認しておくようにと、ジェイから口を酸っぱくして言われたことがあった。

「こんな辺境の地に足を運ぶ物好きなんて、そうそういませんよ」と言うと、ジェイは「用心に越したことはない」と、悲しそうな顔をした。それ以来、マリナは戸締まりを怠ったことはなかった。

 それなのに、小屋の扉の鍵が開いていた。

 ジェイが閉め忘れたとも思えない。だが、彼がいる気配もなかった。

 確かに、おつかいを頼まれてから時間は経っている。そんなことで怒る彼とも思えないが、わかりやすい書き置きなどもなく、小屋を離れるなんておかしなことだ。

 何かトラブルでもあったのだろうか。マリナは思った。

 からんと、何かが落ちる音がした。小屋の中か、それとも裏口からか。

 不吉な予感がした。

 中に入ると、ジェイがいた。冷たい床の上で仰向きに倒れている。彼は朝が弱い。寝起きのようなぼんやりとした顔で、静かに天井を見つめていた。

 そんなところで何をしているのですか。

 マリナは彼の元に寄り、腰を下ろす。

 腰を下ろしたというより、足の力が抜け、膝から崩れ落ちた感覚だった。

 ――床に寝転んでいるジェイが、死んでいると気づいたからだ。

 服の胸元が赤黒くなっていた。傷口は見えない。体の下には楕円形の血の溜まりができている。

 室内の灯りのおかげで、その綺麗な赤が、視界いっぱいに強調されるように映し出された。塗装屋や精肉店などで見る色の赤とは違う。そして炎の揺らめきとは異なる自然らしい神秘性を持ったその血の色は、マリナの目には美しく映った。

 そこで、身内の死に、悲しみ以外の感情を持ち合わせかけた自分の異常ぶりに気づき、我に返る。

 ジェイの体を見下ろした。胸あたりに小さな穴が空いている。先の細い剣で貫かれたか、あるいは、撃たれたらしい。

 小屋の裏口に人の気配がした。

 そういえば、何かが落ちたような音が聞こえた。まさか、それは、ジェイを襲った犯人が立てたものなのだろうか。

 マリナは立ち上がり、テーブルに鳥肉の入った袋を置くと、すぐに裏口へと駆けた。

 普段、裏口の扉は使用しておらず、面している森から動物や虫が入り込まないようしっかりと閉めているはずなのだが、どういうわけか、その扉がわずかに開いていた。

 警戒しつつ、外へ顔を出す。が、そこには誰の姿もなかった。

 この裏口から先は、王都の外まで広がる深い森の中へと続いている。

 夜の森は危険だ。凶暴な獣たちが襲い掛かってくるから、夜は森に近づくな、とジェイから教わった。仮に何者かが潜んでいて、今しがた森の奥へと逃げてしまったのなら、少なくとも日が昇るまでは追いかけない方がいい。ジェイの死に、一瞬、動揺こそしたが、それだけの冷静さをマリナはまだ持っていた。

 こつん、と足先に違和感があった。

 視線を落とすと、鋭利なものが足元に落ちていた。

 ——ナイフだ。

 でも、どうしてこんなところに?

 拾おうと手を伸ばした時、死角から誰かの腕が伸びてきて、手首を強く掴まれた。

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