盲信者 5
少年は、どこかへ立ち去った。
その背中が林道の夜闇に消えてゆくのを見届けると、マリナは裏口へと回り、彼が落としたジェイのコートを拾った。それから、木箱の中にある男の死体を確認すると、小屋の中に戻った。
室内は、冷え冷えとした空気と沈黙に満たされていた。扉を閉めた時、みしりと床が軋む音がやけに際立って耳に届いた。この沈黙や暗がりが生きているように感じて、ぞわりとした。
コートを元の場所に掛け、倒れているジェイに近づく。
冷たい床に座り込むと、膝を山の形をつくるようにして曲げ、ふうと一息つき、落ち着いた。そっと、ジェイの肩に手を触れる。
祈る。彼の安寧のために。安らかに。
手から伝わってくるものの中に、ジェイの生きている何かがないか感じ取ろうしてみたが、もはや、そこには温もりも優しさも存在せず、彼は冷たい死を迎えたのだと知り、マリナは切ない気持ちになった。
後悔があるとすれば、彼から受けてきた身に余るほどの愛と信頼に対し、十分な感謝を示せなかったことだ。
死してなお、言葉を交わすことができるならば、と願わずにはいられなかった。彼ともう一度、話がしたい。せめて、感謝の言葉を伝えたい。それは、マリナが信仰するものとは異なる領域の信念であったが、そんな境地に立たされ心揺らぐほど、ジェイという男はマリナにとって、特別な人物であった。
重みのある静けさが、マリナの体をざっと取り囲んだ。
目には見えない、不吉な何かの集団に包囲されている気がした。それは、闇を生きる者たち。邪悪や異端ではないものの、言葉を発することなく圧のある視線を向け、追い詰めてくる者たちだ。その視線を感じ取ると――実際には、そんな者たちなどいないとはわかっているが――この静けささえも、怖くなってくる。
静寂とは、救いである。
それが、マリナの信じる世界だった。
静寂の中にはすべてがあり、また、生み出されている。我々、生き物もそうだ。この世界で暮らし、やがて向かうべき先は、やはり、静寂なのだ。
母であり、友であり、私でもある。そんな静寂の世界には、きっと人々の想像などまるで及ばないような完成された答えがあるに違いないと、そう信じている。
静寂の世界。そこは、怒りも悲しみもない世界。
――私の今いるこの世界には、悲しみが多すぎる。
そう胸の中で呟いたマリナの頬を、温かい雫が伝う。
泣いたのは、これが人生で初めての経験だった。
親に捨てられたと悟った時も、聖堂の火災で死を身近に感じた時も、家族同然だったシスターたちを失い、途方に暮れた時も、涙は溢れなかった。
しかし、今回は違う。
ジェイを失う悲しみは、自分の信仰する世界を失う悲しみにも似ている気がした。
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。
彼との思い出が、蘇ってくる。あれは、彼が、護身用にと、格闘家さながらの、いわく戦闘訓練をしてくれた時のことだ。その時にした会話も、よく覚えている。
「マリナ、頼みがあるんだ」
「どうしたのですか」マリナは首をかしげた。「そんなかしこまった様子を見せなくても、私はあなたからの頼みを断ったりはしません。夕飯の買い物ですか。それとも、巻き割りの手伝いとか」
「そうじゃないんだ。まあ、ちょっとしたことではあるから、頭の片隅にでも置いといてくれたらいいんだけどな」
ジェイは片方の目を瞑り、肩に手を添え、さするようにして、一呼吸置いてから、口を開いた。
「約束をしてほしい」
「何をですか」
「今後、何があっても――たとえば、俺がいなくなってしまったり、おまえさんをこの上ないほどの不幸が襲ったとしても、どうか自分を忘れないようにする、と」
「自分を忘れないように?それは、どういうことでしょうか」
彼が言ったことの意味がすぐに理解できなかったマリナは、深く考えるよりも先に、訊き返した。
「俺と同じ道を、歩んでほしくないんだよ」
ジェイは、悲しげな顔をつくり、ふと、開いた口からこぼすように言った。
「俺は昔から半端者で、何をするにしても満足のいく結果にはならなかった。おまえさんと出会った——あの夜だって、そうだ。こんなこと、よくねえと頭ではわかっちゃいたのに、俺は俺を咎めることができなかった。半端なことをしたんだ。おかげで、無関係な人たちを巻き込み、仲間を見捨て、あげく、そんな自分を励まそうとか慰めようとか、とにかく自分勝手な理由でおまえさんと、こうして暮らすことにした。自分でも、卑怯なやり方だとは思う。けどな、もう、たぶんずっと前から俺は、俺を忘れてしまっていたんだ。こうすることでしか、『俺』という人間を生かすために、『俺』を取り繕ってでしか、生きることができない人間になっていたんだ。そんな辛いことを——もはや、俺は辛いとも思うことすらできなくなってしまったが——おまえさんにも経験させるわけにはいかない。だから、今のうちに言っておこうと思ったんだ。自分を、忘れるなって」
どうしていきなり、そんな小難しいことを言うのだろうか。わからなかったので、不安を覚えた。
しかし、その言葉には、これまではわかりにくかった彼の本音や心情がたくさん込められているように思えて、初めて、彼との距離が縮まった気がして、少し嬉しい気持ちもあった。
ジェイは――いわゆる普通の人間ではない。そのことに、マリナは薄々、気づいていた。おそらくだが、人を殺めたことだってあるのだろう。
彼との生活が始まり、教会跡から出たことがないマリナであったが、いざ、王都の街へ出掛けてみようと思い立ち、ジェイに相談してみた時、見知らぬ輩にちょっかいをかけられると困るからと、どこで学んだのか、護身のための技を色々と指南してくれた。しかもそれらの技は、自分の身を守るための盾というよりは、相手を殺すため矛であるような気配がないでもなかった。
この異質さに、マリナは疑問を抱いてはいたものの、彼の親心のような愛情ははっきりと伝わっていたので、悪い気はせず、彼の教えてくれることを真面目に学んだ。
おかげで、マリナは同年代の少年少女たちに比べて、いくらか力強く、そして過敏に動くことができ、逞しい精神力を手に入れた。
結局、ジェイが心配していたような危険な輩は現れなかったし、彼女の元々の人の良さや淑やかな性格のためもあってか、王都の街へ行き、その成果を発揮する場面は一度として訪れなかった。それでも、ジェイとの繋がりを感じることのできる思い出のひとつとして、教えてもらったことはずっと覚えているつもりだ。
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。
そして、ジェイは、なぜあんなことを言ったのだろうか。
あの時から、彼は自分の死期を悟っていたのか。何者かに殺されるのだと、知っていたのか。
しばらく、ぽろぽろと涙を流し続け、膝や太もも辺りを涙で濡らしていたが、やがて、マリナは手の甲で目尻をぐいと拭い、ゆっくりと立ち上がった。
目を閉じたまま、記憶を少しずつ、時間をかけて遡っていく。
少年の言葉が、頭の中に蘇る。
ジェイを殺したと思われる犯人は、聖堂の方へ走って行った、と。
本当にいるのか、真犯人が。あの聖堂に。
ジェイの言葉を思い出す。自分を忘れないように。つまり、いかなる時でも、自分らしくあれ、と。
——これは、試練なのだ。
主が与えてくださった、試練に違いない。
これを乗り越え、果たした暁には、きっと、これまでとはまた違う、より真理に近い境地へと足を踏み入れることができるはずなのだ。
かつて、シスターたちが話してくれた、死後の世界のことを、マリナは思い浮かべた。
彼女たちは、それを『天国』と呼んでいた。
そこは、我らが還るべき故郷であり、空の向こう側に、実際に存在する楽園であるとのことだ。
この下界で生を全うした者は、皆等しく、天国へと迎え入れられる。
そこには何があるのか、わからないらしいが、天国へと還っていった者たちが再びこの地上に降り立たないことを鑑みるに、きっとこの下界では味わうことのできないような極上の安らぎが、経験できると考えられている。
ジェイも、天国へと行ってしまったのだろうか。
きっと、待ってくれているのだ。
ならば、私もこの世界で役目を果たし、彼の元へ向かうことにしよう。
試練を果たすのだ。
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