探索者 5

 アーサーは、目の前の少女が足元の木箱に一瞬、注意を向けた隙をついて、腕を伸ばした。

 それから、攻撃するにもせめて彼女のその柔らかく白い肌を傷つけまいと気を遣いながらも、飛び回る羽虫を叩き潰すがごとく冷徹さをもってして、手首のあたりを平手ではたいた。

 彼女の手からナイフが溢れるように落ちる。

 それを拾い、彼女の膝が顔面に襲いかかってくるのを転がるようにして回避すると、小屋の入り口側に移り、死体の詰められていた箱を挟むかたちで、再び、修道着姿の彼女と向かい合う。

「その攻撃的な姿勢と機敏な立ち振る舞い。ただのか弱い少女というわけじゃなさそうだ」

「あなたこそ、何者ですか。それと、箱の中の死体というのは?」

 アーサーは、息を吐く。

「俺は、本当にただの旅人なんだ。王都にはちょっとした用事で訪れただけでさ。ここにきたのも、さっき言った通り好奇心のままにだよ。そして、箱の中だよね。死んだ男が入っていた」

「誰がそんなことを……」

 少女は訝しげに眉を曲げる。

 彼女が殺し、それを隠蔽したわけじゃないのか。

「さあね。まあ、俺は一度、街へ戻るけど、気になるなら聖堂へ行ってみるといい。彼とその男を殺した犯人が、きっとまだいるはずだから」

 そう言い、アーサーは少女に背を向け、さっさと走り出す。

 彼女の相手をしているのが、いささか面倒だと感じた。おそらく、どれだけ説得してみたところで、彼女は自分の殺しを疑ってくる。思い込みの強い人間なのだと、アーサーはにらんでいた。今はすぐにその場を離れ、聖堂にはまた機会を見計らって訪れてみようと、思った。

 街へ戻る途中、一度、背後に目をやったが、少女が追ってくる気配はなかった。

 細い林道をしばらく行くと、活気のある熱波のような風が正面から吹いてくる。野生や神秘を感じさせる清々しい空気とは反対に、悪意や欲望といったものをまとめて煮込んだ鍋の蓋を開けて、ぶわっと広がる湯気を体中に浴びたときのような、陰鬱な気分にさせられる空気を感じた。

 西区の大通りへ、出る。人気はすっかりなくなっていた。ちらりほらりと道往く人々の姿は見えるが、一目見渡して、全員ぶんの顔を覚えられるほど、人間の往来は少なかった。

 呼吸を整えようと努める自分の息遣いが、うるさくさえ聞こえる。通りは、しんと静まっていた。




 ————




 タケミの店を訪れると、先客がいた。

 明るい緑を基調とし、自尊心の表れかのようにじゃらじゃらとうるさい装飾をそこかしこに散りばめた派手な衣装を身に着けた青年だった。

 青年は、アーサーの来店に気づき、振り返る。その表情には、位の高い貴族ふうな厚かましさと見栄を張った子どもじみた情けなさが同居していた。彼は、そよ風のように、さらりとアーサーを見流し、きまり悪そうに目を細めると、そそくさと逃げるように店を立ち去った。

「いらっしゃい……て、また、あなたね」

「こんばんは」

 アーサーは、タケミの座る店奥のテーブル前まで進み、言った。

「今の人は?」

「ただの客よ。詳しく知りたいってんなら、彼についてわかっていることだけ教えてあげるけど、そんなこと、あなた別に興味ないでしょう」

「まあ、そうですね」

 入り口の扉がぱたんと閉まるのを見届けて、アーサーは、手元のファイルをそこそこの速さでめくるタケミに視線を戻す。

「それで、今度はなあに?」

 手元に視線を落としたまま、タケミは言う。

「いえ、特にこれといった用事があるわけじゃなくて、ひとつ、これは伝えておこうかと思いまして」

「何を?」タケミが顔を上げる。メガネを持ち上げるように、縁を触った。

「はじめに俺がこの店を訪れる前、路地裏で接触した彼ら——あなたの知り合いのようですけども、そのうちの一人、俺がこの今も護身用に持っているナイフを取り上げた大柄の体つきをした男が、殺されているのを見つけました」

「……どこで」

「教会跡にある小屋でです。彼は、何者かによって殺されてしまった後でした。そして、それを棺桶にでも見立てているかのように、木箱の中に、こう、ぎゅっと押し込まれていました」

 アーサーは両手の指を腹の前で組み合わせ、肩を少し上げ、窮屈で狭い空間に苦しむ人間の恰好というものを表現してみせた。

「あなたが殺したわけじゃないんでしょう」

「そうだとしたら、わざわざ伝えにきませんよ」

「まあ、そうね。それに、彼があなたを探しに教会跡の方に向かったというのは本当ね。他の見張りの子たちに聞いたわ。彼ら、あなたが言った通り、足を怪我していたわ」

 他人事のように、タケミは言った。

「やっぱり、あの人たち、ここの見張りだったんですね」

「ええ。そこの路地裏を通って、店に近づく人を見張るように言っているの。怪しい人だったら、別に好きにしていいって。煮るなり焼くなり」

 顎を軽く突き出し、路地裏の方を指すようにしながら言う。アーサーが「そんなことだろうとは思ってました」と頷くと、タケミは「あっそ」と小さく言い、それきりぴたりと黙りこくり、手元のファイルに集中し直した。

 店内に、世界が凍りついたとも思えるほどの静けさが戻る。タケミは、そこにアーサーがいることなど気にも留めていないといったふうに真剣な面持ちで、ファイルをぱらぱらとめくり続ける。

 アーサーは、そんな彼女のことをじっと見つめていた。

 夜空の月が映り込んだ泉の輝きを物憂げに眺める美しい女詩人の横顔のような、どこか惹きつけられる光景だった。

 恋をしたのとは違うが、似た感情は抱いたかもしれない。とにかく、アーサーが、彼女の切れ長の目元や艶やかな髪、儚げとも思える雰囲気を吐息とともに感じさせる姿に多少なり見惚れていたのは事実だった。

 自分とは、ほかの客が来店したことに、まったく気づかなかった。

 背後で、きいと音がする。扉が開いたのかと振り返って見ると、すでに扉は閉まっており、近くで強めの香水が香った。

 少し見上げる位置に、彼女の顔はあった。

 グレーのトレンチコートに身を包み、マフラーを纏い厚着をした、黒髪の女性だった。深紅の双眸が、アーサーをじろりと見下ろすようにとらえる。実際には身長差などほとんどなかったのだが、彼女の高圧的なまでの雰囲気に、アーサーは思わずたじろいでしまう。

「失礼。驚かせちゃったかな」

 その女性は、柔らかく笑った。目尻には愛想がいいしわができ、口元は艶かしく曲がる。直線に固定されているのかと思った眉も、やんわりと優しげな曲線を描いた。

 ひやりと悪寒のような心地悪さが背筋を流れた。辺りの冷気は彼女から放出されているのだと錯覚させる孤高の気高さを見せながらも、全身の力が緩まったが故に浮かんだかのようなその無垢な笑顔は、陽だまりの中、和やかに微笑む淑女の姿を彷彿とさせた。

 反する二面を持った怪しげな人物像が出来上がった。どことなく、苦手意識も芽生えた。彼女は、どこか妖しげな女性だ、と。

「いえ、俺の方こそ、邪魔してすみません」

 アーサーは彼女を避けるようにして横を通り、早足で店の出口へと向かった。背後からの視線を感じ、緊張感が手足を駆け巡った。

「……アーサー?」

 自分の名を呼ばれ、立ち止まる。

 扉の取っ手に手をかけたまま振り返ると、その女性は、悲しそうとも嬉しそうともとれる複雑な表情を、厳めしさをいっぱいに含んでいた顔面に浮かべながら、ふふと笑った。

 初対面の相手に、そんな顔ができるものだろうか。

「驚いたな。まさか、こんな時に……会うなんて」

 ――どうして、俺の名前を?

 そう返そうとして、アーサーは喉元まで出かかった言葉を一度、のみこんだ。

 よくよく考えてみると、相手が一方的に自分のことを知っているなんて状況は、普通ではない。生まれ育った故郷の村で見た覚えのない顔ならば、一度として、会ったことはないはずなのだ。つまり、警戒しながら挑まなければならない相手、ということだ。

「あなたとは、はじめましてのはずです」

 警戒心をあえて隠さず、声を低くして、アーサーは言った。

「いや、会ったことがあるんだよ、私たちは。まあ、君はまだ幼かったからね、覚えてはいないだろうけど」

 深紅の瞳が、すっと翳る。彼女は、タケミの方に一瞥をくれると、外で話そうか、とアーサーを連れ、店を出た。


 西区の通りを住宅街方面へと進む間も、アーサーは、隣を並んで歩くその女性のことを横目で、ちらちらと警戒しながら見ていた。

 詐欺師か、新手の強盗か。素直について行くのも躊躇われたのだが、有無を言わさぬ力のある眼差しを向けられると、体が勝手に、彼女に同行するように動いていた。

 自分の体が、手足に細い糸が結び付けられ、空から吊るされている気分だった。そして、その空の上で、糸を引っ張ったり、緩めたりして、もてあそんでいる彼女の姿が想像できた。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

 アーサーの視線に気づいた彼女は、本当におかしいかのように、そして取り繕っているかのように、やはり妖しく笑う。

「まあ、気持ちはわかるけどね」

「俺の知らない人が、俺の名前を知っていたんだ。警戒はするでしょう」

 言い返すと、彼女は嬉しそうに目を細めた。

「いい心掛けだね。お父さんから、そう教わったのかな」

 アーサーは、ぴくりと眉を動かした。そして、彼女がなぜ自分の名前を知っていたのかについての、ひとつの考えが浮上した。

「……あなた、ひょっとして、父の知り合いなんですか」

「鋭いじゃないか。その洞察力も彼譲りのものらしい」

 満足そうに彼女は言うと、こちらを覗き込むようにしてきたので、アーサーは顔を逸らす。

「父は、自分に友人などいないと言っていましたよ」

 実際に、記憶の中の父親がそんなことを言ったことはない。だが、この疑わしい女性の本意を見抜くために、多少なりとも揺さぶってみるつもりでいた。

 しかし、彼女は余裕をたっぷりと蓄えた声で、言う。

「友人じゃないよ。昔の、いわゆる仕事仲間なんだ。それこそ、君が生まれるよりもずっと前からの関係でね。彼、かつては王都で、私と組んで仕事をしていたんだよ」

「昔の……」

 父はかつて、この王都の街で暮らしていたのだと聞いた。どんな仕事をしていたのか知らないが、その性格から察するに、真面目に、根気強く、勤めていたのだろう。と思う。

 ある日、王都の騎士である母と出会い、恋をし、結婚をし、辺境の地にある小さな村――アーサーの故郷に、移り住んだのだという。

 そんな二人の馴れ初めの話を、アーサーは一度、訊ねてみたことがあった。

 だが、それもかなり昔のことだ。もう、ほとんど思い出せない。思い出す気にもならなかった。

 特に興味がなかったから、と言うと薄情かもしれないが、何より、それを語る二人の表情が浮かないものだったので、アーサーは子どもながらに恐ろしい何かを感じ取り、最後まで聞くことはなかった。その何かとは、とにかく感情に訴えかけてくるもので漠然としているのだが、死者の入った棺を開けてはならない掟があるように、禁忌ともいえる冒涜的な何かだった。

 それから一度として、その話題に触れることも、しなかった。

「俺は……父が王都で、何の仕事をしていたのか知りません。だから、あなたが父のかつての仕事仲間だと言っても、信用できる根拠にはなりません」

 アーサーの頭にあったのは、庭の畑から収穫したばかりの野菜を腕いっぱいに抱え、穏やかに笑う父の笑顔だった。そんな父の隣に、彼女が立っている様子は想像できない。彼女からは、父の生き様とはむしろ正反対の、冷たく暗い影の中を生きている人間のようなきな臭さを感じたからだ。

「そうだろうね。彼は君に、素性を隠していた。いや、彼にとっては、君たち家族と過ごしていた日々こそ、心から望んでいた平穏だったのかもしれないけど」

「何の話を、しているんですか……?」

 アーサーは、自分の話している相手が、自分の知らないことをすべて知っている悪魔のように思えて、身震いした。

「私は、彼のことが、そして君のことが、君たち親子のことがとても気に入っている。人間としてな。力になってやりたいと思っているんだ。君にも、真実を教えてあげようじゃないか。だから――」

 彼女と、視線が絡み合う。濁りのない深紅の瞳は、吸い込まれそうなほど、人を惹く力があり、美しかった。

 この時、アーサーは複雑な心境にあった。

 二つの声が、頭の中には響いていた。

 ――今すぐこの場から離れ、彼女から距離を取るのだ。という声がした。

 彼女は天使だ。外見は清く、誠実なものだが、背後には鋭利なナイフを隠し持っている。それは君を襲うためのものだ。刺されるのは怖いだろう。いやだろう。ならば、逃げるのだ、と。

 ――彼女の言葉を信用しろ。という声がした。

 彼女は悪魔だ。その甘い囁きは確かに、危なげで残酷な要素を孕んではいるが、往々にして、人の一生とは醜く、酷いものだ。どのみち酷いならいいだろう。今さら変わらないだろう。ならば、信じるのだ、と。

 真実を知りたいと、アーサーは思った。

 父が隠していたこと。そうせざるを得ない理由があったのなら、それも含めて全部知りたい。 

 十年前のあの日から、父とは会っていない。

 家族を守るためだと、家を飛び出していった父の決意めいた顔には、いつも母に頭が上がらない温厚な性格の父親像を打ち壊す、まるでおとぎ話に出てくるヒーローのような頼もしさを感じた。

 あれが、父の本性なのだろうか。

 わからない。

 だが、彼女なら、知っている。

 なら、聞かなければ。

 母のためにも。そして、父のためにも。


 ――それは、一瞬の出来事だった。

 アーサーと顔を合わせていた彼女が、その深紅の瞳をぎらりと険しくしたかと思うと、次には、近くにある路地裏を指すようにして、腕を伸ばした。

 どうしたのだ急に、とアーサーは首を傾げたが、その手に、銃が握られていることに気づく。

 音は、ほとんどなかった。小さな穴から空気が飛び出たような。軽い音がしゅっと聞こえたかと思うと、視線の先の路地裏で、がたと音がした。

 やせ細った男が倒れていた。

 そして、背後から迫る足音。

 振り返ると、今度は背の低い男が、ナイフを片手に鬼気迫る様子で、こちらに走ってきているのが見えた。

 あっと声を上げる間もなかった。

 隣にいた彼女が、アーサーと男の間に割って入り、男の伸ばしてきた腕を左手で受け流すようにして払うと、右手に持った銃の先を、男の胸元にぐっと押し当てる。

 また、穴から空気が飛び出したような音がした。

 それから、目の前の男は力なく、だらんとその場に倒れ込んだ。

 アーサーは、振り返った彼女と目を合わせる。

 その美しい瞳のさらに奥には、人の感性では計り知れないような深淵が広がっていた。

「真実を教えてやる」

 彼女は何もなかったかのように、しかし、その声色は先ほどまでの優しげな女性の印象を殺し、これが真実だとばかりの残酷さを伴った雰囲気で、言った。

「君の父は殺し屋で、私は彼の仕事を手伝っていた。いわゆる仲介人だ」

「殺し屋……?仲介人……?それが、仕事……?」

「私はヤマという。よろしくな、アーサー」

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