殺し屋 5
トカゲと呼ばれているその少年、もとい王都で恐れられている殺人鬼の彼は、懐からナイフを取り出した。バレットはすぐさま銃口を彼に向けて牽制する。
護衛の依頼のことが、頭をよぎった。コトリは今夜、何者かに襲われる可能性があるということだが、まさかとは思うが、この殺人鬼がそうなのか、と。
聖堂の入り口付近に滞在するトカゲとの距離は、聖堂の最奥にある祭壇の前に佇むコトリまではもちろん、両者の中間地点に立つバレットの位置までも離れていた。歩幅にして十数歩。駆けて接近してきたとしても、そのナイフの冷たさに襲われるまでに二、三発程度、彼の体に撃ち込むことができる自信はあった。
バレットは、自分が有利な状況にあることを確信していた。
トカゲも、その点については理解している様子だった。ナイフと銃の闘いでは、この場合、銃の方が先手で勝る、と。
「やめたほうがいい」バレットは、鋭く言う。
「だな」トカゲはナイフを持った手をだらんと真下に伸ばし、息を吐いた。
崩れ落ちた天井から注ぐ月光のもと、バレットはトカゲと睨み合った。夢や希望を宿していない傀儡を彷彿とさせる彼の目は、女性のみを殺し、衣服を剥いで放置するという変態的な趣味を持ち、王都の街を脅かすシリアルキラーの象徴ともいえる陰険さを伴っていた。
緊張が胸のあたりを発ち、右肩から腕の先へ、指の腹にまで、じんと走った。
今ここで銃を撃てば、目の前の殺人鬼は、幹を斬られた樹木のようにみしみしと、その体に何年にもわたって蓄えていた生命としての力強さのようなものを崩壊させ、生き絶えることだろう。
しかし、どういうわけか、そうなることに確信が持てなかった。
いや、彼を殺すことに躊躇いを覚えたのではなく、彼は、殺すことのできる存在なのだろうかと疑念を抱いてしまったのだ。
バレットは思った。自分が対峙しているのはただの殺人鬼などではなく、人の心の奥深くから這い出てきた禍々しい邪悪であり、実体を待たない何かではないか、と。
それが、少年の皮を纏って人の世を闊歩している。誰にも気づかれないように注意深く、それは、日常に溶け込んでいる。溶け込んでいながらも、虎視眈々と表舞台に躍り出る時を待っている。我々には認識のできない邪悪であるのだ。
それは、殺人という手段で人々の前に現れる。そうすることではじめて、世界に認識されるからだ。
女性のみを襲う殺人鬼。
確かに聞こえはよくない。だが、それ以上の恐ろしさが、彼の中には潜んでいるような気がした。
人間が、本能的に嫌う何か。
それは誰の中にも潜んでいる。常に隣り合わせに存在していて、互いに銃口を向けている。殺し合おうとしていながら、共生関係にあるが故に仕方なくといった具合に生かし合っている。
腐れ縁でも肉親でも、初対面でも殺し屋でもない。水面下に映り込んだもうひとつの自分の姿とも、また違う。
ただ、それなのだ。
正体が掴めないそれは、今、殺人鬼となってしまった彼を支配している。
彼を救い出すことは、きっともうできない。だが、同じように、それを殺すこともできない。
そんな迷いが、バレットに躊躇いを与えた。彼という存在の異質さを、無視せずにはいられなかった。
それはきっと、自分の心の奥底にも同じようにして、あるのだから。
路地裏で邂逅した時、彼はそれを見抜いているふうだった。
彼に向けているはずの銃口が、自分自身の首に押し付けられているかのような不快感が、宿った。
「お前たちが何者なのかは、この際どうでもいいんだが」
トカゲが口を開く。その声音には彼の、人間としての落ち着きのようなものがあった。
「訊きたいことがある。まず、十年前にこの聖堂で火災が発生したことは知っているか」
「ああ」
バレットは答える。よく覚えている。父がコトリに殺された、あの夜に起きたことだから。
「あの夜、俺の母を殺した女が、この聖堂に逃げ込んだ。俺はあとを追ったが、着いた時には、この建物は丸々、すでに炎に包まれていた。建物が崩れ、中に閉じ込められていたシスターたちの泣き叫ぶ声が聞こえたよ。だが、火災の中から、運よく生き延びた人間がいる。マリナという名前の修道着姿の少女だ」
「マリナ……」
コトリが、そう呟いたような気がした。
トカゲは続ける。
「俺はその少女が、炎に包まれた聖堂の中にいるのを確かに見た。でも、生きていた。あいつが街中を歩いているところを見たんだ。どういうことかわかるか?つまり、ここには秘密の抜け道があったんだ。俺の母を殺した女も逃げ出したに違いない。そこで、訊ねたい。背中に傷のある女を見たことはないか」
「ない」
バレットは即答する。トカゲは、そうか、と短く言い、コトリに視線を移した。コトリは無言で首を横に振る。
「あの女は必ず生きている。だから俺が殺してやらなくちゃならない」
「母の仇だからか」
「そうだ」
トカゲは、くくと笑った。
取り憑かれている。
彼はすでに人ではない何かそのものに成り代わろうとさえしていると感じた。
そう思うと、同情の念が湧いてこないでもなかった。
彼は——王都で女性を殺してまわり、トカゲと呼ばれ、人々に恐れられる存在となるまでに、すでに自分という存在を殺してしまっている。何がきっかけで、そこに至ったのかはわからないが、取り返しのつかない危険な状態を保ち、生き続けている。
母の仇を殺すという、その点において、彼はすべてを賭けている。生涯のすべてをだ。
バレットは、殺人鬼である彼の根底にある芯の脆さが、見えた気がした。
彼の探している女性は、おそらく、あの夜に聖堂の火災で死んでいる。
事件は、王都でも噂となった。バレットも聞いたことがあった。生き残った人間は、いなかったという。
彼はそれを知っているはずだ。それなのに、生き延びた者がいると言い張り、母の仇である女もどこかにいるのだと思い込んでいる。
哀れだ。
しかし、だからこそひとつわからない。
なぜ、彼はそう思い込んでいるのだろうか。
マリナという少女のことは見かけたようだが、母親の仇である女性のことは、生きている確証がないではないか。
殺したいほど憎んでいる。あくまで自分の手によって。だから母親の仇が、あの火災に呑まれ、焼死したという事実を受け入れることができなかったのだろうか?
どうしても、自分の手で殺してやりたい。
それだけ彼は、母親のことを愛していたのだろうか。
コトリへの復讐心を糧に、ここまでどんな仕事も懸命にやってきたバレットにしてみれば、その気持ちは汲み取ることができる。
トカゲと呼ばれる彼は、悲痛な思いを蓄え、希望もない未来のために人殺しを続けて、無理やりにも自分を生かしている。そんな歪んだ感情を抱きながら生きていかなければならないところにまで来てしまったのだ。
それならば、いっそ、ここで殺してやるのが、彼のためなのではないか、と手を差し伸べてやりたくなった。
だが、それは依頼ではなく、個人的な復讐でもない。彼から頼まれたわけでもないのだから、そんな私情を挟む必要はないという殺し屋としてのポリシーが、バレットを制御した。
彼にはきっと、然るべき死があるはずだ。そこに、俺の銃弾は必要ない。そう願おう。
がたんと音がしたので、バレットは銃を握った腕をトカゲの方に突き出したまま、振り返った。
コトリが祭壇にある長方形の棺を開き、中を覗き込んでいた。
「何をしている」
バレットは鋭く言う。
「聖剣を探している」
コトリはこちらに顔も向けずに返した。
先ほどは旅人などと偽っていたが、もはや隠すつもりもないらしい。バレットが銃を持ち出したので、当然といえば当然である。トカゲは二人のことを、もうただの旅人とその案内人だとは思っていない。
「聖剣だと?」
トカゲは目を細めた。
「知っているのか」
「実在するのか、それ。聖剣を探しているやつがいるって話なら耳に挟んだがな」
得意げにトカゲは言う。
トレジャーハンターの類だろうか。なるほど。他にも探している人間がいるのならば、少なくとも存在はするのだろう。おとぎ話で聞くような、所有者の願いを叶えるという超常的な力を秘めているのかどうかは別として。
「あの」
少女の声がした。
三人の視線が、その声が聞こえてきた入り口の方へと集められる。
「こんなところで、何をしているのですか」
声の主が、暗がりの中からすっと現れる。
修道着姿の少女だった。
トカゲが言った、マリナという少女か。聖堂での火災から生き延びたという。
バレットは、彼女の視界には入れないようにと銃をコートの中にしまった。無関係な人間を必要以上に刺激すると、後々、厄介なことになる。少し様子を見ることにした。
「ようやく会えたな。マリナさんよ」
トカゲがぐいと、彼女の傍に詰め寄る。
「どなたですか」
「俺が誰かなんてのはどうでもいい。ずっと、あんたを探していたんだよ。訊きたいことがあってな」
トカゲがナイフを持ち出し、彼女の視界に入れて、ぷらぷらと振った。
「私に訊きたいことですか。なんでしょう」
彼女はそのナイフに驚きはしたようだが怯えた態度は見せず、トカゲを横目で見ながら冷静な口調で言った。
「十年前のことだ。この聖堂で火災が起きただろ?その夜、背中に傷を負った女がここに駆け込んできたはずだ。どこへ逃した?答えろ」
「十年前……」
マリナは俯き、辛い過去を思い返しているふうな表情を見せた。
「覚えているだろ?それとも知らないか?いいや、そんなことはない。あんたはここにいた。よく思い出すんだ。あの夜、何があったのかを。炎の中でどんな気持ちだったのかを。そして、教えてくれ。どうやってあそこから抜け出した?女はどこへやった?生きているはずなんだ。あの女は俺が殺さなくちゃならないんだからよ」
トカゲは、ぎょろりとした目でマリナの顔を覗き込む。獲物を追い詰める獣のような執着心に、嫌悪感を覚えた。
バレットは再び銃を取り出し、トカゲに向ける。
「よせ。辛そうだ」
トカゲは視線だけをバレットに向け、睨み付けた。
「俺はもっと辛い思いをしてきたんだぞ」
「それは彼女には関係ないだろ」
「じゃあこいつの気持ちなんてのも、俺には関係ねえじゃねえか」
言い争いの最中、マリナと目が合った。
彼女は、バレットを視界にとらえると、ぐっと目を見開いた。その眼力に、バレットは怯む。
「まさか、あなたが……?」
修道着姿の少女は、ぽつりと消え入りそうな音を溢した。まっすぐに、バレットを見つめている。
「何がだ?」
「おい、先に俺の質問に答えろ」
トカゲが、マリナの肩を強く掴む。その力に押され、彼女は後退するようにしてよろけ、膝から崩れ落ちるようにして地面に座り込んだ。
「待て、あんたは動くな」
バレットは、マリナに近づこうとするトカゲに向かって言う。
「おまえに指図される筋合いはねえよ」
「主導権はこっちにあると思わないか」
負けじと目つきを鋭くして、銃を見せつけるようにして腕を伸ばした。
「やめて、ください……」
辛うじて聞き取れるほどの声量だったが、彼女が拒絶を意味した言葉を発したのがわかった。やはり、十年前のことは思い出したくはないようだ。
トカゲが、それ以上しつこく彼女に絡もうとするならば、足を撃ち抜いて動きを止めようかと考えた。
つい先ほどまで彼を哀れみ、同情していたというのに、今では彼女の方を庇おうとしている。
しかし、そんな機会は訪れなかった。
突然、目の前が明るくなったかと思うと、四方を槍兵に囲まれ、体中を突き刺さされたのだと錯覚させるほどの激しい痛みに襲われた。
遅れてやってきたその感覚の正体が、熱によるものだと気づいた時には、視界いっぱいに広がる炎の海に唖然としていた。
聖堂が燃えている。あの夜と同じように。
辺りは真っ赤な炎に包まれていた。
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