殺人鬼 5
突如、聖堂内を覆った明るさに目が眩んだ。
薄闇に黒ずむ路地裏を彷徨い続けた夜が終わり、気づけば朝焼けで白んだ通りにいて、その眩しさに思わず目を細める感覚だ。
目の前に現れた炎に、トカゲは顔をしかめる。視線を落とすと、足元が煌びやかな赤に染まっていた。まるで、十年前のあの夜と同じように。だが、自分が聖堂内にいる。それだけが違っていた。そして、あの夜にもいた修道着姿の少女が、やはりここに、両手を合わせ、額の前に差し出し、祈るような恰好で目を閉じている。
トカゲはこの異様な状況で、どうするべきなのかを直感した。
マリナの肩を乱暴に掴み、ナイフを逆手に持って、腕を振り上げる。刃の向かう先には、少女の生白い首がある。
この少女を殺してしまえば、母の仇である女を探す重要な手がかりを、ひとつ失ってしまうことになる。だから慎重になるべきだ。
しかし、この少女には他のやつらとは違う何かがあるという予感があった。このまま野放しにさせておくのは危険ではないのか、と。
振り上げた手を鋭い痛みが襲う。思わずナイフを手離し、落とす。痛みを感じた右手を庇うようにして腹の位置まで下げ、刺激の正体を探ると、親指の付け根の部分と手の甲の肉が抉れていた。
トカゲは慌てて脇にある横に長い椅子の背に――半壊していて、それは椅子と呼べるのかはわからないが――肩を張り付け、その陰に隠れる。傷の正体はわかった。バレットだ。あいつ、銃で撃ちやがった。こんな状況下で、なんて正確な射撃だ。
「くそ、いてえ」
痛みをこらえるために歯を食いしばる。もう片方の手で、傷口を上からぐっと力強く押さえる。その両手ともが、赤黒く汚れていた。
何かを思い出しそうになる。
十年前の夜も、そうだ。俺の手は、こんな色に汚れていた。
あの女を背後から襲った時に、血がついたんだっけか。
「なにすんだよ」
トカゲは動揺を押し殺し、声を張り上げる。
「こっちのセリフだ。今、彼女を襲おうとしたか?」
バレットの声が、熱波の向こう側から聞こえてくる。
聖堂は、どこからともなく発生した炎によって、バレットと謎の大男がいる最奥側、そしてトカゲとマリナがいる入り口側とで分断されていた。炎の勢いはというと、あの夜空に輝く月を掴み取ろうとせんばかりに、どんどんと背を伸ばして成長していく。やがて、こちら側からは、バレットたちの姿が確認できないほどになると、まるで彼らの接近を拒絶するための壁であるかのように、炎は聖堂内の背景のひとつと化した。
「……これは、ひょっとしてあんたの仕業なのか」
息を整えると、トカゲは顔を横に向け、石造のように動かなくなったマリナに声をかける。
「あの夜と同じだ。あんたはそうやって、ずっと何かを祈っている。異常だな。俺が言えたことじゃないが、やはり、あんたはどこかおかしい。この炎の中で、どうしてそんなにも落ち着いている?いや、そりゃあもう落ち着いているってよりは、信じているな。あんたの中では明白なことなんだろ。自分がこの炎の中で、無事でいることができるってのは」
マリナは応えない。静かに、両手を額の前で合わせている。顔から表情を消し、口を閉じ、目を閉じている。床に両膝をついて座り、聖堂内に炎が生まれた時と同じ姿勢のまま、動かない。自分が話しかけている相手は、人間ではないのではないか。そんな不安が一瞬、よぎったほどだ。
右手の痛みは、いつのまにか引いていた。出血も止まったようだが、それは手の感覚がないことを意味していた。力を入れようとしても、うまくいかない。この右手だけが死んでしまったかのようだった。
「十年前のあの夜、ここに来た女をどこに逃がした」
トカゲはマリナに呼びかけ続ける。しかし、返事はない。
「聞こえているんだろ。俺は知っているぞ。あの火災で死んだのは、この教会に通っていたシスターたちだけだったってな。俺が追いかけていた女は死体として見つかっていない。炎に焼かれなかったんだ。そして、どういうわけかあの夜、あんたもここにいたはずなのに、そうして生きているじゃないか。つまり、そういうことだ。二人で逃げ出したんだろ」トカゲは、痛みのない左手で、落としたナイフを手繰り寄せる。「もとから共謀していたのか?まさか、あの女が俺の母を殺したことを知っていて匿っているわけでもないだろう。なら、教えろ。あの女はどこにいる。あの夜、どうやって生き延びた」
「……わかりません。私は、何も知りません」
修道着姿の少女は、細い声で言った。それは、枯れた彼女の口から辛うじてこぼれ出た最後の言葉であるかのような、弱々しい音だった。
「ふざけるなよ、おい」トカゲは立ち上がり、炎の壁が、その反対側にいるバレットの視界を遮ってくれていることを確認すると、大股でマリナに近づいた。「あの夜、ここにきた女をどこへ逃したんだ!」
「……ここへは、来ていません」
トカゲの言葉には反応するも、そこには彼女の意志は宿っていないかのような声だった。
「嘘をつくな!」
トカゲはマリナの胸ぐらを掴み、力一杯、握りしめる。彼女は苦悶の表情を浮かべた。しかし、目は虚ろだった。その顔面のかたちで作られた人形を持ち上げている気分になった。彼女の目は、何か違うものを見ている。少なくとも、トカゲではない。聖堂内の炎でもなければ、綺麗な月の浮かぶ夜空でもない。もっと先の――ここより、さらに遠くにある別の世界を、彼女は覗いているふうだった。
「……あの夜、ここへやって来たのは見知らぬ男性だけです」
ようやくマリナが口を開いたかと思うと、わけのわからないことを言い出した。
それは、年老いた女が自らの体験した過去を振り返り、子どもたちに物語として聞かせている時のような、ゆったりとしていて丁寧な口調だった。彼女は、もともとこういった喋り方なのかもしれないが、右手の激しい痛みに襲われ、気が立っているトカゲにとってみれば、ただ苛立ちを募らせる要素にしかならない。
「男がなんだって?」
「彼は何かから逃げている様子でした。私たちを脅し、自分をこの聖堂に匿うように、さもなくば殺すぞと、声を荒げていました。それからは——何があったのか、よく覚えていません。彼が何者だったのかもわかりません。ただ、シスターたちの悲鳴や男の怒鳴り声、それらがとても耳障りだったことは確かです。なので、私はただ願っていました。静寂の世界を。気がついた時には、この聖堂は炎に包まれていて、私はひとり、生き残ったのです」
彼女の瞳には漆黒が宿っていた。それはあらゆる生命の心を蝕む闇だ。孤独という毒だ。
トカゲはマリナを突き飛ばす。やはり、この女はおかしい。ただの人間のようで、違う。人間の皮を被った化け物だ。異形の何かが内を巣食っている。そしてそれは彼女自身が本性を隠しているのとは、また違う。この闇そのものが、彼女の内側に隠れているのだ。彼女とは別のもの。異なる意志。それはきっと誰の内側にも潜むものでもある。
トカゲは無意識に自分の左胸のあたりをぎゅっと握っていたことに気づいた。
そうか。それは俺の中にも、いるのだろう。
時折、聞こえる悪魔の声。あれが俺の内に潜む闇だ。俺の心を蝕む毒だ。孤独が故の苦しみなのだ。
マリナを見ると、泣いていた。
肩を震わせ、両手で顔を隠し、嗚咽を漏らしながら、うずくまっていた。
怯えている。過去を振り返って、悲しんでいる。トカゲには、それがわかった。彼も同じような気持ちになりかけたことがあったからだ。
しかし、トカゲの内には、マリナにはない情熱があった。
復讐心だ。それが、彼に悲しむ余裕を与えなかった。感じさせなかった。
あの女を殺せ。母の仇を取れ。それ以外に何も考えるな。怒りに満ちたもの以外を、己の中からすべて削ぎ落とせと、いつも耳元で悪魔は囁いていた。おかげで、悲嘆に暮れる暇などなかった。むしろ、この燃えたぎるような昂る感情をどう鎮めるべきなのかと考える方がずっと健全だと信じるようになっていた。
やはり、復讐を遂げるしかないのか、と。
――やっと、終わったか。
背後から、声をかけられた。
まだ誰かが隠れてでもいたのかと振り返ると、そこには誰の姿もなかった。
しかし、確かに声は聞こえたはずだった。
誰の声だ。
——おれだよ。
トカゲは、自分のすぐ右隣に突如として現れた黒いもやに、目を見開く。それまでは聖堂内に広がる炎の影だと思っていた。それが、どういうわけか実体を持ち、話しかけてきたのだから、呆気にとられる。
——何をビビってんだ。
黒いもやは、縦に伸び、横に広がり、時に渦巻き縮まりながらと、その形を自在に変えて、その姿に合わせた調子で話しかけてくる。まるで、このもやそのものが人の顔であり、動きが表情であるかのように。声に合わせて、トカゲを嘲笑うように伸縮する。
「誰だ、お前は」
トカゲは苛立ちながら、言う。
――おれは、きみだよ。もうひとりのきみ。ほら。
もやが一か所に集中的に固まり、確かな形を作りあげていく。
それは、人の形をしていた。
さらに、トカゲと同じ背格好と装いだった。
そして、水面に映ったもうひとりの自分がここに、まるでおとぎ話の世界に迷い込んでしまったかのような唐突な展開で、現れた。
「お前だったのか。いつもいつも頭の中でうるせえことばかり言ってきてたのは」
——察しがよくて助かる。そういう自分の危機だけには敏感だもんな、きみは。
黒いもやでできた、もうひとりのトカゲは、不敵な笑みを浮かべている。
「何しにきた」
——言っただろ。全部、終わったんだ。だから出てきた。
「終わっただと?」
トカゲが目を細めると、もうひとりのトカゲは呆れたように息を吐く——実際にはただの黒いもやであり、また、そんなもやさえもトカゲ自身にしか認識できていない、ある種の幻覚なので、あくまで彼の視点から見て感じとった態度ではあるが——仕草をしてみせた。
——足元を見てみろ。
トカゲは言われた通り、しかし肩が触れ合うほどすぐ隣にいるので警戒しながらも視線を落とす。
「何を見ろって?」
——そこの小汚い塊だよ。
もうひとりのトカゲが指した先を辿ると、そこに、真っ黒で大きな岩が置かれてあるのを見つけた。いや、樹木だろうか。地面に横たわり、炎に包まれている。
一人で抱えるのには苦労しそうなほどの大きさだ。どこかに運ぶのであれば、担ぐか、人間二人で持ち上げるかした方がいいだろう。それだけの大きさのものだった。
「これがどうかしたのか」
視線を戻すと、もうひとりのトカゲの姿は消えていた。
しかし、その声ははっきりと聞こえてきた。
いつものように、頭の中に響く悪魔の声が。
——きみの死体だよ。全部、終わったんだ。もうひとりのおれ。
————
理解できないことを拒絶することは、人の強さであり弱さでもあると、昔、母から教わったことがあった。
彼は母親のことを愛していた。
ただ一人の家族であったし、街に出ても周りの人たちからは、それほど過激ではないにしろ、あからさまに、そして意図的に距離を置かれ、避けられていたので、彼にとっては、自分を認めてくれて、話を聞いてくれる人の存在はとても貴重だった。
それ故に、十年前に起きた事件は、彼の人生を狂わせた。
理解のできないことが、目の前で起こってしまった。
まだ幼かった彼の身に降りかかった不幸は、彼の心をずたずたに裂き、彼の心を変えてしまった。
彼は選んだ。拒絶することを。母の死を、この事実を否定する道を。
——だから、あの女を殺すことにした。
そうすれば、母の死は報われる。少なくとも、それが正しい死だと思い込むことができる。
なるべくしてなった死。
起こるべくして起こった死。
それはすべて、あの女に復讐を遂げた時に、完成する。そしてそれができるのは、自分だけだと、そう信じ込み、この道を未だに歩き続けている。
——今、再び、目の前で理解の追いつかないことが起きていた。
場所は、夜の聖堂。辺りは謎の炎によって、ほとんど外界と隔離されている。
そこに、自分の体が倒れていた。
だが、自分は倒れていると意識していない。むしろ、こうして立っているじゃないか。
では、あれはなんなのだ?
どう見ても、自分の体だ。炎に焼かれ、酷い有様だ。すでに屍と化している。そこに命の灯火はない。この神秘の炎に呑み込まれて、自然の一部となってしまっていた。
——きみには、感謝しているんだ。
悪魔の声がした。
「何のことだ」
——そう敵意を向けないでくれ。おれもきみも、もう死んでしまっている。二人で何をしようが、無駄なんだよ。
「なんの話だ」
——きみは、まだ受け入れていないんじゃないかと思って。
彼はくつくつと笑う。
「理解できないな」
——それは人の強みでもあり、弱みでもある。
「……母の言葉だ」
——ああ、ママの言葉だ。
目の前が、すうっと明るくなる。
気づくと、真っ白は部屋の中にいた。四方を高い壁に囲われた、家具も窓も何もない殺風景な部屋だ。天井や床もすべてが清潔感のある白で塗りたくられ、闇の存在しない箱型の空間に閉じ込められているようだった。
視線の先には、彼がいた。
十年前の夜のことを思い出そうとすると、いつも耳元で囁く、あの悪魔の少年だ。
彼は、自分と同じ容姿をしていて、純真さをいっぱいに含んだ愛嬌のある笑顔で、バロック調の高級感のある椅子に座っている。身の丈に合わない雰囲気が、微笑ましささえ感じさせる。
——この時がくるのを、おれはずっと待っていたんだ。
彼は嬉しそうに、そう呟いた。
「俺が焼け死ぬ時をか」
——いや、違う。きみが真実に到達する時をだよ。
「真実?」
何の話をしているのか、わからなかった。
——気づいているはずだ。きみはとっくに、ここに到達していた。だが、気づかないようにしていたんだ。いや、そうせざるを得ないのか。それが、きみの存在意義だからな。
「わけのわからないことを」
——そうでもない。きみには理解できる。すでに、知っているから。
「おい、いいか。言いたいことがあるなら、はっきりと言え。意味のない問答をしている場合じゃないんだぞ」
——いいや、時間はたっぷりとある。トカゲという殺人鬼は、今夜、聖堂の炎に焼かれて死んだ。まあ、もとより、おれは死んでいたも同然だったんだから関係ないが、あとは、真実を受け入れる覚悟が必要だった。そして、その覚悟ができた。今度は、きみが気づき、それを認めるかどうかの番だ。
「認めるって、何をだよ」
——きみの目的は、とっくの昔に終わっているということをだよ。
俺の目的。
頭に浮かぶのは、やはり復讐だ。
母を殺した女への復讐。それがすでに、完遂しているだと?
「俺は、まだあの女を殺していないぞ」
——問題はそこだ。
「……問題?」
——ああ。そもそもが間違っていたんだ。そのことを、いい加減認めるべきだ。きみ自身、マリナから聞いていたじゃないか。十年前のあの夜、ここには誰も来ていない。不審な男が立て篭もったらしいが、少なくともきみの追いかけていた母の仇とやらは訪れていない。
「じゃあ、あの女はどこに行ったんだよ」
椅子から腰を上げ、同じ目線に立った彼が、口元を歪める。死にかけている惨めな小動物を憐れむ猟師のような顔つきだった。
どうして、お前がそんな顔をするんだよ。
——もともと、そんな人はいない。
「は」
——彼女は、きみの幻想だ。
「幻想?」
――きみは初めから狂っていたから。つまり、母の仇という幻の影を追っていたんだ。おかげで、おれは、この残酷な真実を受け入れるために十分な時間を過ごすことができた。十年という長い時間を。あの夜、きみが代わってくれたから。おれは壊れかけていたけど、完璧に狂ってしまわずにすんだんだ。
「なんだ、その真実ってのは。教えろ」
――もちろんだ。ただ、ここでは無理だ。おれたちはまだ、この聖堂に囚われている。移動しなくては。十年前のあの夜のことを思い出そう。そこに、すべてがある。
「十年前……」
――きみを不幸にする記憶だ。だが、これで、おれたちの人生はお終いとなる。十年前のあの夜から、帰ってこられなくなるからだ。でも、どうせ死んでしまっているのだから構わないだろ。回想を進めると、そのまま真実の中に呑み込まれて、この世界の一部となる。さあ、行こう。もう未練はないはずだろ。
彼はくるりと振り返り、すり抜けるようにして壁を越え、白い世界の向こう側へと歩いて行った。
トカゲは何も言わず、彼のあとに続いて歩き始めた。
背中に熱気が当たる。
今ならまだ引き返すことができるかもしれない。
だが、そんな気にはならなかった。
このまま、あの悪魔についていき、真実を認めなければならないのだと、なんとなくそんな気がしていた。
——彼の言う通り、本当はすべてを知っていた。
しかし、そのあまりに残酷な真実を受け入れてしまうと、自分が自分ではなくなってしまうので、やはり、認めるわけにはいかなかった。
俺が生まれた意味を、俺自身が否定することは不可能なのだから。自分の生きている理由を明確に否定できる生命が存在し得ないのと同じように。
あの夜、彼の心の中に眠っていた俺は、この世界に生を得た。
それは、彼の防衛本能による衝動的な誕生だった。
自分を壊してしまわないように、彼にとっての悪の結晶ともいえる俺という性格を、心の外に解き放ったのだ。
だから、彼と代わってやるしかなかった。
彼の体を頂いたのも、その時だ。
奪い取ったというより、託されたのに近かった。彼も、それで納得してくれていたから。
俺があの女を追いかけ、母の仇を討つ。
その間に、おれは心を落ち着かせ、真実を受け入れる覚悟を決める。
そんなシナリオで、俺はおれを保つことができた。
俺たちは、おれたちで生きることができた。
だが、それももう終わりのようだ。
もとより、俺はあの夜に壊れて死ぬべきだったのかもしれない。
そうだ。
それが真実だ。
ようやく認めることができた。
——おれが、ママを殺したのだ。
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