追憶 1
その日、王都の空は、快晴と叫びたくなるほどに澄み渡っていた。
時々、涼やかな風が吹き、心地よい空気を感じさせてくれるが、ここ数日、続いていた雨模様を忘れさせる強い日差しには、誰も彼もが眉を曲げて汗を流していた。
広場では、少年少女たちが笑い声を上げる。
おれは、坂道に面したところに建つ自宅の前から、ちょうど見下ろす位置にあるその広場の様子を、静かに眺めていた。
彼らは、広場の中心にある噴水を軸にして円を描くような軌道で、同じ方向に、さっきからずっと飽きもせず、爽やかな汗と楽しげな空気を振り撒きながら、無邪気な笑顔で走り回っている。まるで、そうやって活発に動いることが自分たちの仕事なのだと、この世界に生まれ落ちた意味なのだとでも言いたげに。
なんとも言えないが、同じくらいの歳の彼らが楽しそうに遊んでいる姿をぼんやりと見ていると、自分の体の真ん中にある芯のようなものが、温かくなる。
柔らかいものに包み込まれているような安心感があって、おれは、それを感じることが好きだった。
だから、家にひとりきりの時はこうして、玄関前の段差に座り、図書館に飾られている古い絵画を眺めるような安らかな気持ちで、彼らの仕事を見守っていた。
広場で遊ぶ集団の中から、ひとりが飛び出したのが見えた。
白いワンピースを着た少女だった。
彼女は、片手を顔の高さに上げて左右に振り、他の少年少女らに別れを告げるふうな合図をしたあと、くるりと体を反転させ、こちらに向かって走ってきた。
家がこの方角にあるのかと思っていたが、ふと彼女と目が合うと、にこりと明らかにおれに向けての笑みを浮かべた。そして、どういうわけか、彼女はおれの近くまでくると足を止める。両手を膝につき、おれの横顔を覗き込むような姿勢になり、口を開いた。
「こんにちは」
その少女は、明るい声で言う。
「……こんにちは」
座ったまま、目も合わせずに、おれは小さい声で返した。
「こんなところで何してるの?」
少女は一歩前に踏み出し、おれの正面に立った。
ワンピースの裾が、おれの顔の近くでゆらゆらと揺れる。
顔を上げる。年相応の幼さのある顔立ちで、美しい空色の瞳をした少女だった。
おれと目が合い、彼女は微笑む。綺麗な黒髪が、風になびいている。
変な緊張を感じた。
「……何もしてない。ただ、いろいろと眺めてた」
「眺めてた?」
おれが無言で頷くと、彼女は、ふーんと、つまらなさそうに言った。おれは続ける言葉を探す。
「空とか街とか広場とか、そういうのをのんびりと見てた。きみたちが楽しそうに駆けまわっているところも見てたよ」
「それ、楽しいの?」
おれは一瞬、言葉に詰まる。視線を彼女の顔から外して、斜め上の方に移し、片方の目を細め、首をわずかに傾ける。
「わからない。けど、落ち着くから」
「落ち着くからかー」
「うん。本を読んでる時と同じような気持ちになるんだ」
「ねえ、それって、どんな気持ちなの」
「……自分だけの世界にいるような気持ち、かな。そこには、おれだけしかいなくて、何をやるのにも自由なんだ」
おかしなことを言ってしまったかなと思い、もう一度、彼女を見たが、思いのほか、好ましい印象を与えることができたようで、
「それ、とてもいいじゃない。まるでおとぎ話みたいで」
と、彼女は目を輝かせて言った。
「うん。おとぎ話みたい」
彼女は、くすくすと笑った。
おれもつられて、ふふと笑う。
何気ない日常的な、この時の流れの中に、かすかな幸せの香りを感じた。
彼女とここで、いつまでも二人きりで話していたいと、おれは本気でそう思った。
——でも、それはできない。
彼女との仲を深めるわけにはいかない。
なぜなら、そうすることで、彼女をおれの問題に巻き込んでしまう恐れがあるからだ。
それだけは、いやだった。
なぜか。
おれは初めて会った時から、彼女に恋をしたから。
次の日、おれはいつものように、家の前から広場をのんびりと眺めていた。
子どもたちは、今日も元気にじゃれ合っている。昨日、帰り際、おれに声を掛けてきた少女の姿もあった。
自然と、彼女のことを目で追ってしまう。
一度しか話したことのない少女に、柄にもなく好意を抱いてしまったことは、自覚していた。
それは、一目惚れだった。
「また、見てるね」
少女が、おれのところまで駆け寄ってきて、言った。昨日と同じ、清廉さのある白い衣装を纏っていた。
「うん。留守番が暇だから」
「あなたは、みんなと一緒に遊ばないの?」
おれは、彼女の顔をじっと見つめる。
輪郭も含めて、顔全体が丸っこい。大きな目と、くっきりとした眉が可愛らしい。
「……うん。遊ばない」
「どうして?」
「いや、なんというか、説明は難しいんだけど」と、おれは口籠る。
これが、他の子を相手にしているのなら適当に誤魔化すこともしたのだろうけれど、彼女が話し相手の場合だと、少し違った。騙したくはないという感情が、胸の内に生まれていた。
「複雑なの?」
少女は何かを察したのか、おれが言葉を続けやすいよう促してくれる。
「うん、複雑なんだ。きみたちと遊びたくないってわけじゃないんだけど、ただ、遊ばない。その事実があるだけで」
「それって、あなたのお母さんが関係してるの?」
おれは、かぶりを振る。
「ママは……違うよ」
「でも、昨日、言ってたよね。お母さんが帰ってくるまで、あなたは家を離れることができないんだって」
昨日、そんな話をしたのか、おれは。
そういえば、彼女との会話が、主に二人でいる時間が楽しくて、つい調子に乗ってしまったかもしれない。我が家の事情を、少し深いところまで、彼女に話したような気がする。
——しかし、だからといって特に、何かあるわけでもない。
事実は、どうあれ事実だ。
「おれがいないとさ、家が空いちゃうでしょ。そこに泥棒なんかが入ってきたら、大変だ。うちは、ママが一人で家計を支えてくれているから、おれは手助けがしたいんだ。ささやかながら、だけどね。ママがいない間は、この家はおれが守るんだ」
「へえ、あなた、ずいぶんと立派な考えをしているのね」
「ありがとう」
おれは照れ臭くて、赤面を笑顔で誤魔化す。
「あれ、あなた、それ……」
ふと、少女の視線が、おれの顔から外れ、首元を突いた。
おれは慌てる。何か言葉をかけられる前に、それを遮ろうとして勢いよく立ち上がる。
すると少女が肩をびくっと揺らし、上半身を逸らす。おれから距離を取ろうとするみたいに。
それから、おれと目を合わせて、怯えた顔をした。未知の生物を前に困惑している。そんな表情だった。
「……ごめん」
俯きながら、おれは謝る。衝動的にしてしまったことなので、どうすればいいかわからなかった。それでも、とにかく謝ろうと思った。
「……うん」
少女は頷く。なにがなんだかわからない、しかし、末恐ろしい空気を肌で感じた、といったふうだった。
おれは、すぐに冷静になり、なんてことをしてしまったんだと悔いた。彼女を怖がらせてしまうなんて。
そして、おれの問題に、彼女を巻き込みかけたのだ。
嫌な沈黙が、辺りを漂う。
彼女と二人きりでいると心が晴れやかになるというのに、今だけは、曇り空の下にひとり、忘れ去られてしまったような気分になった。誰も、おれを見ていない。誰も、そこにはいない。
どことなく、不安を覚える。
「ただいま」
聞き慣れた声に体が反応し、顔を向ける。
ママの姿があった。
小さな買い物かごに果実と調味料を詰め込み、大事そうに抱えている。
ぼさぼさと風に吹かれて乱れる髪を片手で押さえて、大きさの合わない眼鏡が顔からずり落ちそうになるのをしかめ面で堪えながら、ママは言う。
「ごめんね。ちょっと玄関を開けてもらえないかな。買い込みすぎちゃったみたいで……」
「うん。おかえり、ママ」
おれは扉を開き、ママを招き入れる。
ありがとう、と買い物かごを風と日差しから守るようにしながら、ママは家の中へと消えていく。おれと少女は、その背中が見えなくなるまで、黙ったままだ。
「今のが、あなたのお母さん?綺麗な人だった」
笑いながら、少女が言う。先の気まずい沈黙の時間など、どこにもなかったと思わせる明るい表情だった。
「ありがとう。でも、あまり自分を着飾るのは苦手みたい。いつも、あんなふうに髪はボサボサだし」
「あらそう」
「もったいないって思う?」
「いいえ、全然」
少女は力強く首を振る。
「そういうのって人それぞれだもの。感性?ってのがみんな同じだと思うのは良くないって、ましてや自分の感じるものの価値観?ってのを人に押し付けるのは良くないって、私のお母さんが言ってたわ」
「きみのママは、とても立派な人なんだ」
「ええ。世界でいちばん尊敬してるもん」
と、二人で盛り上がっていると、玄関の扉が、きいと音を立てて開いた。
すっと、ママが顔を覗かせる。
「あら、お友達と一緒だったのね」
「うん。昨日、会ったんだ」
おれは、ママに少女のことを紹介する。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
少女とママが挨拶をする。
おれは二人の顔を交互に見た。執拗に何度か、難解なパズルを解こうとするみたいに、二人の感情を読み取ろうと、首を動かして、視線を行ったり来たりさせた。
それから、ママに、夕飯の準備を手伝ってほしいとお願いされる。
恋をした少女との楽しい時間を終えるのは名残惜しいが、ママのために力になりたいという思いは、おれの中に強くあった。
たったひとりの家族なんだから。
おれには、ママしかいないのだから。
少女に別れを告げ、また会おうと言って家へと戻る。
玄関の扉が閉まる間際、背の方で少女が何か呼びかけてくれたようだったが、おれの耳には届かなかった。
——パリン、と何かが割れる音がする。
その夜、おれの心は悲しさに満たされた。
得体の知れない黒い水が、足先から頭のてっぺんまで、おれの中を這い回り、隅まで埋め尽くすように侵食してくる。
どうか夢であってくれ。そう何度も願った。
床につき、苦しい思いをする。
体に重しがのせられ、身動きも取れないまま巨大な怪物に捕食されるのではという恐怖が寝室の暗闇から襲ってきた。
仰向けになり、天井を見つめる。
涙が目から溢れた。
首を締め付けられている。腹を叩かれている。水に溺れている。皮膚を裂かれ、傷つけられている。
悪夢だ。眠れない。
自分の荒い呼吸が、うるさい。
息を鎮めるも、今度は、その静けさが、かえってうるさい。
何も音はないはずなのに、きいん、とどこか遠くで、耳障りな高い音が響いている。
うなされるようにして、目を覚ます。
すぐそばには、ママがいる。
おれの隣で、すうすうと寝息を立てている。体を揺すると、片目を開き、おれをとらえる。
どうしたの。眠たそうな目だけで、訊ねてきた。
——よくわからないけど、とにかく悲しくて、眠れない。
そう伝えると、ママは優しい顔つきになり、おれを抱きしめてくれた。
ママの腕は柔らかく、布団に包まれているのとは違う、心地よい温もりを感じた。
その温もりに癒され、おれはそっと目を閉じる。脱力感が体中を覆い、床に貼り付けられたかのように、また動けなくなる。
しかし、先ほどと同じような息苦しさはなかった。むしろ、何者にも干渉されない静かな場所で、くつろいでいるような気分だった。
人間は死ぬと、魂という目に見えない存在となり、極上の幸福と共に、ここではない異世界へと旅立ってゆくと聞いたことがある。
ママが頭を撫でてくれる。
今、おれはその世界へと旅立とうとしているのではないかと夢想する。ママは、おれを幸せの世界へと導いてくれるガイドだ。
やがて、おれは眠りにつく。
とても穏やかに、幸せを味わいながら。
————
少女と再会したのは、それから十日ほど過ぎてからだった。
それまで、おれは一度として少女の姿を見ることはなかった。あの日以来、家から出ていないのだから、当然と言えば当然だ。
理由は、ママだった。
ママに少女との出会いのことを話すと、微笑みながらも、悲しそうな顔をした。
友達ができるのは嬉しいけれど、あなたのことが心配なの。
やはり、おれをひとりで家に残していることを心苦しく思っているらしい。もし、おれの身に何かが起きれば、ママはきっと壊れてしまう。
——ママは、精神的にとても不安定で、弱い人間だから。
おれはママを悲しませたくないと思った。だから、家から出るのをやめて、少女と会うこともなかった。
しかし、その日、外から声が聞こえてきた。
少女の声だ。
こんにちは。
そう言葉を繰り返し、やがて戸を叩き始める。
こつん、こつんと何かを確かめるように丁寧なリズムで、玄関の扉が軽い音を立てる。
「どうしたの」
おれは扉を開けて、そこに立っていた少女に言った。
「あ、久しぶりに会えた」
「うん、そうだね」おれは少女を足元から顔までいっぺんに見る。「久しぶり」
「ねえ……何、してたの?」
少女は眉をひそめ、目を細める。
「何って、留守番だよ。初めて会った時も言わなかったっけ。日中はママが外で働いているから、その間、おれは家を守ってるんだ」
彼女に褒められた言葉を使って、おれは得意げに言ってみせた。
「もしかして、お母さんに言われたの?私に会うなって」
「いや、おれがそうしているんだよ。ママを悲しませたくはないから」
「そう……」
少女は俯き、口の端にぐっと力を入れる。ゆっくりと顔を上げ、おれの頭の中を覗き込もうとするほどの彼女の眼力に、何か決意めいたものを感じた。
「ねえ、今夜、会えないかな」
「え、夜に?」
おれは首を傾げる。
「どうして」
「一緒に出掛けよう。あなたを連れて行きたいところがあるの」
「どこに」
「ええと」
少女は一呼吸おく。
「西区の端にある特別なスポットよ。ここから近いところにあるの。そこでは、とっても綺麗な星空を眺めることができるわ」
「夜空を見るために出掛けるの?」
そんなことをして、何が目的なのだろう。空なら、ここからでも見ることはできる。
「ええ、そう。今日は予行演習にね」
「予行演習?何の」
「それはあとで教えてあげる。とにかく、今日の夜、家の前で待ってて。迎えにくるから。ね」
少女の言った通り、おれの家がある西区の住宅街から、その特別なスポットは近かった。
大通りへ出て、少し進むと、道の端に、暗い小道が現れる。なるべく人目につかぬよう注意しながら、おれたちは小道へと入る。大人たちに目撃されると、呼び戻されるか、心配されて声をかけられそうな、そんな入り口ではあった。
先は、黒い林道へと続いていた。
人の手で開拓された地とは違う、自然へと還るための通り道のようだ。吹き抜ける風は涼しいし、聞こえる草木の揺れる音、虫の鳴き声は耳に障らない。空気も澄んでいておいしい。おとぎ話の中にしか存在しないかと思っていた、幻想的な道だった。
「ついた。ここよ」
少女の後に続き、たどり着いたそこは、深山幽谷の果てに存在する妖精たちの隠れ家のような、人に知られることなど許されない理想郷であると、おれの目に映った。
しかしよく見ると、ただの広場だ。
不恰好な樹木に囲まれた円形の空間で、降り注ぐ月光と夜闇の影によって青く光って見える草花たちが、地面の土を払い除けるように足元を埋めている。
他には何もない。月の光でくり抜かれたかのように、頭上は枝葉で覆われていないので、空を眺めやすいというだけの場所だ。なのに、どうしてこんなにも感動するのだろうか。不思議でならなかった。
夜空に浮かぶ月を見上げる。
あの月の視点からすると、ここは、暗い森の中にできた小さな穴に過ぎないのだろう。そんな穴から、広い世界を見通すことができるなんて。
「綺麗でしょ」
少女が空を指す。
「うん」
おれたちはその場所で、首が痛くなるまでずっと夜空を見上げていた。互いに一言も、言葉は交わさなかった。
目に映る景色のあれこれを、星の煌びやかな輝きであるとか、この世のものとは思えない夜空の玲瓏さであるとか、そういったことを視界にとらえ、感じ取るたびに逐一、口にしたかったのだけれど、特に、何か言葉を発することが躊躇われたわけでもなく、ただ、じっと物言わぬものとなって、生きた死体のような心地で、静かに空を眺めていたかった。
そしてそれは、厳密にはそうしていたいと考えたからではない。そうするべきであると、自然に思い込んでいたのだ。そこに、おれの意思が及ぶ余地などなかった。
きっと誰であろうと、何も考えずに自然とそうする。広場で遊ぶ子どもたちだって、おれのママだって、この街の王様だってそうするだろう。
静かに、黙って、空を見上げる。
そんな場所なのだ、ここは。
やがて、少女が「実は」と、おもむろに口を開く。
おれは、顔ごと視線を彼女へと向ける。
「……私、気づいたの。あなたが苦しんでいることに」
「苦しんでいる」
おれは繰り返す。いつか気づかれてしまうだろうとは思っていた。
少女は潤んだ目を向けてくる。
「それ、あなたのお母さんが?」
少女がおれの首元に視線をやり、言う。
おれの首には、着ている衣服では隠せないほど大きな赤い痕があった。
おれは足元に視線を落とす。
「おれは、何も言わないよ。嘘をついても、たぶん、きみにはばれるだろうし」
ふと少女の顔を見やると、悲しそうな表情をしていた。
「……ただ、それだときみは納得しないみたいだから困るね。けどだからと言って、あまり家庭の事情を探られたくはないんだ、おれは……だから、これだけ言っておく」
おれは一度、ふうと息を吐き、吸い込む。
冷たい空気が胸に入ってきた。
ぴり、と指先に痺れが走った。
「ママは時々、壊れてしまうんだ。いつもの優しいママじゃなくなるっていうのかな。おれの父親が他の女性と愛し合って家を出て行った時から少しずつ変わってしまったんだよ。よほどショックだったらしい。おれにはその感覚はよくわからないけれど、ママは元々、心が弱い人間だからさ。ちょっとしたことで、パリンって割れるような音がする。それは心が壊れた音だ。おれにはわかる。その音がした時、おれは悲しくなる。痛みに襲われる。そして、あざが増える」
「……そう」
少女は上を向く。この素晴らしい星空を眺めながら、そっか、と小さく息を漏らすように呟く。
彼女が何を考えているのか、まるでわからなかった。
「……明日、月がとても綺麗な夜らしいの」
「は」
おれは月を見上げる。これ以上ない美しさだとは思うが、さらに上があるのかと期待する。
「何年かに一回きりってやつだって。王都の観測隊が、周期?みたいなものをたまに教えてくれるの。あなた、新聞とか読まないの?」
「読まない」
おれは首を振る。
「読んだほうがいいわよ。それでね。明日は今日よりも、もっともっと月が綺麗で、まん丸で、暗がりでも遠くまで見渡せるようになるくらい明るくて、特別な夜になるんだって」
「それはぜひ見たいな」
「でしょ。だから、明日もまた、ここに来ようよ。それで、一緒に月を見よう」
「一緒に?」
「そう、一緒に。今日は、その予行演習」
えへ、と少女は歯を見せて笑う。
おれの告白など、意に介さないといった雰囲気で、ただ、おれを励まそうとして、笑っている。
「これ、あげる」
「なにこれ」
少女から、小さなペンダントを手渡される。藍色の宝石が埋め込まれたアクセサリーだった。
「こないだの誕生日に、お母さんからもらったやつ。綺麗でしょ。私のお気に入り」
「え、つまり大切なものなんじゃないの」
おれは、開いた手のひらの上で、こちらに微笑んでいるかのように輝くペンダントを見やる。素人目にも、かなり高級な品であるのがわかる。
「そうだよ、大切だよ。私と家族。友達と街の人たち。お気に入りの白いワンピースと、趣味の天体観測の次くらいに大切」
「なんでそれを、おれに?」
「うーん、よくわかんないな。たぶんだけど、あなたのことを信じているからだよ。その証明、私なりのね。友達の証っていうと聞こえがいいかな」
少女は目を細めて、笑う。
「会ったばかりの子にこんなこと言われるのって変だと思うかもしれないけど、でも、私も同じくらい変なことを思ってるんだ。あなたのことね、会ったばかりなのに、助けてあげたいって思った。一緒にいてあげたいって思ったの。だから、大丈夫だよ。あなたも私を信じていい。あなたは、この街でひとりじゃないわ。私がいる。私たちがいる。家で辛い目に遭っているのなら、いつでも味方になるわ。そうやって飄々としているけど、正直、あなたの心は泣いているように思うの。もしかしたら、その涙さえもすでに枯れていて……とにかく、耐えなくていい。言いたいことがあるなら言えばいい。まあ、すぐにそういうのは難しいと思うから、ちょっとずつでいいけどね。だから何かあれば、またこうやって空を見よう。空っぽになってしまった心が満たされるような気になるでしょ。ね」
視界が一気に明るくなった。ように思えた。
ずっと暗闇の道を歩いていたけれど、少女の与えてくれる善性の光が、おれを正しく進むべく方角へと導いてくれているようだった。
おれは頷く。
そして、ありがとう、と言った。
少女は、素敵な笑顔で返事をくれる。
その時だけ、おれの頭の中から、ママの顔は消えていた。
いつもの優しいママ。
ひとりでいる時に泣いているママ。
おれを虐める時の悪魔のようなママ。
それらがすべて、干上がった大地のように力をなくしていく。
——そして、その代わりというように、おれの中には彼女がいた。
沈黙が訪れる。
木々の合間を縫い、吹き抜ける風の音。おれたちの関係を祝福するようにざわめく草木の音。あるいはもてはやすように鳴く虫の音。漫然としている土埃の音。遠い水の音。見えない光の音。そんな夜の音たち。
いろんな音が、見つめ合うおれたちの周辺を囲み、小さな世界を作っていた。
しかし、おれと彼女は、それとは別の世界にいる。
そこは、目には見えない壁を一枚隔てた向こう側の地——どんな音も聞き取ることはできない、二人だけの世界。
そして、いたいけな少女の愛らしい視線、小さな呼吸、大人しい仕草、儚げな表情。そういったものたちだけで、おれの世界は完璧に出来上がっていた。
そこはとても居心地の良い、この上ない幸せを味わうことのできる世界だった。
————
ぱしん、とはじける音が寝室に響く。
ママの張り手が、おれの頬にとぶ。不意に打たれたので、口の中を出血した。
「あの女と、出掛けていたの?」
ママが左右にゆらゆらと体をふらつかせながら、訊ねてきた。
「うん」
「どうして」
おれは口を開かない。
ママの手が、おれの首に触れる。
優しく撫でる、というより、どれだけの力で締め付ければ壊すことができるのかと、強度を確認しているような手つきだった。
「ねえ、言ったでしょ。私はあなたのことが心配なの。友達と遊ぶなって言っているわけじゃないわ。でも、あの女はだめよ。きっと、あなたのことを誘惑して貶めようとしているわ」
「それはないと思うよ。まだ子どもだし」
「……どうして、そんなことを言うの」
ママがおれの肩を突き飛ばす。
そして、尻餅をついたおれに歩み寄り、腰を屈める。
ぐっと両頬を押さえつけられ、口づけされた。貪るようなキスは、とても心地いいものではない。美しくも刺々しい毒花の香りがした。
そのまま、床に寝転がされる。
抵抗はしなかった。する気も起きなかった。
慣れたことだから。面倒なことだから。
おれはママを愛していたから。
気づけば、服を脱がされていた。
ママも同じように、裸となる。
二人の男女が一糸纏わぬ姿で、寝室の闇の中、体を密着させている。
ママはおれの体に馬乗りになり、細い腕を伸ばしてくる。
震えた手がおれの首元にまでやってくると、大切に包み込むように、また、首輪を作るかのように、ぴたりと丁寧に肌に触れる。その手に、ぎゅっと力が込められる。
息苦しかった。
これが始まるといつもそうだ。おれは意識を失いかける。
無理やりに頭をつかまれて、水中に沈められる感覚。世界は暗転し、窓から差し込む四角形のかすかな光をたよりに、うっすらと目を開くと、ママの漆黒の瞳がすぐそこにある。おれの目を介して、頭の中を覗き込もうとするかのように。
ママの荒い息が耳元でするたび、氷の矢で腹を貫かれたような、炎の刃で腕を斬り落とされたような、鉄の金槌で頭を殴られたような——ひどい痛みに襲われた。
それは体の外側からではなく、内側に発生していた。心の痛みだ。突き刺さり、沁み込んでくる。得体の知れないものが。それが、怖い。
「苦しいでしょ」
おれは、声が出せなかったので、目だけで肯定の意を訴える。
「私も、あなたと同じ苦しみを味わっているのよ。ひとりだと寂しいの。あなたがいないと息苦しいのよ。孤独がどれだけ辛いか、あなたもわかるでしょ」
ママの手が、おれの首から離れる。ごほごほと何度も咳が出る。喉に蔓延った毒を吐き出そうとして。じんとした痺れが、喉元に根強く巣食う。
首を庇いながら上半身を起き上がらせ、ママの下卑た笑顔を上目に睨む。
その瞬間、ママの目が、くっと開いた。かと思うと、すぐに苛立ちや怒りの念を滲ませた視線をおれに向けた。
おれが一瞬でも抵抗しようとする意志を顔に表したことが気に入らなかったらしい。
ママは、おれを精神的に屈服させる手に走った。
藍色の小さなペンダントを拾い上げる。ママにはたかれた時、落としてしまったものだ。少し前、少女にもらった大切なものだ。おれをこの世界に留めておくための――最後の砦だ。
ママは、ペンダントを床に落とし、踏みつける。
短い悲鳴を上げて、ママが飛び上がった。高価なものだ。簡単には壊れないのだろう。ペンダントの破壊を一度でできなかった屈辱と、足の裏の痛みをおれのせいにしているかのような目つきで、ママはおれを一瞥すると、それならばと、今度はペンダントを投げ壁に叩きつけ始めた。
この世界に対するあらゆる憎しみを体から解き放つが如く、奇声をあげながら、大仰な動作でペンダントをあちこちの壁に向けて投げ続ける。そのうち、かちり、かちりとペンダントの破片らしきものが辺りに散らばりだした。
――やめて。
声が出ない。
――もうやめて、ママ。
はっきりと、口に出して言えない。
――これ以上、おれの世界を壊さないで。
――おれから幸せを奪わないで。
そう言いたかったのだけれど、うまく声が出せなかった。
痕が残るほど喉を締め付けられ、痛めていたからではない。ここで発声することの危うさが、おれの体には、長い年月をかけて、いやというほど沁みついていたからだ。
壊れたママに逆らうとどうなるのか。抵抗するとどうなるのか。おれの心が、その恐ろしさを知っていたから、身体を動かすことができなかった。声を出すことができなかった。
――でも、ある音が聞こえた。
寝室の闇を裂くような、鋭い音。
何かがひび割れ、砕けて、飛び散る音が、おれの耳元で、した。
もっと言うと、おれの中で、した。
おれの中にある何かが、パリン、と壊れた。
――――
深く眠っていたらしい。
気づいたら、夜が明けていた。
柔らかい光が音もなく静かに、室内に入ってくる。頼んでもいないのに、おれの視界を広げてくれる。
まず気がついたのは、おれの手にナイフが握られているという違和感だった。それは、本来であれば、キッチンにあるはずの果物ナイフだ。
料理を手伝うことがあるから知っている。これは危ないものだと。指を傷つけてしまったこともある。
そんなものを持って、寝ていたのかと驚く。
続いて見えたのは、横たわるママの姿だった。
布団も敷いていない床に、ごろんと腐った野菜のようにだらしなく倒れている。力尽きたみたいに。
ママは服を着ておらず、こちらに向けている背中は、赤黒く濡れていた。
血だ。深く切り裂かれた痕——絶命していることが一目でわかる酷い様相。
異臭。吐き気が込み上げてくる。
手にしたナイフは、悪意の色に染まっていた。
その光景を目撃して、ここで何が起きたのか、自分が何をしてしまったのかを理解した途端、おれの周囲にあるものが、すべて消え去った。
家具も床も天井も、布団もナイフもママの死体も、何もかもが光の粉のように小さくなって空中に溶け、辺りは一面の白に包まれる。
そこは、四方を白い壁に囲われた、狭い部屋の中だった。
おれは、椅子に座っている。
脚が太くて背もたれも大きい、高価な装飾がなされたバロック調の立派な椅子だった。
立ち上がろうとするが、できない。
座っているというより、縛り付けられているのに近い。
正面に人影が現れる。
おれと同じ容姿をした、少年がいた。真剣な面持ちで、おれを見ている。
「だれ……?」
本当は口にせずとも、わかっていたが、おれは訊ねる。
——俺は、お前の中の壊れなかった部分だ。
「壊れなかった部分」
少年は頷く。
——悪の部分だ。誰の心にもある。お前の心にもだ。そして、お前の心は壊れてしまったが、俺だけが生き残ってしまった。
おれはもう一度、立ち上がろうとする。しかし、できない。体が椅子と同化してしまったかのように重たい。
「……きみが生き残ると、どうなるの」
おれは訊ねる。
——おそろしいことになる。何せ、人間の悪の結晶だからな、俺は。このままだと、どうなっちまうか、俺にもわからない。
「じゃあ、おれは、どうすれば……」
目を閉じ、項垂れる。
体の感覚が、なくなりつつあった。感情さえも、おれの中から消え失せているようだった。
——ママを殺してしまった。
それについて、おれは何も感じていなかった。
何も感じることができなかった。
悲しいと思うことさえできない。
悔やむことさえできない。ただ、事実を見ていることしかできなかった。
——受け入れるしかないだろ。
少年の声に、おれは顔を上げる。
——受け入れるしかない。終わったことだ。お前は、大好きな母親に毎夜殺されかけ、それでも何もできなかった。挙句、大切なものまで奪われそうになり、壊れてしまった。その結果が、これだ。自分の守りたかった世界を殺した者を、お前は自分の手で殺した。復讐を果たした。
「でも、やりたくてやったわけじゃ……」
——あの子のおかげだよ。
少年が差し出した手に、ペンダントが握られていた。
あの少女からもらった、大切なものだ。
——あの子に、耐えなくていいって、そう言ってもらえただろ。お前はいつか、こうなってしまう運命だったんだ。
「いつか、こうなる……」
——だから、認めるしかない。この事実をな。だが、お前には、それがすぐにはできないだろう。そこで、ひとつ提案があるんだ。
「提案……?」
縋り付くような眼差しを、向ける。すると、少年は囁くような声で、言った。
——俺が代わってやる。
「代わる?」
——お前の体をいただくってことだ。まあ、心配なのはわかるが、このままだと、お前は母親を殺してしまったという自責の念にすべてを支配されたまま廃人のように生きていくしかなくなってしまうぞ。それは、死ぬことよりも辛いだろう。でも、自殺なんてできやしない。そんな気力さえ、お前には残っていないんだからな。
「きみが、おれの代わりに……」
少年は、ああ、と頷き、背を向ける。
――お前の母親を殺したのは、別のやつだということにする。人間てのは、思い込みだけで、見えている世界をまるっと変えてしまう生き物なんだ。自分の心を――世界を守るために、何もかもを都合よくとらえてしまう。記憶も段々と曖昧になっていくからな。俺だって、そのうち、この真実も見失うだろう。母親を手にかけてしまったという、酷な真実をもな。
「でも、おれは、それを受け入れなければならない」
——そうだ。ただ、ひとつだけ問題がある。俺はここを出て行くと、何をしでかすか、わからなくなってしまう。こうして、ここでお前と話した記憶さえ段々と薄れていく。だから、お前が止めてくれないか。もちろん、十分に落ち着いた時でいい。それまでこの部屋で、静かに暮らしていてくれ。そして、母親を殺してしまったという真実を、受け入れる覚悟ができた時でいい。俺をあの世界から連れ戻してくれ。
「……おれの代わりに生きてくれるのか」
少年は返事もせず、片手をさっと上げると、白い世界の向こう側へと消えてゆく。
——じゃあ、行ってくる。
そうして、おれは、この真っ白な世界の中にひとりきりとなった。
ぼんやりと、何を見るでもなく正面の一点を見つめる。
どこもかしこも白、白、白。
何もない空間。音もない。気配もない。生きている感覚さえ、ない。
まさかここが、死んだ人間が導かれる世界だとでもいうのか。そんなばかな。おれは幸せを感じてはいないぞ。
椅子に座ったまま、背中を曲げる。顔を両手で覆い、視界を黒で覆った。
昨晩の暗闇を思い出す。
ママの怒りを思い出す。おれの悲しみを思い出す。
心が壊れてしまった、あの音がした。
おれの世界は、何もかもが一晩のうちに変わってしまった。もう取り戻すこともできないものとなってしまった。
そういえば、あの少女と、今晩、月を見る約束をしていたっけ。
彼女は何を思うだろうか。
待ち合わせの場所に現れないおれを、心配するだろうか。
家に訪れて、おれの体を使うと言っていたあの少年と鉢合わせるだろうか。
ママの死を知って、何を思うだろうか。
部屋中に砕け散ったペンダントを見て、何を思うだろうか。
壊れてしまったおれを見て、何を思うだろうか。
——わからない。
ここから出る方法もわからないのだから、もう、おれには関係のないことなのかもしれない。
少女のことも、忘れるべきなのだろう。
——けど、せめて。
せめて、今夜の月だけは、あの子と二人で、特別な時の流れを感じながら、見たかったな。そう思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます