盲信者 4
裏口の外に落ちていたナイフを拾おうとして、何者かに腕を掴まれたので咄嗟にマリナはそれを振り解くようにして、体を捻った。
そのまま体を回転させる勢いに任せ、ジェイから借りていたコートを滑るように脱ぎ捨てると、その何者かにむかって後ろ回し蹴りを浴びせた。
蹴りは腹部に綺麗に命中したらしく、背の方から叩きつけられるようにして、何者かは裏口の外——聖堂側の森の闇へと消えていった。
裏口に、誰かがいた。
おそらく、ジェイを殺した犯人だろう。追いかけて、捕まえるべきだ。
しかし、夜の森に入るのには勇気が必要だった。夜の森は危険だ。
凶暴な獣たちが襲い掛かってくるから、夜は森に近づくな。
ジェイの声が、頭の中に響く。
獣が恐い、というわけではない。もちろん、夜の森の暗闇もだ。それよりも、ジェイからの言いつけを破ることになってしまうのが何よりいやだった。
ジェイには、命を救われた。今もこうして平穏な世界で生きていられるのもすべて彼のおかげだということを、マリナは知っていた。思い込みの激しい性格であるぶん、常人よりも、はるかにそう信じていた。
言いつけを破ってしまった瞬間、心の奥底にある——もっと言うと、大袈裟な話、魂を支えている柱のようなものがぽっきりと折れてしまうんじゃないか、とそんな気がしていた。だから、裏口に潜んでいた人物を追って森の中へ進むことには躊躇いがあった。ここで一歩踏み出すと、そうしてしまうと、ジェイが自分の中から完全に消えていなくなり、もう二度と会えなくなるのではないか。そうマリナは思った。
「あなた、何者ですか」
声が聞こえた。森の方からだ。先ほど蹴り飛ばした人物の声だろうか。確かに、息を乱しながら、苦しげに発声しているふうではあった。
声は、少年のものだった。取り繕ったような気色の悪いあどけなさが滲んでいる。
姿が見えたわけではない。どんな人物なのかは確かめてみなければわからないが、そうやって無垢な少年を演じているような甘えた声音からも、ろくな人間ではないことがわかる。人殺しをしておいて、その態度はなんなのだ。
マリナは、すうと息を吸い、闇に向かって慎重に吐き出した。
「ジェイの身内です。そういうあなたは?」
問いかけると、少し間があって、
「旅をしている者です。王都には宿を借りようと思い立ち寄ったわけですが、ここに迷い込んでしまって」
「そんなつまらない言い訳に、ましてや身内を殺された人間が素直に同情すると思いますか」
「……ええ。やはり、そうみたいですね」相手が頷きながら言っている様が浮かんだ。
「失礼。先ほどの旅をしている者というのは嘘です」
「わかっています。あなたは人殺し」
「いえ、ここには本当、特にこれといった理由もなくただの好奇心で来たようなもので……偶然、小屋の中を覗いたら死体を発見してしまったので、驚いて、慌ててしまったんですよ」声は、とても慌てている様子はなく、淡々としていた。はあ、と息を吐き出すような音がした。
「しかし、我々は、どこか思い違いをしているらしい」
「……どういうことですか」
「つまり、その小屋の中にいる彼を殺した犯人が、今、こうして言葉を交わしている相手なのだと互いに思っている。そう、勘違いをしている」
「勘違いではありません」マリナは足元に置かれていたままのナイフを拾い上げ、刃先を森の闇へと向けた。「あなたがジェイを殺した」
「彼は——ジェイと言うんですか。私が彼を殺したわけじゃない。そう言える理由が三つあります」
「では、聞きましょう」
言いつつ、警戒心を解くことはなく、マリナは裏口の扉を閉め、ナイフを構えたまま、声のする方をきっと睨みつけた。
「一つ。彼は射殺されている。だが私はそんな武器を持っていない。見たところ、あなたもそうだ。だいたい、殺された人間の身内だと自ら明かすのもおかしい。その声にも怒りがこもっていた。私からすれば、あなたが殺したわけじゃないのはわかる」
「当たり前でしょう。あなたが殺したのだから」
「それなら、こうして呑気に会話をしているのは変でしょう。いくら視界が悪いからといって、声が聞こえてきたら、ある程度、私がどこにいるのかあなたにはわかる。銃を持っているのであれば、自分の居場所を悟られるような行動は取らない」
「私の油断を誘っているのでは」
「私から声をかけた。あなたにとって私は、人殺しの犯罪者だ。そんな人間の姿は見えずとも声が聞こえてくれば、警戒心が高まるのが普通でしょう。このあと、あなたを襲う気ならば、そんな面倒なことはしない」
「殺人者の手口に詳しいようですね」
声がしん、と止み、一瞬、闇色の世界が静寂に包まれた。
「二つ目は、あなたに見つかるまで、私が裏口に留まっていたことだ。計画的な殺しなら、ことを終えればすぐにその場を去るはずだ。衝動的な殺しならば、大抵の場合……いや、それでも、パニックや錯乱状態になって、すぐにそこから離れるのか」
また、一瞬だけ声が止んだ。
「ただまあ、私は違った。彼が殺されたあとで、ここに来た。だから私は死体を見つけたあと、小屋で何が起きたのかを探ろうとした。裏口の扉を見つけたので、誰か潜んでいるのではと思い、様子を伺っていたんですよ。そこに、あなたが帰ってきた。小屋の中や裏口に犯人と思しき者の姿はなかった。一度、現場を去った犯人が戻ってきたのかと考え、隠れていたわけです」
ナイフを拾おうとした時、死角から掴みかかってきたのも、犯人が戻ってきたと誤認していたから。とでも、言いたいのだろうか。
しかし——
「それはジェイを殺していない理由にはなりません。彼を殺したあとで、私の気配がしたので咄嗟に隠れたのでしょう」
犯人ではないとは言い切れない上に、襲ってきたのも事実だ。蹴り飛ばしてごめんなさいと謝り、仲直りの握手というわけにもいかない。
「彼の様子はどうだった?身につけている依頼にはかなり血が滲んでいたようだったし、床にも大きく広がっていた。殺されて少しばかり経っているのがわかるはずだ」
マリナは一瞬、返事に詰まる。
「殺したあと、あなたは、しばらくここに留まっていたとすれば——」
「何のために?強盗だとでも?小屋の中の死体は動かされていない。争ったような跡もなく綺麗だったはずだ。仮に殺していたとして、居座る理由がない」
その声には、妙に説得力があった。
いや、口から出まかせを言っているに過ぎないのだろうが、口のうまい相手だと思った。
しかし、気が立っているせいか、冷静な思考が続けられなかった。彼の言うことには、なぜかすんなりと納得してしまい、よく考えてみれば、見逃してもらいたいがための戯言を吐いているだけなのだとわかるのだろうが、その穴を見つけることができない。
「そして、三つ目の理由だが——」
がさがさと、前方から茂みを踏みしめる音が、近寄ってきた。
ナイフを持った手を伸ばそうとして、やめる。見覚えのある人物が、暗がりの中に姿を現した。
「俺はこうして、あなたに顔を見せることができる」
西区の酒場辺りの路地裏で見た、少年だった。あの時は住宅街の方へと走っていったはずだ。いつのまに教会跡まで?
突き出した腕を、少年の顔の高さまで上げる。ぎらり、と小屋の中から漏れる光を吸い込んだ危なげな輝きが、刃先に向かって滑った。
「よく出てくることができましたね。あなたからすれば、私が人殺しに見えているのでは」
「俺はあなたが彼を殺したんじゃないと思っている。それはさっき説明した通りに、ね。それに、あなたは男ものの大きなコートを着ていたから」
「それが何か?」
「あなたが帰宅したばかりなのがわかる。つまり、たった今、小屋の中の惨状を目撃して動揺し、裏口に来た。そうでしょ。コートは大きさからして、明らかにあなたのものじゃない。男性用だ。彼から借りた。だから、身内だと言ったことも信じることができる。はじめ、コートは犯行の証拠を隠すためのものかとも思ったけど、ここにはほかに人がいないみたいだし、身内ならそんなことをする必要もない。だから、あなたが犯人じゃないと思った。それに――」
「それに?」
「俺がここに来た時、何者かが小屋の中から飛び出してくるのを見たんだ。おそらく、真犯人だよ。聖堂に行ったみたいだけど」
聖堂へ?なぜそんなことを?
王都の街中に戻るためには、小屋の方にある林道を通るしかない。聖堂からは、王都の街を円形に囲う外壁に阻まれていて、道が繋がっていないのだ。この教会跡に行き来するためには西区の繁華街へと通じる暗い林道を通るしかない。はずだ。つまり、その人物はまだ聖堂にいるということだろうか。
「一つ、相談があるんだけど」
少年は両手を開き、手のひらをこちらに見せるようにして頭の高さまで上げながら言った。ずいぶんと余裕のある表情をしていた。その口調も、いつのまにか、親しげな友人と話しているかのように軽くなっている。
「ナイフを返してはもらえないかな」
「なぜ?」
「これから聖堂に向かおうかと思っている。ただ、俺の予想だと、そこには小屋の中で彼を殺した人物がいるはずなんだ。しかも銃を持ってね。用心に越したことはないでしょ」
「それは今の私も同じです。犯人の可能性があるあなたに、易々と凶器を渡す気にはなりません」
「だからそれは違うって今、説明を——」
と、突然、少年が黙り込んだ。
地面の土を目力だけでこじ開け、その中を覗き込もうとせんばかりに、足元の雑草をじっと見つめていた。
「そうか、その可能性もあったか。なんてことだ。自分で言ったことじゃないか……」
「え?」
「俺が小屋に入った時、彼はすでに殺されたあとで、床には大きな血溜まりがあった。死んでから時間が経っている。調理場には夕食の準備が。彼と少女のだと考えると、客に出す用じゃなかったのか。つまり予期せぬ襲来。その割には争った形跡がない。抵抗はしなかった。あるいはできなかった。正面から撃たれているから、犯人とは向き合っていた。でも抵抗はしていない。撃たれることがあまりにも予想外だったのか、それとも、わかっていたのか。犯人は彼と顔見知りの人物に限られてくる——」
早口でぶつぶつと何かに取り憑かれたかのように、そして小さな声で言葉を発していた彼が、ふと顔を上げた。
「あの聖堂には、何があるんだい」
「あなたが求めるようなものは何も」
「王都のどこに繋がっている?」
「どこにも繋がっていませんよ。街を囲う外壁があるので、侵入は不可能です。もちろん、ぐるりと壁沿いに進み、南区の正門前まで行けば、街に入ることはできますが、道もない複雑な森を通ることになります。特に夜は危険ですが」
「つまり、行き止まり?」
「ええ」
すげなく答える。すると彼は再び、小さく喋り出す。
「だとすれば、だ。どうして、あの男は聖堂に向かったんだ。何かを探してここにきたが、小屋の中に目的のものはなかったとか。それなら彼を殺したのは姿を見られたからか。でも、殺してから多少なりとも時間が経っている。それなのに小屋を漁った形跡がない。ということは——」
彼の目が大きく開いた。
「俺が見たあの人影は、犯人のものじゃない。俺と同じ、小屋の中の惨状を目撃した人物。なのか?じゃあ、真の犯人はどこに。聖堂?それを見たから、追いかけたのか?」
やがて、ぴたりと声が止む。
夜の静けさが、首元にひやりと触れた。
彼と目があった。
「ひとつ聞きたい」
「なんですか」
「その箱の中にある死体はなんだ?」
「え」
マリナが、少年の指した箱にちらり視線を落とした時、視界の端で彼の姿が横に振れた。かと思うと、ナイフを持っていた腕に、じんと痛みが走った。
思わず、ナイフを落とす。それを、少年が素早く拾ったのを見た。
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