殺し屋 4
灰色の石が敷き詰められたでこぼこの道を進み、バレットは聖堂を目指す。
辺りは静けさに満たされていて、風がそよぎ、周囲にある木々の枝葉がかさかさと揺れる音だけがしていた。つんと鼻につく夜の匂いもした。
不思議と、心は穏やかだった。しかし、これから自分が何をしようとしているのか、何をしてしまうのか。漠然とした興奮、緊張、恐怖といった、これまで数多くの仕事をこなしてはきたが一度として連れ添ったことのなかった類の感情が、胸の内では渦巻いていた。
十年間、追い求めてきた復讐の相手を見つけたのだ。これが昂らずにいられるはずもない。
依頼にあった護衛対象の男――コトリと思しきその人物は、小屋の中で殺しを犯した。その様子を直接、目にしてはいないものの、聞こえてきたあのセリフ――十年前に父を殺した時にも発していた言葉を、男が言ったことで、バレットは父が殺されたあの夜の場面を想起し、寒気を覚えた。この感覚はコトリに違いない。そう確信できるいやな気分だった。
そして、自らの手柄を主張するかのように、現場には例の銃弾がひとつ置かれているのも見つけた。その銃弾は、コトリが殺しに使用したのとは違う、実弾に似せて作られているオブジェのようなもので、そこに、「殺し屋コトリ」の存在を仄めかす証だった。彼が直接、手をくだした者のもとには、その銃弾が必ず、置かれていた。
コトリが、あの小屋を訪れたことは明らかだった。林道側から裏手に回り込み、中の様子を伺った時、二人の男の声がした。しわがれた声は、殺された男のものだとして、もうひとつの、体を貫通する銃弾のように鋭い衝撃と精神を蝕むほどの確かな熱を持った声は、コトリのものだろう。
小屋の中で殺されていた男は、背丈からして、それまで護衛していた男とは別人であった。何者かが潜んではいまいか、そして、小屋に抜け道はないかと、誰かがが漁ったと外部の人間には悟られない程度に小屋中を見て回ってみたが、特に異常はなかった。つまり、護衛していた男は「殺し屋コトリ」で違いなく、今夜、殺しを実行したのだ。そして、何者かがそのための護衛を依頼してきた。ということである。
聖堂は、ところどころが朽ち、焼け跡もそのままに残っていた。入り口と呼べる入り口はなく、頭上を覆う天井もない。廃屋のようだった。もはや、ただ背の高い柱が立ち並んでいるだけの場所だ。瓦礫の中から生まれたような酷な佇まいで、その身は崩れおちていようとも、神の加護を信じているとばかりに誇らしげに、そこに屍のように無言で存在していた。
聖堂内に、彼はいた。
コトリだ。最奥にある祭壇の前で、こちらに背を向けたまま立ち尽くしている。
天からかすかに届く薄い月光しか視界の頼りがないので確かではないのだが、その死神を宿したようなおどろおどろしい雰囲気には、思わず、足を止めてしまうほどだった。
黒いコートを纏い、頭には丸い形をしたニットの帽子、その巨躯も相まって全体的なシルエット像は、まるで闇に潜む悪魔の人形に見えた。
「十年前、私は罪を犯した」
背を向けたまま、彼は呟くように言った。重苦しい空気が、ずんと辺りに漂う。
バレットは、不意を突かれたというのもあったが、何も返すことはせず、彼の言葉の続きを静かに待った。
「それは、この世界に、私たち人間という生き物が存在するうえでもっとも恐ろしい罪だ。更生の余地はなく、決して許されるものではない。何だかわかるか」
問いかけに、バレットはすぐに口を開く。
「殺し、か?」
「大したことではない」
そうか、と父の姿を浮かべながら、バレットは言う。
「私たち人間には、一度失うと、二度と手に入らないものがある。ひとつはその命。そして、もう一つは——信頼だ」彼は、息を整えるようにして、しみじみと言った。
「誰かを裏切った、と?」
「大切な人の心を、私は踏みにじってしまった。最後に見た彼女の顔は、哀しみの雫に濡れていた。いつかはこうなるのだと、はじめからわかっていたのに、許されるはずもない安らぎの中に、身の丈に合わない平穏な世界の中に、自分の居場所を求めてしまった己の不甲斐なさをひどく後悔した」
心の底から悔やしそうに語る彼の声音には、ずっしりとした確かな重圧があった。
「同情するつもりはないし、あんたの心を汲み取ってやる気もない。言いたいことがあるなら、はっきりと言え」と、バレットは返す。あんたの気など知ったことか。
「ああ」と、彼が短くこぼすと、少し間があって、
「君は、長い間、私を探していたそうだな」
気づかれていた。らしい。月日を経るごとに肥えていった強い復讐心を胸に、ここへやってきたということに。
「……十年前だ。あんたに父を殺されたあの夜から、俺はこの時を求めていた」
言いながら、バレットは懐に手を入れる。
「私の口から、こんな言葉を聞くと腹立たしいかもしれないが、悪かったと思っている。君の父親を手にかけたことはもちろん、こうやって長いこと、君の前に姿を現さなかったことを、私は本当に申し訳ないと思っている」
彼がゆっくりと振り返る。
バレットは咄嗟に銃口を彼に向け、構えた。
黒い衣装と聖堂の夜闇の中から、仄白い死人のような肌が浮かび上がる。落ち窪んだ目がじいっとこちらを見つめていた。それと、視線が合う。神経を少しずつ削られているような窮屈な気分になった。
顔の中心部をまっすぐにのびる太い鼻、角ばった顎、ごつごつとした輪郭、深く刻まれたしわの目立つ不気味な顔面が、バレットをとらえていた。
横一文字にぎゅっと結ばれた口は、その生涯で一度として笑みを作ったことのないのだろうと思わせるほどに、無愛想という言葉がよく似合っていた。目の前にいる父の敵は、およそ人間のものとは思えないような、どこか化け物じみた、そんな奇妙な様相をしていると、そう感じた。
そうか。人を殺し続けていくと、そしてそれに抵抗がなくなってしまうと、こうなるのか。バレットは思った。そこに立っているのは、ある意味での自分だ。ここに至るまでとは違う道を歩んだ、バレットの幻影にすぎない。あるいは、これから向かう道の先に、待ち受けている姿なのだ、と。
「私にはまだ、やるべきことがある」
コトリが、口を開く。
「だから、なんだ」
「少し待ってほしい。いや、だが安心してくれ。それは君には関係のないことで、事が済み次第、再び君の前に姿を現すと約束しよう。大丈夫だ。今度は逃げたりはしない」
「俺を殺すための算段を整えてくるとでも言いたいのか」
「そうじゃない。君とて、様々な人間と対峙してきたのだから、わかるだろう。私に敵意がないことくらい」
バレットは言葉に詰まる。コトリの言ったことが、正しかったからだ。
仕事柄、様々な人間をこの目で見てきた。そして、街中で腐って生きているだけのつまらない人間をはじめ、それこそ裏社会に通ずる人間までをも、手にかけてきた。
ただ、誰であれ、死の間際、少なからず銃口を向けられた時には、敵意をむき出しにすることを、バレットは知っていた。それは、バレットが殺し屋であることや、自分が狙われていることに気づいた者に限らず、すべての人間が、己の死を直感し、絶望の一色に体が染め上げられた時、生き物としての本能とでもいわんばかりの感情を解き放つのだということを。
そして、そういった生き物としての強い思いというものは、他の生き物にも伝わりやすくできている。つまり、バレットは日々、感じ取っていた。殺し屋という仕事を通して、命の危機に瀕した人間は敵意を、それはほとんど無意識的に放出するのだということを。
――しかし。
しかし、今、目の前にいる男は、彼らとは違った。
父の敵だ、復讐だと、明確な殺意を携え銃口を自分に向けている相手に対して、彼は、ずいぶんと落ち着き払った態度を見せていた。
この銃から弾が撃ち出されることは決してないと信じ切っているのか。いや、どちらかといえば、ここで撃たれてしまったとしても構わないと半ば諦めているように思えた。
小屋の中にいた男を殺したのは、目の前にいる男で間違いない。小屋の中は、簡単にだが、あちこちと探ってみたし、ここまでの道中に何も落ちてはいなかったので、彼が凶器である銃を、まだ持っているのはわかっている。
だが、どうしてそれを取り出し構えたり、その素振りさえしないのだろうか。バレットは疑問に思った。隙を狙っているのだろうか。しかし、それならば、わざわざ聖堂の最奥、入り口辺りからももっとも見えやすい祭壇の前に、わかりやすく立っていたのはおかしいことではないか。
背後の接近に気づいていたのならば、闇に隠れて待ち伏せていればいいものの、彼にとっては、ここで何か話をするつもりもなかったのだろうから、その考えが、まるでわからなかった。
それでも、はっきりとわかることがあった。
こうしてしばらくの間、銃を構え、怪しげな動きを見せれば即座に撃てるようにと、彼の顔を睨み続けているのだが、彼の言った通り、そこに、敵意は存在していなかった。厳しい目元には慈悲を訴える優しさが、いつのまにか宿っていた。ように見えた。
「何が目的だ」
バレットは、きっとコトリを睨みつけたまま、訊ねた。
「平穏な日々だ」
彼の小さく開いた口から、短い音が漏れる。
「俺たちのような人間に、そんな日常が訪れるはずはないだろう」
俺の平穏はお前に奪われたんだぞ、と叫びたい衝動に駆られたが、ぐっと堪える。
「私のことではない」
「では、誰が?」
「君には関係のないことだ」と、コトリは言い切り、「だが、やはり私は、君のためにも破滅の道を選ぶべきなのだと思っている。自分の幸せなど、もうどうでもいいんだ。こんなことで、これまでのすべてが清算されるとも思えないが、報いは受けるべきだ。君の中でたぎる復讐の情熱に焼かれて死ぬべきなのだよ、私は」と、続けた。
「なぜ、そんなことを俺に?」
「同情だよ」
「同情?」
「君には、私と同じ道を歩んでほしくはないんだ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だ……また、後で話をしよう。その時になれば、君の知りたいことになんでも答えてあげようじゃないか。とにかく今は、私のやるべきことを優先させてくれないか」と、コトリは、バレットに背を向け、再び祭壇の方に直った。
バレットは銃を握った手を下ろし、その背中を静かに見つめた。
わからない。やつが何を考えているのか。そして何を望んでいるのか。
バレットは、意識の奥底に沈み込んでいくように、足下に視線を落とす。覚醒しながら夢を見ているような、おかしな感覚に襲われた。地に足をつけ、ちゃんと歩いているのに浮遊感が体を包んでいるような、そんな薄気味悪さがあった。
——なぜ、そう、感じてしまったのか。
しかし、バレットは、いざ邂逅を果たしたコトリを前にし、そこに、自分の影を見た。
己を重ねてしまったのだ。そして皮肉にも、この世界でもっとも嫌悪する男の姿に、バレットが見出した己の姿は、その形は生まれた時から同一のものだとばかりに、ぴたりと当て嵌まっていた。
だから、というのもあるのだろう。この男にとっての理解者は、他でもない自分なのだ、と、そう感じてしまったのである。よりにもよって父の敵であるこの男に。憎むべき相手に、たとえ一瞬でも、心を許し、寄り添おうとしてしまったことに吐き気がした。
それは、業の深いことのような気がした。神が悪魔と契約を交わすかのような、自身の存在そのものを否定しかねない、拭い難き大罪の予感があった。
「どうして、ここに来たんだ」
ふと訊ねると、コトリは横目で視線をくれた。
「こことは、聖堂のことか」
「ああ」
コトリは、一瞬、迷いのようなものを顔に表して見せたが、すぐに顔を逸らした。
「……少し、確かめておきたいことがあった」
「何をだ」
「ここに、あると聞いたんだ」
「何が」
「——聖剣だ」
聖剣。聞いたことがある。
確か、持ち主の願いを叶えると云われている代物だ。
しかし、あれは、ただのおとぎ話じゃなかっただろうか。
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