裏切り者 2
十年ぶりに再会した彼女は、見違えるほどに美しかった。
かつて王立図書館で司書として勤めていたセラには、少女らしい可愛らしさがあったが、今、私の前に立つ彼女は大人の魅力に溢れていた。
装いはさりげないもので、田舎娘を連想させる見窄らしささえあるが、彼女自身の心の清楚さのようなものが、それに劣らず溢れている。
こんな薄暗い世界にも光は確かに存在するのだと希望を抱かせる、夜空に浮かぶ月のような、堂々たる頼もしさに似ている。
女性というものは、十年でこれほど変わるのかと、私は彼女と久しく顔を合わせて、目を見張った。
「お久しぶりです」
セラは律儀にも、お辞儀をする。
「十年前とはまるで別人だ」私は礼儀に応えるつもりで言う。
「ありがとうございます」心からの喜びとばかりに、彼女は穏やかに微笑んだ。
「今日は何年かに一度と聞く月が浮かぶ夜のようだが」
「ええ、ほんと。見つめていると吸い込まれてしまいそうなくらいに、優しく包み込んでくれそうな光で、世界を照らしてくれています」
セラはうっとりとした表情で、天井を見上げる。
しかし、私たちは屋内にいる。そこは、四方を厚い壁に囲まれた狭い空間で、窓はなく、出入り口も私の背後にある扉の一つしかない。狭い部屋だった。家具は、椅子と机とベッドのみだ。音が外に漏れないつくりのようで、異様な圧迫感がある。
どれだけ望んだところで、この部屋から月を見ることはできない。
「話があるということだが」
私は切り出す。今夜、理由もわからないままに、彼女に呼び出されたのだ。招待状のような手紙が家に届き、そこに彼女の名が記されていることには訝しんだが、はっきりとした目的も何もないまま、私をここに導くような内容だけが書かれていた。
「そうですね。何から話せばいいか」セラは私の顔をじっと見て、結んだ口の端に力を入れる。「あなたとお話ししたいことはいろいろとあって……お礼だって言いたいし。でも、その、時間がなくて」
「なんの時間だ?」私は訊ねる。
「いえ、こちらのことです。ああ、あなたに無関係というわけでもないのですが……」彼女は、ばつが悪そうに眉を寄せて笑う。「でも、まずは、お礼を言わせてください」
「なんのことだ」
「聖剣のことです」
ああ、なるほど。彼女の言いたいことが、私にはわかった。
そうだ、十年前ほど前のことだ。
私が裏社会で暗躍するグループに雇われ、任務を与えられた時のことを言っているのだろう。
あの任務で、私はグループから期待されていた通り、敵対する秘密結社の活動拠点に潜入し、パッケージ、すなわち聖剣の奪取に成功した。
しかし、情報がどこかから漏れていたのか、あるいは、グループが初めから私を見切り、始末するつもりだったのかはわからないが、秘密結社の連中は、私の動向を把握していたようで、街中の至る場所で待ち伏せをされていた。
迫りくる彼らを尽く退け、私はグループが取り決めた合流地点を目指した。そこで、パッケージの受け渡しをし、私の任務は終わる予定だった。
パッケージの中身を把握していたこと、聖剣の力が導く未来を想像したこと、そして、セラの顔が頭をよぎったことで、私はグループの意志に背く判断を下した。端的に言うと、グループを裏切り、任務を失敗させた。この時、すでに、聖剣を悪の手から守るのだと、私は決意を固めていた。
「感謝しているんです。組織から聖剣を盗んだ男が、この王都から姿を消したと、そう耳にした時は、ああ、きっと図書館で出会ったあの人が、やってくれたんだと、すぐに思いました。聞いた話だと、あなたはある裏社会グループに雇われていて、敵対組織から聖剣を奪うようにと任務を与えられていたそうですね」セラは目を細めて、微笑む。「……これは、自惚れと捉えられるかもしれませんが、ひょっとして、いえ、きっと、あなたは私のために、任務を放棄して、聖剣を持ち去ってくれたのではないですか?」
「その通りだ」私は、素直に認める。「元より、あのグループとは上手くいく予感はなかった。どのみち、いつか離脱するつもりではあったよ」
「そうですか」
ふふ、とセラは口元に手を当て、笑う。十年前と同じだ。幼さの残る、愛らしい仕草だった。
「本題に入りたい」
私は、セラが、何か思い悩んでいるふうなのを察して、先を促す。きっと、言いたいことは、山ほどあるのだが、それらを明かすのはとても勇気のいることなのだろう。
彼女は強い心を持った人間だ。それは、あの日、図書館で初めて会った時にも感じた。
しかし、同時に、自己犠牲のような信念を持っているふうにも見える。それは、不器用な優しさとも言うのだろうか。私が聖剣を持ち去ったことは、結果的に彼女の立場を救ったのかもしれないが、それを、私のおかげだと、彼女は素直に言ってくれた。
けれど、と私は思う。
本当は頼みたかったはずだ。
聖なる力の血と聖遺物の呪縛から解き放ってほしい、と。
だが、誰かを自分の問題に巻き込むわけにはいかないと、彼女は思ったのだろう。もし私が、滞りなく任務を遂行し、聖剣を彼らの手に渡していたら、彼女の未来はどうなっていたのだろう。破滅は免れなかったはずだ。想像しただけで、ゾッとする。
「私を呼び出した理由はなんだ」
察しがついていないでも、なかった。
だから、万全の準備をしてきた。
つまり、いつでも、殺し屋としての私を、十年ぶりに夜の世界から引き戻すための準備をだ。
「その前に一つ。私は、あなたの正体を、知ってしまいました」
セラは、申し訳なさそうに言う。
そうか、ならばと私は思う。
「幻滅したか」
「いえ、そうではなくて……その、お仕事で人殺しをされていたのだというのが、どうも信じられなくて」
「君には、似つかわしくない世界だ」
私はかぶりを振る。これ以上、彼女が踏み込んでくることは勧めたくなかった。
「お願いがあるのです」
「それは構わないが、一応、言っておくと、私はすでに殺し屋稼業から足を洗っている」
「それも、知っています」セラは、私の目をじっくりと見た。「今や依頼はすっかり受け付けず、辺境の地にある小さな村で、三人家族で幸せに暮らしているのだとか」
「ずいぶんと詳しいようだな」
「組織の人たちからお聞きしました」
一瞬、沈黙の空気が流れる。
「……彼らは、なぜ知っているんだ」
「それは、今日、あなたがここに来たことと関係していると思います」
セラは苦しげに顔を歪める。
「順番にお話しします。まず、あなたが聖剣を持ち去ってくれたあとのことです。ある秘密結社が裏社会から姿を消しました。どういった経緯があったのかは定かではありません。しかし、聖剣という虚構の力が結びつけていた信仰や絆のような力が失われてしまったのだと思います。彼らは組織自体を解散させたのか、違った形で組み変わったのか、はたまた、長い間、姿を隠し、力を蓄えているのか。ここ最近、動きはまったく聞きませんでした。私の聖なる力の血を求めて、頻繁に家を訪ねてきていた人たちも、やがて来なくなりました」
セラの次世代に宿るとされている聖なる力を求めていた連中は、秘密結社側の人間だったのか。と、私は想像する。
その後の彼女の生活に多少なりとも良い変化があったのだと思うと、私の行動にも意味があったのだと実感できる。
「けれど反対に、彼らと敵対していたグループが動き出しました。この街の商会の会長と手を組み、聖剣を再び手に入れようと企てたのです」
「なに……?」
私の頭の中に、妻と息子の顔がよぎる。
私のことをよく知る妻と、私のことを何も知らない息子。
二人と過ごした時間が、鮮明な景色となって私の目の前を一気に駆け抜ける。
これまでの私を異界へと追いやってくれる、明るい光に満ちた思い出だ。夜の世界を生きていた私には眩しすぎたその日々は、私の人生の中でわずかに許された至福の時でもあった。
しかし、そこには聖剣があった。
光の世界の中に落ちる小さな影。
グループを裏切り、聖剣を手にした時から、私の運命は定められてしまったのだと覚悟していた。
いつか、こんな日が来るのではないかと予感はしていた。
だが、いざ、その時が訪れたとなると、首元にナイフを突きつけられたような緊張感が体を走る。気味が悪い。防寒具も纏わず夜風にさらされ、寒々とした空気に包まれている気分だ。
「彼らは、あなたの居場所を突き止めたそうです。そして、グループの何人かと、街中の不良の方々やホームレスの方々を雇い、聖剣を奪ってくるようにと命令しました」
「私をここに呼び出したのは、聖剣から引き離すためか」私は、落ち着いた声で訊ねた。なるべく、泰然とした様子を装って。
「あなたを誘い出すためです」
「君が呼び出したのではないのか」
「彼らは、私の名前を利用したようです。あなたをここに向かわせて、聖剣を手に入れる時間を稼ぐために。どういうわけか、十年前、あなたが私の元を訪れて聖剣にまつわる伝説を聞いたことを、彼らは知っていたみたいです。彼らは、あなたの住む村に聖剣があると確信しているんだと思います」
私は、返り血のついた上着を脱ぎ捨てる。
内心、すぐにでも、ここから飛び出したいほどだった。古い友人と会うと言って出掛けてきたのだが、妻と息子の安否を、今すぐにでも確認したかった。
だが、冷静な判断をする思考を失うことだけは避けるのだと、自分に言い聞かせ、昂る感情を落ち着かせた。
背後にある扉に近づき、部屋の外に人の気配がないかを確認して、ゆっくりと開く。銃を握った右手を肩の高さまで上げる。
廊下に倒れている、いくつかの死体を見下ろす。
セラをこの部屋に監禁し、見張っていた連中だ。ここにたどり着くまでに、私が全員を倒し、その場に放置していた。まだ息がある者もいるようだが、大事をとって殺しておくかと、私はかつての、この街で仕事をしていた頃の私を精神内に宿し、考えを巡らせた。
セラを守り、聖剣を守り、家族を守るためには、どうすればいいのだ。
私は、誰を殺せばいいのだ。
あと何人を殺せばいいのだ。
体が瘴気のようなものに纏われていくのを感じる。
懐かしい感覚だ。それは、家族との幸せな暮らしに背を向けていた、夜の世界を生きている私に戻ったような感覚。
今の私は、かつての、殺し屋としての私を取り戻しているのだろうか。
「待ってください」
私が廊下に足を踏み出そうとした時、後ろから、セラの声が聞こえた。
「お願いがあるのです」
「安心しろ。聖剣は守る」
「いえ、そうではなくて……」
セラの声が、暗闇の底に深く沈み込んだようになったのを感じて、私は振り返る。
「あなたに……その、殺していただきたい人物が、いるのです……」セラは、長年、喉の奥につっかえていたものを、ようやく吐き出したかのように苦しげに言った。
「今の君から、依頼を受けることはできない。それに殺しの依頼なら、私じゃなくてもいいだろう。私はもう、殺し屋ではないのだから——」
「これを」
私はセラから、小さな指輪を受け取る。暗い銀色のリングに赤黒い宝石が付いている。
「これは?」
「私の血から作った、お守りのようなものです。ひいおばあちゃんの部屋にあった分厚い書物の中に、その作り方が記してありました。私には聖なる力はありませんが、その血から、聖なる力に対抗するためのお守りを作ることができるようなのです」
「それを、なぜ私に……?」
「わかりませんが、何か予感のようなものがあるんです」
「未来が啓けたような予感か」私は、十年前に図書館で、彼女と交わした言葉を思い出す。
「はい。あなたがいつか、聖なる力に呑まれてしまわないように——しかし、古い書物のようですし、聖なる力は、当然のことながら未だ発現はしていません。お守りの効果に保証はなく、おまじない程度のものでしかないと思うのですが……」
「ありがたく受け取っておく」
私はセラからもらったお守りを、コートの内にしまう。
「……その、お守りの効果を発揮するためには、一つ、必要なことがあるんです」
「なんだ」
「私が、死ぬことです」
しんと、部屋が静まり返る。いや、この部屋には私とセラの二人しかいない。二人ともが黙り込んだことで、元々あった部屋中の静けさが際立っただけだった。
壁掛けの灯りが、私たちの顔を明るく照らしている。おかげで互いの表情ははっきりと確認できる。が、それが、彼女の内面なのか仮面なのかはわからなかった。
ふと、私たちの間には、巨大な壁ができている気がした。
相手の姿は確認できるのに、言葉を交わすこともできるのに、私たちは決して、一緒にはいられない。両者ともが、この世界で生きてはいられないとばかりに、その壁は、私たちの見ている世界を別つ象徴のようなものに思えた。
「……あなたに、すべてを託します」
セラが、小さな声で言う。その声は、泣いているようではあるが、しっかりとした芯があった。
私は、何も応えない。
「もちろん、私のことはいつまでも引きずらないでくださいね。ただ、あなたが聖剣のために、私たち一族の問題のために、そして何より、私のために行動してくれたから、私も、覚悟を決めようと思ったまでです」
そこで、セラは一度、息を大きく吸い込む。
「あなたに、殺していただきたい人物というのは、私のことなんです」
セラは、曇りなき目で言った。
初めて会った時のような、純粋か少女らしさが、彼女の瞳に宿っていた。
それは、懐かしい再会の一場面だった。
十年ほど前に、図書館で初めて出会ったあの時の彼女は、あどけない少女のようで、私は、ただの殺し屋だった。
今、再び、私たちは出会った。
聖剣が、私たちを結びつけたのだ。
私は、図書館での彼女とのやり取りを思い出す。
「……初めて、あなたと出会った時、あなたの周りにあった魂のようなものたちの声は、とても安らかでした。それは、あなたがとても優しい人間だったからです。言葉だけだと伝わりにくいですが、それは性格的な優しさとは違い、心のあり方についての優しさなんだと思います」
「私に殺されるなら、本望とでも?」私は、ようやく口を開く。
「はい」
「受け取っておいてなんだが、私は、このお守りとやらの力がなくても十分だ」
私はセラの提案を拒絶する。それよりも私は、彼女が死のうとしていることが受け入れられない。
「いいえ、あなたにそれは必要です」決めつけるような口調で、彼女は言う。「私のこういった予感は、よく当たるんです。あなたと聖剣のお話をした時も、そうでした。この人は、何か私にとって、素晴らしい未来を見せてくれるんだという予感がありました。だから、聖なる力と私の一族の血について、お話したのです。そして、それは訪れました」
そう言って、セラは柔らかく微笑んだ。
その顔は少女らしさを忘れて、彼女の大人としての穏やかさを表していた。
「……娘には、このまま、何も知らずに生きてほしいんです。聖なる力のことや、一族の血のこと、聖剣のこと、そして、私のことも……」
彼女の頬を、涙が伝う。
「そうか、娘が……」私は、胸のあたりがふわっと温かくなるのを感じる。
「あなたのおかげですよ」少女は、微笑む。「あなたが聖剣を持ち去ってくれたから、私は生きる希望ができました。そしてあの子を初めて抱いた時、私は、この魂が震えるほどの幸福を味わいました。ああ、私はこのために今まで生きてきたんだと、そう思いました。もう未練というものは、まったくありません。安らかな気持ちで、いつでも、逝くことができます」
わかる気がするよ。と、言いかけて、やめる。
彼女に同情しないでもなかったが、私の場合は考え方が少しだけ違った。
せっかく手にした家族のつながりが途切れてしまうことは、私には怖かった。
家族の幸せが奪われてしまうことが、私は気に入らないのだ。家族とは、この世界でもっとも偉大なつながりであるのだから。
「言い残すことは——って、ふふ、私には、訊ねてくれないんですか?」
セラは首を傾け、可愛らしく言う。
「仕事の時だけだ」
それに私は、彼女を殺そうとなんて決して思わない。
彼女に死んでほしいだなんて、思うはずがない。
「それは残念です。けど、最期に、あなたの優しい一面が見れたので、ちょっと得した気分です」
セラは、私に背を向ける。
泣いている顔を、見られたくなかったのかもしれない。
彼女の後ろ姿は、非力な少女ではなく、何か世界のために偉大なことを成し遂げる聖人のような貫禄があった。曇天を裂いて降り注ぐ日の光のような神々しさがあった。消えゆく命特有の、儚げな美しさがあった。
セラは、もう私がどうしようが関係なく、生きることを諦めたのだ。そう、私は思った。
もしかすると、彼女は、この世界にとっくに失望していて、命を絶つための理由が欲しかったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎったが、すぐに振り払う。彼女は立派に、未来に希望を託して、消える選択をしたのだと、私は思い直すことにした。彼女の気持ちを、決めつけるべきではない。
私に、そんな彼女を留める資格があるのだろうか。
決意を固めた人間を、邪魔していいとは思えない。私自身、そうであったから、よくわかる。
元はといえば、十年前、私が聖剣を持ち去ったことが原因なのだからと、どうしても考えてしまう。
それは世界のために、また彼女のために、よかれと思っての行為ではあったのだが、この状況に至ってしまっているのでは、言い訳も見苦しい。
もし、あの時、聖剣を持ち去っていなかったなら、今宵、彼女は自ら命を絶とうとは思わなかったのだろうか。
いや、もう少し早くにそうしていたかもしれない。それとも、ひょっとしたら、顔がしわだらけになるまで、たくさんの子どもたちや孫たちに囲まれるまで、生き延びたかもしれない。自分がひいおばあちゃんとなって、子孫に聖なる血や聖剣について、おとぎ話のように語り聞かせてあげたかもしれない。
どれも、起こり得た可能性であり、これから決して起こらない世界だ。だからこそ、想像するだけで微笑ましく思う。
私には、彼女を説得できる自信がない。
もう、私の呼びかけには応えてはくれないだろうから。彼女の覚悟は揺るぎないものなのだから。
「私に何か、君のためにできることはあるか」
私は、ゆったりとした声で訊ねる。自分の心を落ち着けるのと同時に、彼女にも、冷静な判断をしてほしいとの思いからだった。
セラは深呼吸をする。吐き出す息が、かすかに震えていた。ように、私は感じた。
「……もし、あの子に会うことがあれば、伝えておいてほしいです」
「名前はなんという」
「マリナです。知り合いの元に預けてきました。けれど、場所はお教えできません。あくまで、あなたが会うことがあればでいいので、どうか。あの子はきっと、私のことをあまり覚えていないでしょうし、自分を捨てた親として、憎んでもいるかもしれません。けれど、私は、あの子のことを愛しています。いつまでもずっと、どこにいても心はあの子のそばにあって、見守っていると、そう伝えてください」
「それだけか、言い残すことは——」
私はまだ、彼女の本心からの言葉を聞いていない。
彼女がどんな気持ちでいるのかは知らないが、どんな人間でも、覚悟を決めた意志があったとしても、死ぬのが恐くないはずがない。
最期くらい、言いたいことはすべて、言い切ってもらいたい。私はそれを、決して忘れることはないだろう。
「心残りがあるとすれば、そうですね……」
セラは、私の方に振り返る。目には涙を浮かべ、それでも笑みは絶やさず、気丈に振る舞っていた。
「本当は、あの子と、もっとずっと一緒にいたかったです……普通の家族として。でも、もう私には、そんな気力は残っていません。生きることに疲れてしまったんです。先ほどは、あなたに未来を託すためと言いましたが、本当は、この残酷な世界から立ち去りたかったのかもしれません。私自身、私の心がよくわかりません」
「その葛藤は、君の血族の問題が故か」
「……そうかもしれません」セラは、か細い声で言う。「もし、一族の血も、聖なる力も、何も関係のない普通の女の子として生まれていたならと、想像しなかった夜はありませんでした。普通の暮らしをして、普通の家庭を築いて、普通の親として、あの子を愛してあげたかったと、そう、今も思います。何度も名前を呼んであげたかったです。ことある毎に褒めてあげたかったです。優しく頭を撫でてあげたかったです。力いっぱい、あの子を抱きしめて、あげたかったです……」
セラは嗚咽まじりに、ゆっくりと、一つ一つ、本心を吐き出していく。
掠れた彼女の声は部屋の壁に溶けて消え、私以外の者には届かない。
彼女の白い頬を、涙が濡らす。
それを私はじっと見ている。
それから、何も言わず、彼女の最期を見届けてから、静かにこの場を去ろうと、私は思った。
――私には、やらばければならないことがある。
それは、私の肩にのしかかったものを、一つずつ下ろして、片づけていくだけの単純な作業だ。しかし、私一人だけでこなすには膨大な時間と常人ならざる胆力が必要とされるだろう。
それでも、私はやらなければならない。
家族を守るために。セラの想いに応えるために。
私は、この世界でもっとも偉大なつながりを、断ち切らなければならない。
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