殺し屋 7
バレットは閉じていた目をゆっくりと開き、正面に立つコトリに視線を向けた。
彼の話を聞いて、頭の中にあった忌まわしき父親の仇像は、その影を晴らしているように思えた。今は、コトリというひとりの男を、この元殺し屋を、ある種、同志を讃えるような眼差しで捉えつつあった。同じ世界で生きている者にしか理解のできない感覚なのだろう。自分も同じ立場にあったとしたらという考えが、頭の片隅に転がっている。
もちろん、彼が父を殺したことを許したわけではない。手足を縛られてさえいなければ、今にも飛び出して掴みかかってやりたい気分ではあった。
ただ、殺意のような感情は確実に薄れている。彼の真の目的と、その動機を知り、彼もまた、この残酷な世界に囚われた犠牲者なのだと、バレットは思った。
コトリが奥の部屋へと消える。
バレットは改めて辺りを見回した。何か、脱出するのに使える物はないか。暗闇にすっかり慣れた目で、注意深く室内を観察する。
しかし、どうすることもできないという事実が再確認できただけだった。体が縛り付けられている椅子は、この部屋の真ん中にあって、背筋を伸ばし、顔を傾けてみても、一番近くの壁にすら届きそうもない。椅子自体も古びたものではなく、拘束用の特注なのか、かなり重みがあって、この椅子から体の自由を取り戻すのは、地中深くに根を張った巨木の幹を揺らそうとするような無謀さを感じたほどだ。体をよじろうとしてみても、椅子の脚が床にぴたりと固定されているようで、身動きが取れなかった。
バレットは溜め息を吐き、目を閉じた。張り詰めた空気が、自分の周りから逃げてゆくのを感じる。
首をかくんと曲げ、項垂れた姿勢をとる。何か意味のある体勢というわけではない。疲れから眠ってしまった、わけでもない。ただ、体に力を入れなくていい楽な姿勢をとったに過ぎなかった。肩や腰から、力が抜けていく。憎き仇の拠点でリラックスしているとは奇妙な体験だが、バレットの心情は、以前よりも確かに穏やかだった。燃え滾る復讐の炎はとっくに鎮まっていて、心地よい風がそよぐ草原を思わせるような平穏な心情であるのを自覚していた。
目を閉じていると、十年前の夜のことが、頭に浮かび上がってくる。
真っ暗な視界の中に、当時の景色が描き出される。
薄暗い寝室。差し込む月の光。リビングの気配。話し声。怯える父。コトリらしき者の影。小さな銃声。扉の音。亡骸。銃弾。憎悪。復讐心。
父の仇。復讐。殺し屋。
仕事で人を殺している殺し屋が、家族を殺されて復讐だなんて、なんて虫のいい話だろう。と、ふと思う。
いや、順序が逆だ。
俺は父を殺されたから、復讐のために、やつに近づくために殺しの仕事に手を染めたのだ。
元々は、夜の世界なんて知る由もないただの無力な子どもだったのに。
殺されたから、殺し返そうとした。
そのために、殺しを始めた。そうだ。これが、殺し屋バレット誕生の経緯だ。すべては、復讐により始まったことなのだ。
やつに平穏を奪われたから、俺も奪い返してやろうとして、ここまで来た。
けれど、とバレットは時々、思う。
そのために、俺は――何人の平穏を奪ったんだ?
仕事で手にかけてきた中には、家族がいた者もいた。
殺しの対象は、大抵が裏社会の人間。つまり、この街の闇の部分だ。明日、消えたとしても、誰も気がつかない。朝がくれば、みんな夜の静けさや寂しさは忘れてしまうから。
しかし、その夜は確かに失われることとなる。街の人々や、この世界からしてみれば、それは些細な出来事かもしれないが、当人たちに、たとえばその家族にとってみれば、どうだろうか。世界が揺らぐほどのショックを、受けることになるだろう。
俺が、まさしくそうだった。父が殺され、平穏が奪われ、世界は暗転した。深い洞窟に迷い込んだかのように、俺の世界は真っ暗な夜に覆われてしまった。
それを俺は、仕事として淡々とこなしていた。それも、すべて自分の真の目的である復讐を遂げるために。胸の内に宿った炎を鎮めるために。自分の世界を晴れやかに照らすために、俺は、何人もの世界を夜に落としてきた。
許されることではないだろう。
人として。決して、それは。きっと、この世界の誰にとってみても——
おい、待て。
自分の声が聞こえる。
今さら、何を言っているんだ?
バレットは、はっとして目を開ける。
自分の膝が、視界に映り込む。
すうっと空気を吸い込む。埃っぽくて息苦しい。
顔を上げると、夢から覚めたような開放感があった。
知らぬ間に眠っていたのかもしれない。汗はかいていないが、体がじんわりと熱を持っているのがわかった。
どれくらい、時間が経ったのだろうか。
バレットは、辺りを見回す。
相変わらず、同じ部屋の中だった。コトリがかつて使用していたという、セーフハウスの一室だ。
試しにと両腕に力を入れてみるが、やはり、腕は座っている椅子の背もたれに後ろ手に縛られているし、足元も変わらない状況だった。
——俺はこれから、どうすればいいのだろうか。
自分の中に、迷いが生まれていることにバレットは気づいた。
コトリを殺すことは悲願だった。父の仇を討つためにと、長年、その影を追いかけてきたのだ。
しかし、いざその機会が訪れるとなると、どうしてなのか、躊躇いを覚えてしまう。
これまで、コトリを殺すことだけを人生の目標にして生きてきたのだが、それが達成されたとして、そのあと、俺はどうなってしまうのだろうと考えずにはいられない。
人生の目標を失くした俺は、自分が何者なのかわからなくなってしまうのではないか。人生の何もかもを失い、生きることを諦めた廃人のように、くたびれて死んでいくのではないか。
それじゃあ、俺の人生は何のためにあったのだ。十年前のあの夜、どうして父と一緒に殺されなかったのだ。と、後悔にも似た感情の波が押し寄せてくる。
近くに、人の気配がする。
その方向を見やると、奥の部屋から、コトリが現れた。まだ、いたのか、とバレットは目つきを鋭くして、睨む。
彼は、先ほどと服装を変えていて、配色は同じ、夜に溶け込みやすい黒ばかりだが、ニット帽を脱いでいた。代わりというように、纒うコートの襟をしっかりと立てている。首巻きのようなもので口元を隠し、あくまで完全に正体は明かさないといったスタンスだろうか。
黒いコートは、より厚みが増しており、元々の巨躯が、もう一回り肥大したかに見える。
「出掛けるのか」バレットは訊ねる。
「ああ」コトリは、素気なく言う。「ことが済み次第、すぐに戻ってくる」
「俺を連れていけ」
「断る」
「やらなければならないことが、あるんだろ」
「連れて行けば、手を貸してくれるとでも?」
コトリは、じっとりとした視線をバレットに送り、言う。
その目は、十年前に父を襲った殺し屋としての冷徹さを宿している。
「安心しろ、約束は守る。何度も言うが、私を殺したいのであれば、後にしてくれ」
あんたを殺すつもりはない。
口をついて出そうになった言葉を、バレットは飲み込む。
コトリに対する殺意はほとんどなくなっているというのは事実だった。
だが、彼を許したわけではない。
というのも、憎しみに似た感情でも抱いておかなければ、自分の原動力を失ってしまいそうな気がした。
彼を恨む気持ちは、忘れてはならない。そうすることで、俺は生きる目標があるのだからと、バレットは心の底で強く思う。
コトリが再び、奥の部屋へと姿を消す。
しばらくすると、扉が開くような音がして、途端に、周辺が、より一層深い静寂に包まれた。
この建物には裏口でもあるのだろう。そこから、彼は出て行ったらしい。
目的を果たすために。最後の敵を、始末するために。
俺はいつまで、ここにいるのだろうか。ふと、バレットは、そんなことを考える。
彼が戻ってきた時、俺はどうすればいいのだろう。
おそらく、彼は俺の拘束を解くだろう。父の仇とはいえ、彼の言葉や態度には、無根拠に信頼できる誠実さのようなものがあった。これまで、仕事柄、多くの裏社会の人間を見てきたからこそ、それだけははっきりとわかる。
彼もまた、夜の世界を生きている人間ではありつつも、その宵闇に呑まれぬよう、抗い続けている。
拘束が解けて自由を取り戻したあと、俺は彼を殺すのだろうか?
これまでの俺なら、迷いなくそうした。
この十年に意味を持たせるためには、彼を何としても始末しなければならないのだ、と躍起になったはずだ。
しかし、状況が変わってしまった。
俺の心が変わってしまったとも言える。
手足が縛られて、身動きが取れないことは、もしかすると、ある意味では運がよかったのかもしれないとさえ思い始めていた。
なぜなら、おかげで、彼の話を落ち着いて聞くことができたからだ。
そして、自分の人生を見直すことや、これから先のことを考えなければならないと気づくことができた。
俺は、これからどうする。
どうするのが、正しいのだ。
わからない。
バレットは溜め息を吐く。
これまで、復讐のためにと生きてきたが、その思いが、もう自分の中に残っていないことに、違和感がなかった。
まるで、これが本来の姿であるように。
殺し屋バレットは幻影であったかのように。
十年前と同じ、純粋な少年の心で、バレットは頭の中に道を思い描いていた。
それは自分の人生を映したもののようで、くねくねと這って移動する蛇のように、うねっている。
道の端は草木で埋め尽くされ、空には明るい月が浮かんでいる。
不思議な光景だ。
気づくと、バレットはその道の上を、一人で歩いていた。
どこのものかもわからない古びた鍵を持っていて、ただひたすらに、道をまっすぐに進んでいる。目的地があるわけでもない。
時折、振り返ってみたり、月を見上げてみたりしたが、特に何を考えるでもなく、その道を進んだ。
すると、突然、大きな鉄扉が眼前に現れた。
辺りを木々に囲まれた、森の中の一本道を歩いている気分だったので呆気に取られたが、それが何かなんとなく理解できた。
頑丈な造りの扉とは、一目でわかった。
それは、どんな衝撃を与えても決して開くことのない鉄壁を誇っていて、道の上に立ちはだかる障害のようだった。
よく見ると、正面に大きな鍵穴があり、手にしていた鍵が当てはまりそうであった。
さっそくと思い手を伸ばすと、手には銃を握っていた。
なぜだ、と疑問に思うも、背後に人の気配がしたので振り返る。
そこには、コトリらしき者の姿があった。
バレットは咄嗟に、手にしていた銃を構える。
すると、今度は、それは銃ではなく、ただの古びた鍵に変わっていた。
わけがわからない。
再び鉄扉の方を向くと、手には銃が握られていた。
コトリの方を向くと、古びた鍵が手の中に収まっていた。
どうすればいいのだ、俺は。
バレットは頭痛がして、頭を抱えてその場に座り込んだ。途端に体が重くなり、地面にうずくまる。
道の上に立つコトリの姿を睨みながら、俺はどうすればいい、と心の中で叫び続ける。
俺はどうすればいい。俺はどうすればいい。
——どうするのが、正しいのだ。
目眩がした。視界が黒くなっていく。
同時に身体中の力が抜け、意識だけが体外へと取りこぼされたような感覚がした。
空には月が輝いている。
それが視界に映り込む。
いつかの日の夜と同じ、明るい輝きを放つ綺麗な月だった。
————
「あ、あの!」
体を乱暴に揺さぶられ、バレットは目を開ける。
深い暗闇から解放され、室内の薄暗さが明るく感じるほどだった。
また、眠っていたのか、と思う。
どうせまともに身動きも取れない状況だ。拘束の道具に下手に抗って体力を消耗するより、何か妙案でもないかと考えていたが、疲れが溜まっていたのかもしれない。知らぬ間に意識を手放していた。
頭を軽く振る。固まっていたものがほぐれ、活性化したように視界が鮮明になっていく。
何者かが、そこにいるのがわかった。
すぐ目の前で、こちらを見下ろしている。
今しがた聞こえた声も、その人物が発したものだろうか。
バレットは上目だけで、刺すように視線をやる。
「ああ、よかった!生きてた」
その少年は、はあと息を吐いて、大袈裟に言った。わざとらしい仕草は、彼の策略か自然な振る舞いか、見抜くまで油断はできない。
「何者だ」バレットは訊ねる。
「こっちが聞きたいですよ」少年は息を切らしていた。何かに焦っているように見える。「どうしてこんなところで捕まっているんですか」
バレットは、自分の足元に視線を一瞬、移す。
「知らない」
「誘拐ですか?」
似たようなものだ、とバレットは答える。
「今、助けます」
「待て」
バレットが鋭く言うと、少年は体をびくっと震わせた。
「……なんですか」
「何のつもりだ?」
「どういう意味ですか」
「俺を助ける理由は何だと聞いている」
「理由って……」
少年は、悩むような、呆れたような顔でバレットを見た。それは、異質なものを目の当たりにしたかのような顔つきだった。
「普通、拘束されている人と出くわしたら、開放してあげようと思いませんか」
「その状況は普通ではないだろう」
「まあ、そうですけど……」
少年は室内を見回す。何か探しているのだろうか。
バレットは、この突如として現れた少年のことを怪しんでいた。彼は、まるで偶然、近くを通りかかったふうを装っていたかもしれないが、コトリから聞いた話だと、このセーフハウスは元々が空き家で、人の住んでいる気配のない場所だ。
どうしてここに来たのかはわからないが、この空き家を狙ったホームレスか泥棒の類かもしれない。どのみち一般人には思えない。油断はできないというわけだ。
「ちょっと後ろ、失礼しますね」
少年はバレットの拘束されている椅子の後ろに、するりと回り込む。襲われる気配こそなかったものの、気味の悪さはあった。
「そこの机の上にあったやつですけど、たぶん、これ、本物ですよね」と、少年は手にしたナイフを使い、バレットの手足の拘束を解く。
体中に感じていた重みが一気に消え、楽になる。
拘束具が外れた弾みに持ち上げられるように、バレットは立ち上がる。自由になった手首を交互に触れながら、少年を横目で見た。
「……礼は言っておく」
「いや、大したことは」
言いながら、少年がナイフを懐に忍ばせたところを、バレットは見逃さなかった。
行動は確かに怪しいが、敵対しているわけではないので、特に気に留める必要もないのかとバレットは思う。
「ここに来た目的はなんだ?」
「え」
一応と訊ねてみると、少年はわざとらしくたじろぐ。それは純真を装っているつもりなのか、それとも本心なのか。
「その、わけがあって人を追っていて……その人が、ここに逃げ込んだように見えたので」
「お前以外、誰も来てはいないぞ」
「この家、裏口とかはないんですか?」
「ああ……」
詳しくは知らないが、おそらく裏口はある。コトリもそこから出掛けたようだったし、少年の言う人物も、裏口を利用して逃げ出した可能性は、確かにあった。
「裏口なら、奥の部屋にあるだろう」と、バレットは、コトリが姿を消した方の暗がりを指す。
「ありがとうございます」
少年は律儀にも礼を言う。その瞳は朝日のように眩しく輝いて見えた。おかしな少年だ、とバレットは思う。
色々と気になることもあったが、それ以上、特に訊ねる気も起きなかった。
知ったところで、どうなのだ。俺の方も、何か聞かれたところで、答えるつもりも何もない。彼との出会いは、運がよかったとしておこう。おかげで、コトリの帰還を待たずとも解放されたのだから。
どっと疲れが襲ってきた。体が重たくなる。巨大な岩でも背負っているようだった。
早く帰って、一度寝るべきだ。そう強く思った。復讐のことは、後回しにして、今は。
ふと、コトリに没収された得物が置かれていたはずの机の上に視線をやると、銃が一つ、無くなっていることに気がついた。
あれは、ヤマから受け取ったものだが、彼が持ち去ったのだろうか。
いや、それはあまり考えられない。彼は自分の銃を用意しているはずだから。
では、あの銃はどこにいったのだろうか。
扉が開く音がした。裏口だろうか。あの少年が、出て行ったようだ。
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