探索者 7

 父は生きている。そして、今夜、殺されることになっている。

 にわかには信じがたい情報を得たアーサーは、ひとり教会跡へと戻ってきていた。

 今夜、彼はこの教会跡に向かうはずだと、ヤマは言っていた。

 ヤマとは途中で別れた。立ち寄る場所があるのだとという。

 別れ際、これから先は、君一人で立ち向かうべきだと彼女に背中を押された。不思議といやな気はしなかった。

 父について、ヤマから聞いた話を素直に受け入れるのもどうかと思ったが、彼女が嘘をついていないのを、アーサーは感じていた。

 暗い林道を抜け、開けた空間に出たところで、左に進む。

 小さな広場らしき場所に出た。

 右手に小屋が見える。何者かによって殺された男と、その家族らしき少女がいた小屋だ。

 また、ここに戻ってきてしまった。

 正面には石畳の道が、まっすぐ奥までのびており、先には聖堂の姿がうっすらと見える。

 あれが、十年前に謎の火災が起きたという聖堂らしい。夜闇の中に溶け込むようにした立つ姿は、洞窟の奥深くで眠る獰猛な生物を連想させた。

「あ」

 小屋の扉が開き、中から、少女が現れた。

 少し前に会った少女だ。身内の男を殺されたという勘違いから襲われた記憶が新しい。

 しかし、小屋の前で固まっている彼女が、先とは異なる雰囲気を纏っていることに、アーサーは気づいた。

 好戦的な立ち姿と狂気に染まった目つきはなく、泣き腫らした目は、アーサーの顔をじっと見つめていた。星空を見上げる少女のような、とても澄んだ視線だった。

「あの、何か?」

 少女は、細い声で言う。

「……あなたは、何者ですか」

 アーサーは左手を自然に動かし、少女の視界に入らないようにして、隠し持っていたナイフに触れる。

「マリナといいます」

 知りたいのは名前ではなかったが、少女の態度が不自然なくらいよそよそしく変わっているのを感じ取ったアーサーは、体の力を抜き、平静を装うことに努める。さっきとは、まるで別人のようだ。

「俺はアーサーです。えっと、俺のこと、知っているよね。さっきここで会ったから……」

「はい」マリナは申し訳なさそうに言う。「突然、襲い掛かったりして……それに、ジェイを殺した人だと決めつけてしまったことを謝罪します」

 マリナは綺麗な姿勢で頭を下げる。その声は後悔の念に満ちていた。

 何か妙なことが起きているなという違和感はあったが、偽りの気配はなかったので素直に目に映っているものごとを信じることにした。

「なんだか別人みたいだ」思わず、アーサーは言う。

「話せば長くなるのですが、なんというか、今の私は長い呪縛から解放されたようなもので……十年前の自分に戻った感覚なんです」

 ――十年前。

 その言葉を聞いて、アーサーは聖堂の方を見やる。確か、ここで。

「十年前って言うと、あの聖堂で火災が起きたって聞いたんだけど」

「はい。当時、私もそこにいました」

「あ」

「いえ、いいんです。もう、ちゃんと受けとめていますので。あれは事故だったのだと。なるべくしてなったのだと」

 少女は、目を細めて頭上を見る。その視線の先には、彼女の見つめる星空の彼方には、もう一つの世界があって、そこには、十年前にあったはずの聖堂が存在しているのだろう。

 彼女がどんな人生を送っていて、あの聖堂にどんな思い入れがあるのかはわからない。けれど、山の向こう側に流れて行ってしまった星をもう一度探そうとする幼い好奇心のようなもので、十年前の聖堂での事件さえ起こらなければ、今、私はどうしているのだろう、と健気な思いに耽っているように見える。そんなことを感じさせる、穏やかな表情をしていた。

 しかし、なるべくしてなったことだと簡単に割り切れるものなのかと、アーサーは思った。

 聖堂の火災は、発生元から鎮火まで、そのすべてが謎に包まれている。らしい。宿屋の店主もそうであったように、王都の街の人間は、事件のことをおおまかな情報——噂程度のことしか知らないのだろう。ヤマにもそれとなく聞いてはみたが、なんとも答えてはくれなかった。

 十年前、聖堂で起きた事件には、その場にいた者にしか知り得ない、何か特別な出来事があったのではないか。

「ところで、一つ訊きたいことがあるんだけど」

 再び教会跡へと戻ってきた理由を、アーサーは思い出す。

 それは少女と再会して雑談を交わすためではない。確かに十年前に起きたという事件——それは、聖剣が盗まれ、父が行方をくらませた夜と同じ時期かもしれないので、気にはなるのだが、今は一刻を争っている状況なのだ。

「ここに、黒いコートを着た男が来なかった?」

 アーサーは両手を広げ、ヤマから聞いた彼の外装と、最後に見た父の影を頭に浮かべながら、がっしりとした体格を身振りで示す。

 マリナは少し考え、うん、と唸った。

「どうでしょう。先ほど、あなたと別れてから、聖堂に行ってみたのですが、人影がいくつかはありました。私やあなたと歳が近い少年が二人と——奥にある祭壇の前にひとり、あなたの言うような、大きな体格の男の人がいたような気がしますけど……」

「聖堂にいるのか」

 その時、少女は、あ、と何かを思い出したかのように声を出したが、返事を待つのも惜しかったアーサーは、聖堂へと走り出していた。


 聖堂は寝静まった森のように、しんとしている。

 建物自体は、聞いていた通り、火災に遭って焼け落ちた哀れな風体をしていた。人々の祈りが捧げられる神聖な場所だというのに、息吹を感じさせない寂しげな空間だった。

 さっと辺りを見回す。正面にのびる道の左右に対称となるように――実際には、それらは崩れ落ちていて非対称だが――長い椅子が、聖堂の入り口であるこちら側に背を向けて並んでいる。

 その間を進むと、奥には祭壇が見える。

 少女の話によると、そこに、父と思しき男がいたとのことだが。

 まだ、この辺りにいるのだろうか。

「もう、ここには誰もいません」

 背後から少女の声が聞こえた。アーサーは振り返る。

「どこにいるか、わかる?」

 嫌な予感があった。全身の表面を、ぴりぴりとした痺れが走る。

 まさか、もう殺されてしまって――

「街に、戻ったのではないでしょうか」少女は、自身なさげに言う。「おそらく、私はあなたの言う人物とお会いしています」

「本当に?」

「はい……けれど、あまり、覚えていなくて。私、たぶん気を失ってしまって。はっきりとしたことは言えませんが」

「それでもいいんだ。何か少しでもヒントになることがあれば教えてほしい」アーサーは、強い口調で返す。

 少女は怯えたような表情を見せるが、すぐに落ち着いた空気を取り戻す。

「たしか、聖剣を探していると、そんなことを彼は言っていました」

 一瞬、アーサーの周りにある何もかもが静止する。

 空気も。音も。匂いも。

 少女の瞳の奥にある輝きさえ鎮まり、闇の一面を覗かせたように見えたほどだ。

「どうして、それを……」

 君が、聖剣のことを知っているんだ。アーサーは内心で声を上げて訊ねる。

「わかりません。彼が何者なのかは、まったく」少女は、アーサーから目を逸らすようにして、斜め下を見る。「あれが、夢じゃないのであれば、彼は、私の母と知り合いだったようですが……」

「そうじゃない」アーサーは少女に近づく。「どうして君が、聖剣のことを知っているんだ?」

 訊ねると、少女が、実は、と口を開く。

「……昔、ジェイから聞いたことがあるんです。聖剣は、私たちの一族にまつわる伝説なのだと。私の血は特別なもので、力があるのだと。ああ、今思えば、ジェイも聖剣の力を崇める者たちの仲間だったのかもしれません。かつて、そんな団体が存在していたという話を、シスターたちから教えてもらったことがあります。ジェイは、聖堂の火災で、私が力を持つ者だと確信したのでしょう。そして、私に隠していたようですが、彼は聖剣を持っていました」

 アーサーは少女の言葉を遮るようにして、口を開く。

「待ってくれ。聖剣は元々、俺の父が持っていたんだ。君の身内の……ジェイが持っていたというのは、どういう意味なんだ。聖剣は、十年前の夜に盗まれて――」

 アーサーは、はっとする。

 ある一つの可能性が、夜闇の彼方から落ちてきた。

 十年前に盗まれた聖剣、その行方とは。

「では、あなたの言う聖剣を盗んだ者というのが、あるいは、それを手引きしたのが、ジェイなのでしょう」

 十年前の夜。

 聖剣を奪いに、家に入ってきた強盗たちの姿を、アーサーは思い出す。

 三人の男が、あの場にいた。

 そして、彼らを呼びに来た男がひとり。しわがれた声の男も、いた。

 その後、帰ってきた父が、男二人を手にかける。彼らを除くと、あの場から立ち去って、行方のわからなくなった男が二人いるのだ。

 聖剣を持って逃げた男と、しわがれた声の男。

 そのどちらかが、ジェイだったのだろうか。

「私と出会ったあの夜、ジェイは何か大きな過ちを犯してしまったようで、それをひどく後悔していました」

「君と彼が出会ったのも、十年前の、あの月の夜なのか……?」

「はい」少女は頷く。うっすらとのぞく細い視線は、正面に立つアーサーにではなく、遠く離れた場所に忘れられた十年前の夜に向けられているようだった。

「あの夜、聖堂に、見知らぬ男が押し入ってきました。男は何かから逃げているようでひどく怯えていて、シスターたちに自分を匿うようにと声を荒げていました」

 何かから逃げてきた男。聖剣を奪って行った男のことか、とアーサーは思う。

「私はそこの祭壇の前で、ずっと祈っていました。ただ、静かになることを。男の声。シスターたちの声。私の周りを飛び交っていた魂のようなものの声。すべてが、耳障りでした。みんな、静かにしてくれませんか。誰か、この騒ぎの中から私を救い出してくれませんか。その時の私は、そう願っていました」

 少女は目を閉じ、息を軽く吸い、吐く。

「男の持っていた聖剣が、私の願いを叶えたようです。つまり、静寂が欲しいと。騒がしいものの声を消してくれと、心の中で少しでも思ってしまったことが、あの悲劇を生みました」

「聖堂の火災……」

 少女はゆっくりと頷き、はい、と言う。

「炎は、私の願いを受け入れた聖剣がもたらした悲劇なのでしょう。シスターたちと男を呑み込み、私を静寂の世界へと導いてくれました」

 私だけが、あの炎の中を生き延びることができましたと、少女は俯く。

「そこから先のことは、あまり覚えていません。いえ、覚えていないというより、なんというか、不思議な感じで。夢を見ているようだったのです。あの夜、私の意識はこの世界から爪弾きにされてしまって、ほかの知らない人格が、私の体を乗っ取っていたのではないかと感じています」

 自分でもおかしな話だとは思いますが、と少女は続ける。

「しかし、意識が完全に消えてしまっていたのかと言うと、そうではないのです。私は私でありながら、確かな私じゃなかっただけというか。言葉にして説明するのが難しいですね。十年前のあの夜、聖剣が私の願いを叶えてから、私の意識は長い眠りにつきました。いえ、眠った、というのは変ですね。私は、人では抗えないおそろしい力のようなものに、この世界の外側に連れ出されたのです。そして、なぜそんなことが起きたのかという点から考えてみても、やはりわからないのです」

 ただひとつ言えることは、たった今、その眠りから目覚めました。

 少女は悲しげに言う。ずっと、悪夢を見ていました、と。

 アーサーはしばらく黙っていたが、やがて、「そっか……」と口を開いて、また黙った。

 呼吸をするたび、夜の冷たい空気が鋭く体に入ってきた。アーサーは、それが大変、気味悪く感じた。ただ息を吸って吐いている。意識せずに行っている行為なのだが、自分の中にあるものが奪われて、新しいものを植え付けられているような気味の悪さがある。自分じゃないものが自分を支配し、自分だったものが自分じゃなくなる。想像しただけで寒気がしたほどだ。


 さて、これから何をするのが「正解」なのだろうと、アーサーは深く考える。

 どんな行動を取るべきなのか。ここでの選択が、人生を大きく左右する気がした。

 俺の目的は、なんだったっけ?

 自問してみる。自分の声が、頭の中で響いた。

 この街へ来たのは、十年前に奪われた父の形見を――聖剣を取り戻すためだ。自分の声で、そう聞こえてきた。

 でも、今、俺が優先すべきことは?また、自分の声がする。

 優先すべきことは、なんだろう。

 ヤマから聞いた話によると、死んだと思っていた父はまだ生きていて、今夜、殺されることになっている。詳しい理由は知らない。ヤマもそこまで教えてくれなかったし、どう行動するかは自分で考えるようにと言った。

 ならば、父に会うことを優先すべきなのだろうか?そんな声がしたあとで、

 ――今さら、父に会ってどうするのだ。

 アーサーの頭の中に、低い声が一際、響く。

 すると、それ以外の声がまったく聞こえなくなった。頭の中には、その言葉だけが響き続ける。それはひどく悲しげな声だった。自分の頭の中に響く自分の声なので、そんなはずはないのだが、その声は泣いているように思えた。幼い子どもらしい無邪気な涙を流していた。

 そして、その声に引っ張られるようにして、アーサーの思考は動いていく。

 ――今さら、父に会ってどうするのだ。

 父は、十年前の夜――俺や母の前から姿を消した。何か事情があったのかもしれなし、本当の理由などはわからないが、十年もの間、一度として、村に帰ってくることはなかった。

 父とは、もう会えないのだと、そう思った。

 家族とは、この世界でもっとも偉大なつながりであると、そんな素晴らしい言葉を父から聞いたことがあった。

 三人で過ごす時間はやはり特別であっただけに、父親という一つの柱の消失は、俺たちの人生を大きく傾けた。

 活発さが取り柄だった母は、深い穴へ転落するかのように急激に体調を悪くし、俺は、そんな母を支えなければと、自分の中にあった甘えたがりな幼さを殺して、自制する大人を芽生えさせた。

 ――今さら、父に会ってどうするのだ。

 父がいればあったかもしれない家族の幸せな暮らしは、十年前のあの夜、たった少しのうちに、月明かりに溶けて夜空の向こうへと消えていってしまった。

 その事実を受け入れるのにどれだけの時間がかかったかは、思い出したくもない。母の看病をし、村の人たちの仕事を手伝い、おかげでいろいろと気にかけてもらいながら交流を続け、でも、こういった生活があとどれだけ続くのかと絶望して、気分が悪くなったこともあった。暗黒に閉ざされた未来を想像して、眠れなくなったことだってあった。

 俺が母を守るのだと、父と交わした約束だけが、俺を闇から救ってくれた。父の思いは俺が受け継ぐのだと、そういった信念が、俺を生かしてくれていた。

 ――今さら、父に会ってどうするのだ。

 俺は、母に元気になってほしいだけだ。

 父が生きているかどうか、その真偽はどうでもいい。

 つまり、俺は父のことを聞かなかったことにして、すっかりと忘れて、聖剣のことを優先させるべきなのだ。

 父の存在は、もう俺の人生には関係のないものとして隅に弾いてしまっている。

 今さら、それを受け入れなおすことができるのか。一度、失った気持ちを、修復しなければならないのか。

 それが、どれだけ辛いことか、難しいことか、哀しいことか。心の傷は完治しないというのに。

 ぶつけようのない怒りが、腹の底にわく。体を突き破って飛び出そうとする熱が、頭にまでのぼってくる。

 それは誰に対してでもなく、ただ生じた憤りだった。

 別に父に恨みがあるわけではない。むしろ、本当に生きていてくれたのなら、どれだけ喜しいことか。

 けれど、とアーサーは思う。

 こんな運命を引き起こした、この世界そのものが、憎々しいのだ。空の上から俺の人生を覗いている黒幕のような存在がいるのであれば、非難の一つでも飛ばしてやりたいところだった。

 アーサーは、ため息をつく。

 冷たい空気が体から抜け、胸の辺りに熱が残る感覚があった。それは飼い慣れていない衝動的な感情。アーサーの中で暴れまわっている。

 ――今さら、父に会ってどうするのだ。

 俺には、わからない。

 今さら、父に会ってどうするのか。どうすればいいのか。どうするべきなのか。わからない。

 わからないから、決断ができない。

 決断ができないから、行動に移せない。

 さっきからずっと、薄暗い聖堂でじっと動けないままだ。

 本当は一刻も早く、父と会わなければならないのかもしれないが、その先に進む勇気がなくて、今この場所からの一歩が踏み出せない。


 視線を正面に戻すと、少女と目が合う。

 何か言いたげな視線を感じたが、アーサーは無視する。

 彼女の心境だって、穏やかではないはずだ。先ほどの話が本当なら、少女は、十年前の夜に聖堂の火災を経験してから、何かが狂ってしまったのだ。

 少し前に、小屋の裏口で彼女と対峙した時のことを思い出す。この世界に閉ざされた者の目をしていた。何かを激しく信じ、自分の求める世界の中でしか生きていられない者の目だった。

 しかし、今夜、きっと何かのきっかけで――おそらく、ジェイという男の死だろうとアーサーは思う――この世界に、本来の彼女が舞い戻ってきたのだ。

 いろいろと混乱していることだろう。この十年間で体験してきたことの中には、今になって悔やむことだって多いはずだ。

 だが、そんな彼女のことを気にかけてやりたいと思うほど、アーサーにも余裕はない。

 時間が迫っている。

 聖剣のことだけでいいのなら、少女から、場所を聞き出せばいいだけだ。でも、心のどこかでは、父のことを諦めきれない自分もいた。

 だから、どうすればいいのか、決断ができない。聖剣を探すことよりも、父との再会を果たすことのほうが、大事なのではないかと思い始めてもいた。

「……聖剣は、どこにあるの」

 アーサーは口を開く。

 少女はちょっとだけ目を大きくし、やがて、アーサーの背後を見て、指した。

「祭壇かと……」

 アーサーは振り返る。

 見ると、祭壇には箱が置かれていた。薄汚れた、長い箱だ。棺のようでもあった。

 その形状には、見覚えがあった。家の物置小屋で見たものと同じような形だ。

 アーサーは箱の蓋に触れる。背後にいるはずの少女は、何も言わない。

 そこで、仮に聖剣があったとして、どうする。とアーサーは一瞬、考える。

 本当に持ち帰るのか。いや、マリナがそれを認めるだろうか。彼女だって、聖剣の恐ろしさは知っているはずだ。聖堂の火災を起こすほどの、超常的な力を秘めているのだから。

 アーサーは蓋をずらし、中を覗く。ぎいと音がし、闇と対面する。

 中には、何も入っていなかった。

 アーサーは少女の方を見る。

 すると、彼女は不思議そうな顔つきで首を傾げながら微笑みかけてきた。

 それはなんとも能天気な表情だった。状況がわかっていないのだろうとアーサーは悟る。

「聖剣がない」

「え」

 少女はそこで、初めて驚いた顔を見せる。

 アーサーの近くに駆け寄り、背を伸ばして箱の中を覗く。

「そんな……」

 事態の異常さが、ようやく理解できたらしい。箱の中の一点を見つめながら、固まっている。

「さっき聖堂に人影があったって言ってたよね。その中の誰かが持ち出したんだ、きっと」

「いえ、それはありえないと思います……」

 少女は曖昧に言う。

 何か思い当たる節でもあるのか。

 少女が記憶を遡っているのを、アーサーは黙って見ていた。

 人の気配がしたのは、その時だった。

 沈黙の隙間を縫うように、聖堂の入り口辺りから音が刺してきたのだ。それが、人の足音だと、アーサーにはすぐにわかった。

 焦りを滲ませたような雑な足音は、聖堂から勢いよく遠ざかっていく。まるで、何かから慌てて逃げ出したかのように。アーサーたちの存在に怯えているかのように。

 アーサーは、その足音を追った。

 自分の元から逃げる何かが、ここで見失うと二度と手に入らないもののような気がして、それで、後になって悔やんでしまう未来が予想されて、アーサーは突発的に走り出していた。

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