数年後

 久しぶりに王都の街を訪れて感じたのは、何も変わらないな、ということだった。

 あの夜、あれだけの事件が起きたというのに。人々の記憶からはすっかり薄れてしまっているらしい。仮に誰かに訊ねてみたとしても、ああ、そんなこともあったねと、子ども時代のやんちゃな悪戯を思い出すかのような素っ気なさで、一蹴される雰囲気を感じた。

 それとも、もともと知らなかったのだろうか。裏社会を生きる者たちの手によって、事件の真相が隠蔽された可能性を考えてみた。この街には、そういった勢力がいる。事件が人々に知られる前に、それらしい証拠を握り潰してさえしまえば、あとはくだらない噂話しか残らなくなる。そんな噂話は、三日もすれば自然に消滅する。道の真ん中にできた水たまりがいつのまにか消えているのと同じように、人々の興味関心も、日を経るごとに乾いていくものだ。

 アーサーは、西区の大通りを歩きながら、辺りを見回していた。数年ぶりにやってきたので、道に迷ったかもしれないという不安を抱えていた。が、目的の場所はあっさりと見つかったので杞憂だったようだと、ほっとする。特に意気込むこともなく、入り口の扉を開けた。

 店内に変わったところはほとんどなかった。壁沿いに並ぶ収納数の少ない本棚と、椅子に座ってくつろぐ店主の姿。強いて言えば、店主である彼女の容姿に若干の変化があった。数年前に会った時は、髪が肩にかかるか程の長さだったはずだ。今は、その時よりも長い。綺麗に切り揃えられていた前髪も、丁寧に七三に分けてある。昔、仕事人の間で流行っていた髪型らしい。とにかく大人っぽさが、増したように思えた。

「あら、何しに来たの」

 不機嫌そうに、タケミは言った。丸メガネの奥で、目つきを刃物みたく鋭くする。

 突然の来訪は歓迎されないものなのかと、アーサーは少し寂しくなる。確かに彼女とは、それほど関係値を築いたわけではなかったが、あの夜、無事、聖剣を持ち帰ることに成功したことで、ひとりでに仲間意識のようなものが芽生えていたのだ。

 思い返してみれば、初対面であるにもかかわらず、ナイフを持って挑んだような気がする。何があったか詳しく覚えていない。が、彼女との出会いは、そんなにもギスギスとしたものだっただろうかと疑問に思う。

 タケミが口を開いた。何か喋ったようだったので、訊ねてみたが無視された。独り言だったのか。真相が自分の方から転がりこんできた、と、そんなことを呟いたように聞こえた。

「特に用があるわけじゃないんですけどね。無事、聖剣を手に入れたので、改めて挨拶にと」アーサーは友好的な態度を心掛けながら、言う。

「律儀なのね。でも、そんなことする必要なんてなくない?別に、わたしはあなたに協力したわけじゃないんだし」タケミは明らかに苛立っていた。そして、それを隠そうともしていない。

「俺の気持ちの問題です。ああ、それから、母の容態も良くなりました。聖剣を持ち帰ったことがきっかけじゃないでしょうけど。でも、あの夜、ここであなたと話をしてから、俺の周りの問題は色々と好転した気がするんです」

「ただの偶然でしょ」

「ただの偶然かもしれません」

 正直なところ、街を訪れた理由はアーサー自身もわかっていなかった。なぜ、と訊かれて、そういう気分になったから、としか説明ができない。

 ある日、ふと、そういえば王都の街はどうなっているのだろうか、と気になったのだ。

 目先の心配事は片付いたから、視野が広がったのかもしれない。他の物事を気に掛けるだけの心の余裕が、生まれていた。

 なぜか十年ほど若返ったかのような、おかしな気分だった。


 あの夜以降、自分なりに気持ちの整理はしたつもりだった。聖剣のことはもちろん、いなくなった父のことも含めて。

 父は、もういない。

 生きているのかどうかもわからない。だが、あの夜、路地裏に続く細道で出会った男——冷たい目をした、殺し屋のような男が仄めかしたことから、たとえ生きていようが死んでいようが、二度と、会うことはできないのだと悟った。それは父が自分で決めたことなのだとも、彼は言った。

 アーサーは、そんな父の意志を尊重しようと思った。

 どうあれ、自分たちのためを想い、姿を消したのだから。もう会えないのは、寂しいが、父がよく言っていた家族のつながりを感じ取ることができた。一度絶たれたかに思えたつながりは、目には見えない強固な絆で結ばれていたのだと気づいた。大丈夫。俺たちは再開できなくても、大丈夫。いつかの約束でつながっているから。

「ヤマには会ったの?」と、タケミは退屈そうに言った。

「え」

「あなたたち、顔馴染みなんでしょ」

「いえ、会っていませんけど」

 王都から聖剣を持ち帰った数日後、手紙が届いたことはあった。それは、ヤマが送ってきたもので、手紙には、あの夜に起きた様々な事件のことが記されていた。まるで見て来たかように詳しく説明があり、とにかく、王都には近づかない方がいい、と忠告じみたことまで、書いてあった。

「彼女、あれから姿を消したのよ。この街から出て行ったのかしら」タケミは短く溜め息を吐き、「あなた、あの夜の事件のことは知っているの?」と、唐突に言った。

「はい、何日かあとになって聞きました。聖堂で火災があったとか、商会の会長が行方不明になったとか」

 ヤマの手紙で事件のことを知った時、アーサーは驚いた。

 聖堂は、昔、謎の大火災があったと聞いたが、同じことが起きていたとは。聖剣を探しに訪れた時に、特に違和感はなかったように思うが、火災が起きたはいつなのだろうは。

 商会の会長にいたっては、人違いから襲われ、直接、話もしている。まさか、あの後で会長の身に何かあったのか。ちょっとした手違いで、自分が同じ目に遭っていたかもしれないと想像すると、ぞっとしない。

「あの会長は、今も見つかっていないわ。ま、たぶん、そういうことなんでしょうけどね」

 タケミの言った、そういうこと、が何を示すのか、アーサーはあえて訊ねなかった。言葉の裏にある意味が、簡単に想像できたからだ。まあ、そういうことなのか、と勝手に納得した。

「教会跡には、ついさっき行ってみました。なんだか、賑やかそうでしたけど」

 数時間前のことを思い出す。

 タケミのところに来る前、西区のはずれにある教会跡に、アーサーは訪れていた。

 特に目的があったわけではない。この街に来ようと思ったのと同じ理由だ。ふと、気になった。あの聖堂は――近くの小屋で出会った少女は、どうしているのか。

「炊き出しとかやってたわね、あの子。どういうつもりなのか、街のホームレスたちに無償でスープを配っているのよ」

「けど、教会跡の復旧を目指して、動いているそうですよ。建物だけでも、元に戻すんだって、みんな、やる気と活力がみなぎっているふうでした」

 亜麻色のハンチング帽を被った男性に、急に親し気に話しかけられた時は警戒したが、彼らは今の生活が充実していると語ってくれた。その彼が誰なのかは知らないが、どこかで会ったことがあるのだろう。そんな口ぶりだったので、それらしく振舞ったが、結局、誰なのかは思い出せなかった。

「騎士団の連中も何かと支援を始めたそうよ。正式に雇い入れるとかは厳しいみたいだけど、日雇いで仕事を斡旋するようになったとか」

「へえ、そんなことを」

「今さらそんなことするって、他にやることはないのかしら」

 血も涙もないことを平気で言うなと、アーサーは呆れたが、人間、興味関心がないことについては案外そんな感じなのかもしれない。彼女は騎士団のことを嫌っている節がある。

 タケミは、また溜め息を吐く。

「急に来たのは迷惑でしたか?」

 訊ねると、タケミは首を横に振った。

「あなたに訊きたいことがあったんだけどね。その様子じゃ何も知らなさそうだし、もういいかなって」

 なんだそりゃ。アーサーは、思わず言いそうになる。勝手に期待され、勝手に失望される。ひょっとして、王都の騎士団たちは、こんな気分を味わいながら、いつも活動しているのだろうかと想像した。あまり気持ちのいいものではない。

「あれからけっこう経ちますけど、変わらないですね、この街は」

「そうね。あの夜に起きてことについては噂話で広まった程度で、もう誰も気にしてもいないわ。たぶん、覚えていない人も多いでしょう。教会跡の火災でさえ、目撃情報がなかったくらいだし」タケミは、長年、追い求めていたものを、あと一歩で手が届くぞというところで見失ってしまったかのような、哀愁のこもった声で言い、「そういえば、女性ばかりが襲われる事件がなくなったわ」と、続けた。どこか儚げな、諦観の空気を纏っていた。

「ああ、あの妙な名前が付けられていた連続殺人鬼の」と、アーサーは、あの夜、まさに起きたばかりの殺人事件を調査していたヘクターと、した会話の内容を思い出そうとした。

 けれど、思い出せない。アーサーにとっては、興味関心のない事柄だった。

「虫の名前で呼ばれていたんですっけ」

「トカゲよ。もう懐かしいわね、この呼び名も」

 最近はまったく聞かなくなったから、もう片が付いたんでしょうねと、タケミは言う。笑っているのか、哀しんでいるのか、よくわからない表情だった。殺人事件がなくなって落ち込むようなことはないか。

 彼女の意味ありげな表情は気になったが、やはり興味がなかったので言及もしなかった。

 アーサーは、殺人事件が減ったのはいいことだなと、ただ思った。街が平和になった証拠じゃないか、と。




 ――――




 タケミの店を出た後のことは、よく覚えていない。

 確か、もう帰るとしようかと準備しているところに、知らない二人の男に声を掛けられた。

 目を閉じると、その時の光景が脳裏に浮かんでくる。

 後ろから声を掛けられたので振り返ってみると、丸顔の男と、四角顔の男が立っていた。背丈はそれほど高くなく、小声でぼそぼそと話し合っている。怪しいやつらだな、とアーサーは思った。

 何の用ですか。相手が誰なのかよりもまず、どうして話しかけてきたのかを明確にしようとしたところ、丸顔の男が、実は、と恥ずかしそうに口を開き、一歩前に踏みこんできた。声が小さく動きも自然だったため、その一歩で、かなり顔の近くにまで接近されたことに、アーサーは気がつかなかった。

 次の瞬間には、顔を白い布で覆われる。すぐに引きはがそうと手を伸ばすが、四角顔の男が体を押さえつけてきたので、うまくいかなかった。頭の奥に、じんとした痺れがあり、睡魔が襲ってきた。視界が悪く、身動きも取れず、顔に布を押し当てられたまま、アーサーは意識を手放した。


 気がつくと、見知らぬ小屋の中で、椅子に縛られていた。

 両手足を拘束されており、まったくと言っていいほど体の自由はきかない。

 顔を上げると、丸顔の男と四角顔の男が立っていた。罠にかかった得物を吟味する猟師のような目をしていた。

「ここは、どこですか」言いながら、アーサーは辺りを見回す。どこかの部屋のようだった。生活感のない小汚い部屋だ。

「そんなことは」と、丸顔の男が近づいてくる。「そんなことは、どうでもいい」

「どうして俺は縛られているんですか」

「それもどうでもいいだろう」

 どうでもはよくないだろう、と言いかけてやめる。

「状況が読めないんですが」

「無理にすべてを知ろうとする必要はない。なんだって、そうだろ。お前は今、椅子に縛り付けられていて身動きが取れない状況にある。それだけ理解できていれば十分だ」

 丸顔の男は横に立つ四角顔の男に顎で合図する。四角顔の男は小さく頷き、視界から消えた。また、後ろに回り込まれたのだと、アーサーは悟った。

 見知らぬ狭い空間で、見知らぬ男たちに正面と後ろで挟まれ、体は動けない状況だ。

「さて」丸顔の男が、ふうっと息を吐きながら言った。これから大仕事を始めるぞという時に意気込むのと似た「さて」だった。

「お前に訊きたいことがあるんだが」

「俺も訊きたいことだらけなんですけど」アーサーは、自分の立場など気にしていないかのような強気な態度で口をはさんだ。「とりあえず開放してもらえませんかね。これだと落ち着いて話し合いができません」

「何か勘違いしているな」丸顔の男が、四角顔の男に向かって手を伸ばす。指で何かを合図した。

「なんですか」

「俺たちは話し合うつもりなんてない。こちらから訊く。そして、お前はそれに答える。それだけだ」

 頭から何かをかぶせられる。黒い布のようなものに首元までが覆われ、視界は当然、真っ暗になった。目隠しされた状態だ。

「これが何かわかるか」

 耳元で声がする。四角顔の男が話しかけてきたらしい。

 右手に冷たいものが触れた。面が小さいので、細いものだと推測する。四角顔の男がそれを持っているようだ。手に這わせるようにして動かし、小指の付け根のところで止める。

 体中の毛が逆立つ。アーサーは、自分の手に触れているのが何かはわからなかったが、この男たちが何をしようとしているのかを察して、これから自分の身に降りかかるかもしれない不幸を想像し、気分が悪くなった。

「拷問ですか」声が震えそうになるのを抑えながら、アーサーは言う。恐れていることが悟られれば、調子づかせてしまうと思った。

「いや、そんなつもりはない。まあ、でも、お前しだいだ。お前の態度や答え方しだいで、この場所は残酷な拷問室になり得る」

「素直に答えれば、大人しく解放してくれると?」

「もちろんだ。だが、もし逆らうなら、わかるだろ。そいつで、ちょん切っちまうかもしれねえ」丸顔の男は荒々しい口調で言い、「そんなこと、俺たちにさせるなよなあ」と、呆れ気味に笑った。

 まるで、この行いは仕事であるから仕方なくやっているんだと開き直っているふうな言い方だった。

 しかし、その言葉の裏でほくそ笑む彼らの顔が脳裏に浮かんできて、ふつふつと熱いものが胸の内に広がった。

「じゃあ、早速訊きたいんだがよ」

「なんですか」

「聖剣はどこにある」

 やはりか、とアーサーは心の中で溜め息を吐く。

 あの力を求める組織はすでになくなっているとヤマから聞いた。しかし、その残党がいないとも限らないので、注意するようにと警告されていたのだ。

 まさか、あれから何年も経った今になって、襲われることになろうとは。

 聖剣を村に持ち帰ったあの夜以降、特に怪しい人間との接触もなかったため、それがいかに火種となり得るかということも忘れかけていた。警戒心が弱い自分にただ呆れるばかりだ。

「わかりません」と、アーサーは答える。

「まあ、しらばっくれるよな」

「本当に知らないんです」本当は知っているが、言うわけにもいかないので、否定する。

 この男たちがどこまで情報をつかんでいるかはわからないが、何かの間違いで信じてはくれないだろうかと、淡い期待を抱いた。

「だがな、俺たちは知っているんだよ」丸顔の男の声が大きくなる。「お前があれを持っているってことを」

「昔は、確かにそうでした」アーサーは、現在はわかりません、ということを仄めかすように言ってみるが、この男たちに通用するかどうかは賭けだった。

「違う。何年か前に、この街から持ち出しただろ。それだよ」丸顔の男の声に迷いはない。

「人違いじゃなくてですか」

「お前で間違いない」

「心当たりはないですけど、その人間は本当に俺であっていますか」

「俺が質問しているんだ」

「わからないものは、わからないので」

「埒が明かないな」

 丸顔の男は舌打ちをして、おい、と四角顔の男に言った。一瞬の沈黙は、両者が何かを目配せした様子を物語っていた。安っぽい布切れのようだが、視界は完全に遮断されているため、彼らがどんなやり取りをしているのかは、声でしか認識ができない。アーサーは、いつ、この拷問が開始されるのか、気が気でなかった。さっきの合図で、ちょん切られてしまうのだろうか。

「少し痛い目をみるか」丸顔の男の声が、冷たく言い放つ。

 約束が違うじゃないか、とアーサーは叫びたくなる。真偽がどうあれ、質問に答えはしたのだから。

「痛めつけられると、解放されるためだけに嘘をつくかもしれないですよ」

「確認すればいいだけだ。本当ならそれでいいわけだし、嘘ならもっと痛い目に遭う」丸顔の男の声が、左に流れていく。部屋を歩きながら、話しているらしい。

「どうやって確認するつもりですか」

「その場に行くか、そこらにいる人間に聞くかだ」

「確認して、違ったらまた俺に吐かせて、確認して、その繰り返しですか」

「そりゃ、そうだ」

「その間、俺はずっとここに縛られたまま?」

「そりゃ、そうだ」

 アーサーは、自分が相手にしているものが、人間ではない得体の知れない怪物に思えてきた。彼らは、つまり、人間の皮をかぶった何かであり、人の姿をしてはいるものの、内に宿している精神や思想は、明らかに狂気に染まっていた。恐ろしい何かに取り憑かれている。聖剣がそんなにも欲しいのか。あれには、人をそこまで夢中にさせるだけの魅力が本当にあるのか。

「とりあえず、な」

 ぐい、と体を引っ張られ、横倒しになる。右頬が床に触れた。視界が悪く、手足が椅子と一体化しているような状態であるため、受け身も取れなかった。

 肩と頭に衝撃があり、気を失いそうになる。じんと響くような頭痛がする。

「こっちのほうが、わかりやすいだろ」

 丸顔の男の声が、上から聞こえてくる。

 後ろには四角顔の男の気配がある。痛めつける準備は整った、とばかりに息を荒くしている。

「何がですか」

「自分の立場だよ。お前、まだ余裕そうだったからな」

 四角顔の男が、手首をつかみ、小指の付け根に何かを押し当ててくる。鋭い痛みとひんやりとした感覚は、恐ろしい刃物を想像させた。

 それは、二枚の刃が交差する形で組み合わされており、間に挟んだものをちょん切ってしまう構造のようだ。

 そのちょうど間のところに、アーサーの指が、ある。

「まず、この拷問がどんなものなのか、痛みとして知ってもらおうか。なあ」

 下卑た笑い声が、二人の男の口から飛び出る。

 ひょっとして、彼らは嬉々として、この拷問を行なっているのではないか。そんな考えが、アーサーの頭に浮かんできた。

 聖剣の在処がどうだとか言っていたが、いざ拷問を始めるとなると、どこか興奮した様子で、子どもじみた好奇心を剥き出しにしていた。

 まだ本当のことを言うんじゃないぞ。少しでもこの拷問を長引かせろ。楽しませてくれ。

 そんな声が、室内の闇から聞こえてくるようだ。

 聖剣のことなど本当はどうでもいいのではないか。こうやって誰かを痛めつける方法を探しているかのような、そんな悪意を感じた。

 アーサーは体をよじる。しかし、拘束は解けない。体勢が悪く、力も入らない。

 目隠しの布がずれ、丸顔の男の足元が見えるが、状況が絶望的だということしかわからなかった。

 空気がやけに冷たく感じた。刃物に触れている指の部分から、危険信号が送られてくる。いよいよ、ちょん切られてしまうぞ、と。

 鋭い刃が、少しずつ肉に食い込むような感覚がある。

 まだ、痛みはない。が、血は出ているかもしれないという不安があった。

 後ろ手に縛られているので確認ができない。見えないことが、より恐怖を掻き立てた。

 気絶してしまうだろうか。死ぬことはないだろうが、指を失う痛みに耐えられるとは思えない。

 アーサーはぎゅっと目を瞑る。息が荒くなる。手のひらには汗が滲んでいた。

 四角顔の男が、刃物を持った手に力を込めようとした、その時だった。

 ぎしりと部屋の外の方で音がした。

 明らかに、人間が床を踏み込んだ音だった。誰かが廊下を歩いているのだろうか。

 男たちは、はっとして動きを止める。互いに目配せをしているようで、声も出していない。

「今、何か動いたぞ」丸顔の男が、小声で言う。

 四角顔の男は、刃物をアーサーの指から離し、部屋の隅へ素早く移動する。扉の陰に身をひそめるように、壁に背を預け、張り付く。

「そこだ。そこの扉の反対側に、誰か隠れていないか?」

 四角顔の男は扉に近づき、廊下を覗き見る。

 そして、すぐに室内に顔を向ける。

「いや、誰もいない」

 そう言って戻ってきた四角顔の男が、突然、うおっ、と声を上げた。

「なんだ。どうした」

「何かいた。なんだ、これは」

 男たちは部屋の壁に顔を近づける。

 小さな影が、ちょろちょろと動いたのが、アーサーにも見えた。

 影は部屋の壁にくっついていて、男たちの呼吸に合わせて、うねるようにくねくねと動く。

「ただの虫じゃないか」

「虫?これが?」

「いや、違うな。なんだったか」

 この辺りではあまり見ない生き物なんだと、丸顔の男は言った。

「ああ、そうだ。思い出した。トカゲだ、トカゲ」

「トカゲ?」

「知らないのか。まあ、でも大丈夫だ。無害な生き物だ。こいつが襲いかかってくるようなこともない」と、丸顔の男は嘲笑まじりに言う。

「そうか。なら気にしなくていいな」四角顔の男が安堵したように言う。

 ははっと笑う男たちの間に、ぬっと大きな影が差し込んだのが、アーサーには見えた。

 人の姿だ。やはり、誰かいた。

「チャイロイシゴモリムシだろう」

 影が室内にまっすぐに伸び、言葉を発した。

 え、と男たちの口から空気が洩れる。

「知らないのか」

 次の瞬間、四角顔の男の体が宙を舞った。

 倒れているアーサーの体の上を飛び超えるようにして、扉とは反対側の壁に叩きつけられた。

 何が、起きたんだ。

 アーサーはなんとか異変を探ろうとするが、事が起きた扉は頭の反対側で、邪魔な布切れもあってちょうど視認できない位置だった。

 下半身に衝撃がある。

 丸顔の男が突撃してきた。状況的に、現れた謎の人物に突き飛ばされて、体勢を崩したのだろうと察する。

 誰だ、そんなことをするのは。

 丸顔の男にぶつけられた勢いで、再び布切れをかぶることになってしまったのは運が悪かった。余計に状況がわからない。突如、現れた謎の男——声からして、男性だとは判断がついた——は何者なのか。敵なのか、味方なのか。こんなところに来た目的は何なのか。思わぬヒーローの登場に、アーサーはただ困惑していた。


 気がついた時には、すべてが終わっていた。

 通報があったので、すぐに駆けつけたのだと、拘束を解いてくれたヘクターは言った。

 それから部屋の様子を見て、何があったんだと、彼は不思議がった。

 聖剣を欲しがっていた男たちに襲われたのだと説明すると、仲間割れでもしたのかなと首を傾げた。

 しかし、アーサーは知っていた。ヘクターたち王国騎士団がやってくる前に、男たちを倒した謎の人物がいたことを。そのおかげで、こうして無事でいられるのだと。

 謎の人物は、どこにもいなかった。

 ヘクターにそれとなく聞いてみたが、部屋に入ってきた時には、すでにこの有様だったという。拘束されたアーサーと、壁に寄りかかり、気を失っている男たち。他に誰の姿も見ていないとのことだ。

 では、ピンチに駆けつけてくれたヒーローは、何者だったのだろうか。

 部屋を出ようとして、何かを蹴飛ばした。

 アーサーは、視線を足元に落とす。

 ころころと廊下に転がり出たそれを見て、訝しむ。

 銃弾だった。

 なぜ、こんなところに?

 アーサーはそれを拾い上げる。まじまじと見て、ひょっとしてこれは、謎のヒーローが残していった手掛かりかもしれないと考える。

 銃弾を残すヒーロー?

 わざわざ所有物を現場に置いていくなんて考えられないから、うっかり落としたのだろうか。

 おっちょこちょいなんだな、とアーサーは笑う。

「何があったんだ?」後ろから、ヘクターが声をかけてくる。

「ヒーローが来てくれた」アーサーは銃弾を見せながら、言う。

「ヒーロー?」

「あの男たちを倒してくれた人物がいるんだ」

「本当かい、それ」ヘクターは目を丸くする。凛々しい顔立ちの彼にはあまり似合わない子どもっぽい表情だった。

「本当だよ」

「その銃弾は?」

「たぶん、その人が落として行ったんだと思う。こんなところに落ちていなかったはずだから」

「ヒーローの落とし物かあ」ヘクターは愉快そうに、言った。

 銃弾を持っているなんて、怪しい人物であることに変わりはないのだろうが、きっと心根は優しいのだろうなと、アーサーは思った。

 椅子に縛られて、目隠しをされ、手に拷問器具を押し当てられている人間を目撃して、助太刀しようと行動したのだ。見知らぬ人間たちの問題だから関わることはないと、見捨てなかった。面倒だからとそのまま立ち去らなかった。

 本当に、ヒーローのような人物だ。

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