盲信者 6
聖堂内の炎は、鎮まる気配を見せない。
マリナは焼け死んだ少年の体に近づき、腰を下ろした。
慈悲のこもった眼差しで、その遺体を見つめる。
彼は、この世界に未練を残したまま、旅立ってしまったようだ。静寂の世界へと、行くことができたのかどうか、それだけが気になっていた。
炎に包まれ、苦しみの声を上げる彼の姿を思い出した。
マリナに近づこうとした少年の体を、聖堂の炎が、まるで意志を持って動いたかのように覆いかぶさった。ちょうど、マリナを守ろうとするように。我が子を守らんと敵に襲い掛かる情熱的な母の愛のように。
彼の断末魔が、耳の奥にこびりついている。
この世界の、あらゆる生命を恨む男の声だった。きっと、まだ死ぬべきではないと、叫んでいた。
母の仇を。と、憎しみに満ちた心のまま、彼は文字通り燃え尽きた。
黒く屍と化した彼の肉体からは、すでに炎が消えている。役目を終えて、立ち去ったかのように、彼の復讐心を嘲笑うかのように、炎は鎮まっていた。
「安らかに……」
マリナは目を閉じて、呟く。
名も知らない少年に、ナイフを突きつけられ、乱暴に突き飛ばされたりしたが、マリナは気にしてなどいなかった。
彼は、必死だったのだ。
生きることに。抗うことに。自らが選んだ道が正しいものだと思い込むことに、一生懸命になっていた。
その思いが、マリナには伝わってきた。
人間というものは、死を間際にして本性を見せる。
そして、それを感じ取ることが、マリナにはできた。
霊能者や占い師が言う根拠のない助言や予言とは違い、マリナには幼い頃から、それを真の力として発現することができた。
いや、他人にうまく説明できないことを踏まえると、それもまた根拠のない力と言えるだろう。
生まれついての能力なのか。死に瀕する者の心が、魂のようなものが、感じ取れる。会話をすることができる。
かの少年も、死の間際に語ってくれた。魂の声はいつも本音だ。
母の仇を探しているのだと。しかし、本当はそんなものはいないのだと。自分が母を殺してしまった。その事実を受け入れることができないから、逃げていたのだ、と。
十年もの間、偽りの人生を送っていた。
自分勝手な人生だ。そのせいで、犠牲になった者たちのことを思うと、体を掻きむしりたくなる。
でも、自分という存在を生かすためには、こうするしかなかったんだと、少年の魂は涙声で語ってくれた。
声は、もう聞こえない。
死後の人間とは、会話ができない。
マリナの頬を涙が伝った。
誰かのために泣くというのは、妙な気分だった。
ジェイの死は、人生を揺るがすほどの出来事だったが、かの少年の場合は違う。赤の他人だ。今夜、初めて出会った名も知らぬ人物だ。
にもかかわらず、泣いたのである。
自分とジェイ以外の人間には興味を示さないマリナだったが、不思議と込み上げてくるものがあった。
この炎のおかげだろうか。この炎が、いつまでもまとわりついていた偽りの静寂を焼き払ってくれた。
なんだか久しぶりに、曇天の世界が晴れ渡ったかのような心地よさがあった。
炎の壁から、巨大な影が現れた。
見ると、体の大きな男がいた。全身が黒に包まれた不気味な大男だ。
彼は少年を抱えていた。見覚えがある。銃を持っていた少年だ。少年は気を失っているらしい。頭部から血を流していた。
大男は二、三度、咳き込む。
マリナをじっと見ていた。冷たい視線だ。しかし、悪人の目ではないと、マリナは思った。欲にまみれた下品な人間のそれではない。
彼は、自分の中に確かな芯を持った人間なのだと、マリナは見抜いた。
彼の背後で、炎が勢いを増す。いつでも焼き殺すことはできるぞと、待ち構えているようだ。自分の合図一つで、この炎は訓練された動物のように、大男に飛び掛かるのだろうか。
よく見ると、彼の首や腕は炎で焼かれていた。痛々しい赤みが、乾涸びた大地に広がる亀裂のように伸びていたが、彼は苦しそうな顔をしていなかった。
マリナを見つめて、微動だにしないのが、かえって不気味だった。枝にとまり、羽を休めながら周囲を見渡す小鳥のようだと思った。
「君が……マリナ、か」
大男は言い、再び、咳き込む。炎にやられたのか、低い声だった。
「あなたは……?」
「君のお母さんの知り合いだ」
マリナは目を見開く。こんなところで、母のことを語る人間に会うとは思いもしなかった。
その瞬間、周囲にあった一切の音が消え去った。
炎の音。風の音。夜の音。すべてが静寂に侵される。
静寂の世界。そこに、一人で放り込まれた。
なぜだろうか。マリナは、途端に心細くなった。
こんなにも望んでいた世界なのに。追い求めていた理想なのに。
現実と理想のちょうど間に立っている。両方の地に足を踏み入れ、どちらの土の感触も味わっている。
自分は今、どこにいるのだ。それが、わからなくなる。悪い夢でも、見ているのだろうか。なら、覚めないと。私の世界に帰らないと。
「母と、どうして……」
言葉が続かない。何を言えばいいのか、わからなかった。
気持ちの整理がつかない。
父のことも母のことも、覚えていなかった。
親は自分を捨てたということしか知らなかった。生きているのかどうかも。興味さえ、なかったというのに。
どうして、今になって、私の人生に関わってくるのだ。
ジェイがいなくなって、十年前のことを思い出して、涙を流して。
不安定な心理状況にあるというのに、よりにもよって彼らの存在が、弱りきった精神にとどめをささんと迫ってくるとは。
胸に空いた虚構の穴は塞がらない。
「言伝がある」
大男が言う。状況に似合わず、落ち着き払った声だった。
「……いえ、いいです」マリナは、弱々しく首を振った。「私は、両親に捨てられました。物心つく前に。顔も覚えていません。母は、私のことを愛していなかったのです。今更、何を……」
「彼女は、君のことを愛していた。ずっと見守っていると、そう言っていた」
マリナは、腹の奥底が熱くなるのを感じた。
目の前の大男は、なぜ母を語っているのか。私にそれを伝えて、何が目的なのか。
「……そんなこと、信じられるわけがありません!」
マリナは、声を荒げる。自分が衝動的に湧いた情に支配されていることに、新鮮な感覚があった。
「だいたい、あなたは誰なんですか!」
「もはや、何者でもない。二度と会うこともないだろうから、覚えてもらわなくてもいいよ。ただ、君のお母さんの知り合いということだけだ」
彼の煮え切らない態度が、マリナは気に入らなかった。
「百歩譲って、あなたが母と知り合いというのが本当だったとしても、私を愛しているだなんて……そんなこと母が思っているはずもありません!あの人は、私を教会に捨てて、消えた人ですよ」
こんなにも感情的になって叫ぶことが、これまでにあったかと、マリナ自身、驚いていた。
生まれて初めての体験だった。
体中が熱に満たされている。自分の意志とは別に、もう一人、指揮官のような存在が、頭の中に住み着いているような気分だった。
それは本来の意志とは関係なく、怒鳴り声を上げている。不思議なことに、その声に身を委ねることが、自然と実行されてしまう。体が楽になる。
「真実だよ。彼女は君のことを愛していた。大切に思っていたんだよ」大男は淡々と言った。
「嘘でしょう」マリナは肩で息をする。「母は――あの人は、私の前からいなくなった。一度だって、抱きしめてくれなかった。頭を撫でてくれなかった。褒めてくれなかった。名前を呼んでくれなかった。きっと、私という存在が邪魔でしかなったのでしょう。今もどこかで、のうのうと生きているんです。私の顔も忘れて、平穏な日々を送っているんです」
「マリナ……」
大男は苦し気な表情で言った。そんなふうにマリナの目には映った。
「彼女は、どうしても君に伝えたいと言っていたんだ。これは彼女の本心からの言葉なんだ」
「……それなら、母に会わせてください」マリナは、上目遣いに大男の顔を睨む。「知っているんでしょう。母が今、どこにいるのか。私を、あの人のところに連れて行ってください。私のことを本当はどう思っているか、本人の口から直接、聞きます」
「もう、この世にはいない」大男は、ゆっくりと口を開ける。
マリナは、固まったまま動けなくなった。彼のその言葉に、体の動きを封じる呪いでもこめられていたかのように、それを聞いた途端、一歩たりとも、声一つ吐き出すことさえも拒絶された。
そして、彼は、この言葉だけは何としても伝えなければと重大な使命感があるかのように、確実に——そのことを伝えるために、わざわざ教会へとやってきたのかもしれないとさえ思わせた——マリナに、言い聞かせる。
「すべて、真実だ。そしてこれは、彼女の最期の言葉なんだよ、マリナ」
————
目を開けると、小屋の中にいた。
いつのまにか眠っていたらしい。
頭が痛い。体を起こし、腕を伸ばす。立ち上がり、外に出ると、聖堂の方を見やった。
炎はすっかりと消えていた。
何事もなかったかのように、その存在をしんと潜めていた。
マリナは、しばらく放心して、夜闇に立つ聖堂の影を眺めていた。
聖堂の炎。夜の静寂。月の光。
十年前のことを、思い出す。
ジェイと出会い、新しい人生が始まったあの夜は、とても特別な夜だった。
それまで見えていたものすべてが灰と化し、醜くなってしまった。生き物は絶え、植物は枯れる。街は倒壊し、空は裂かれる。
新たに示された理想の世界は、その悉くを蝕み、マリナの中で絶対的な位置付けとなった。
それと同じことが、今夜、再び起こった。
聖堂の炎に包まれたことが原因かどうかは定かではない。が、十年前のあの日から、ようやく帰還した。
私は囚われていたのだ、とマリナは感じた。
そして、あの日以来、忘れていたものを、失っていたものを、思い込んでいたものを取り戻すことができたような気がした。
マリナは困惑している。
理想としていた世界が荒んで見え、主の輝きも届かなくなったことに。
この十年間、自分が生きていた世界が、異界の地で見た夢だったのだと、気付かされたことに。
——もう、私がやることは何も……
マリナは小屋に戻った。
床に寝転んだままの冷たくなったジェイの体を引きずって寝室まで運び、毛布をかけてやった。
心なしか穏やかな表情をしている彼を見て、マリナは微笑む。白い頭をそっと撫でた。
ジェイとの別れを終え、ダイニングに戻ると、テーブルの上に置きっぱなしにしていた鶏肉の入った袋を手に取り、調理場に向かう。
台の上には、大きめの鍋が一つと、カットされた野菜たちが無造作に置かれていた。
買ってきた鶏肉を切る。
途中、涙で視界がぼやけて指先を傷つけた。痛みがあった。
——私は、生きている。
それを強く実感した。
身近な者の死。知らない者の死。十年前の悲劇。母の愛。自分の生きる意味。
ジェイの言葉が脳裏に蘇る。
自分を、忘れるな。
いかなる時も、自分らしくあれと、彼は言いたかったのだろうか。
——私は、自分らしくいられていますか?
——いつも通り、振る舞えていますか?
調味料を取り、鶏肉に振る。野菜と共に鍋に入れ、スープを作る。
完成したスープは、たっぷり二人前はあった。マリナは少食だったが、今日は、しっかりと食べる必要があると思った。食事が素直に喉を通る自信はなかったが、食べておかなければという思いは強くあった。生きるために。
小さな容器に取り分け、食卓に並べる。
クロスの敷かれたテーブルには、食器が二人分、用意されていた。そのうち一組を片付ける。
マリナは、ジェイがお気に入りだった安楽椅子を寄せ、自分の席とテーブルを挟んで向かい合う形にした。
席に着き、スプーンを手にして目を閉じる。
スープを口にした。
美味しい。いつも通りだ。慣れ親しんだ味だった。
マリナとジェイは、日毎に交互に料理をしていて、二人ともが同じような作り方をするので、似た味付けになることが多かった。どちらの料理でも、自分が作った時と相手に作ってもらった時とで違いはなく、美味しく食べることができる。その時の安心感のようなものがあった。何も変わらないスープの味には、懐かしさの温もりが宿っていた。
二口目をすくうと、スプーンを持つ手が震えていることに気づいた。
どうしてなのかと、自分の手なのにと訝しんでいると、唇も震えていた。
震えは、体の内側からきていた。自分の中にある核たるものが、怯えているのだとわかる。自分の存在意義を見失いかけている。私は私であるはずなのに。私自身が見えない。そのことが怖いのだ。
寒くはないのに、体の震えが止まらなかった。
その震えは、寂しさを伝えているのだと、マリナは理解した。
二口目のスープを口にする。
聖堂でのことを思い出す。
母の死は、それほどショックではなかった。元々、いないも同然だったからだ。
けれど――
これで、私は天涯孤独の身だ。この世界に、ひとりぼっちだ。
孤独からくる心の痛みは、病とは違って治らない。毒のように侵食され、立ち直ることができたとしても、その傷跡は深いところに確かに染み付いたままで、塞がることはない。どんなに回復したとしても、いつか何かの拍子に、また傷がつく。
そんな自分を、受け入れることができるかどうか。それでもと、前を向いて生きることができるかどうか。自分を認めてやる強い心が大切なのだと、ジェイは言いたかったのだろう。
マリナは、そう考えるともなく考えた。
——自分を、忘れるな。
ジェイの言葉を、頭の中で反芻する。
自分らしく、生きる。
私らしく、生きる。
それは、孤独な私を愛してやることに他ならない。
ジェイの愛に、母の愛に、シスターたちの愛に、世界の愛に、そして、私自身の愛に、誠実にこたえて、まっすぐな気持ちで受け取らなければならない。そうすることが、私らしく生きる私の始まりなのだ。
ジェイの言葉を繰り返しているうちに、体の中から何かが抜けていくような感覚に襲われた。
その何かは、これまでのマリナを形成していたかたちを持たない、そして幼稚な何かで、静寂の世界を盲信する彼女の影でもあった。
――静寂の世界を盲信する私は、もういない。
マリナは直感した。
今宵、あの聖堂の炎と共に、幼稚な私は月の向こうへと消えていったのだ。今の私は、長い悪夢から覚めていて、もっともピュアな頃の心を取り戻している。何もかもが純粋な私だ。
三口目のスープを、すくう。
口に運び、あれ、とマリナは思う。味が薄いな。
目から涙が溢れた。たくさんの涙だった。今夜はよく涙が流れるなと、マリナはそう思った。
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