追憶 2

 記憶の中の父は、いつも優しく微笑んでいました。

 それは、自分を好意的に見せようと誰にでも愛想よく振る舞っている、いわゆる軟派な人間とは違い、あの人の素の性格だったのだと思います。

 つまり、そういう穏やかさを持つ人なのです。

 少なくとも、俺たち家族の前では、そうでした。

 しかし、今思えば、あの人は無理をしていたのかもしれません。もちろん、当時の俺に、そんなことを悟らせるような素振りは見せませんでした。なので、やはり、父が殺し屋だったという事実を、素直に呑み込むことができない自分がいます。

 けれど、よくよく思い返してみれば、心当たりがないわけでもないのです。

 ――あの日、月の綺麗な夜。

 父は、俺の目の前で人を殺しました。

 今の今まで、すっかりと忘れていました。かつて殺し屋だったと聞き、合点がいった、という具合です。その記憶の断片的な喪失は、意図的なものだとも言えます。忘れたかったのかもしれません。信じたくなかったのかもしれません。

 でも、思い出してしまいました。

 だから、それも合わせて話そうと思います。

 十年前のあの夜、俺が見て、聞いて、感じたことを。俺の視点から、話そうと思います。




 ――――




「アーサー、こっちに来てごらん」

 部屋でのんびりと本を読んでいると、父の声が聞こえました。俺は急いで玄関を飛び出し、家の裏にある物置小屋へと向かいます。

 物置小屋の前に、父が立っていました。俺と目が合い、手を振ります。

「どうしたの、お父さん」

「ほら、これ」

 俺は父が指した先にある、拳くらいの大きさの石を見ました。

「何、この石」

「さっき見たんだ。ここに隠れたのを」

 父は声をひそめて言いました。

「隠れたって何が?」

「それは、自分の目で確かめてみなさい」

 変な虫でも見つけたのかな。俺はその場に屈み、両手でそっと石に触れ、勢いよく持ち上げました。

 すると、黒ずんだ地面を滑るようにして、茶色の何かが素早く動き出しました。

 その何かは虫ではありませんでした。見た目は、頭、胴、手、足がはっきりとしていて、よく庭を飛び回っていた、ちろちろと鳴くものたちとは姿形が異なっていたし、何より体が大きい不思議な生き物でした。目で追えないほどではないけれど、手で掴み取ろうとするには苦労しそうなすばしっこさで、あっという間に物置小屋の中に逃げ込みます。

「何、今の生き物」

「あれはね、トカゲという生き物だよ」

「トカゲ?」

 それは名前なの、と訊くと、父はふふと笑いました。

「確かに、少し変わった名前をしているかもね」

「もっと似合う名前があるんじゃないかな」

「へえ、それじゃあ、アーサーだったら、あの生き物になんて名をつける?」

「うーん、そうだな」

 俺は真剣に頭を悩ませ、考えました。まるで、ここで発表したのが、とある王国で新たに誕生したお姫様の名前の候補に選ばれるかのような誠実さで、考えました。

「チャイロイシゴモリムシ」

「茶色石籠り虫?」

「うん、チャイロイシゴモリムシ。いいでしょ。石の裏に隠れてたから」

 俺が言うと、父は愉快そうに笑いました。傑作だ、と心底、楽しそうに。

「いいじゃないか、それ。それじゃ、今日から僕たちの間ではそう呼ぼう。トカゲと軽く言うよりも、チャイロイシゴモリムシと、ちゃんと特徴を述べた方がわかりやすいし、チャイロイシゴモリムシも喜んでいると思う」

「だね、チャイロイシゴモリムシ」

「チャイロイシゴモリムシ」

 こんな具合で、俺と父は、日々、くだらないことで笑い合い、仲のいい兄弟のような距離感で過ごしていました。

 市場に買い物に行く時も一緒だったし、近くの森を探検したり、虫取りをしたりして遊ぶのも一緒です。勉強も父から教わりました。俺の知識や思考は、あの人からの影響が大きいのです。

 ほかにも、少し異質ではありましたが、体の運動だと称して、まるで喧嘩のような、人間との戦い方のような体術を教えてくれることもありました。それは、護身のための術のようでした。

 少しそのことについて触れておきましょう。今思えば、これが父の正体に気づくための一番のヒントでした。

 俺はその運動のことを、稽古と呼んでいました。ただ、何のための稽古なのかはよくわかっていませんでした。なので一度、父に訊ねてみたことがあります。

「複数人を相手にして逃げる方法、自分より力のある相手に膝をつかせる方法、相手の持つ武器を奪う方法って、こんなの何の役に立つの?」

 その時、父はいつもよりちょっとだけ、真剣な顔をして言いました。

「わからない。ただ、役に立たないからといって簡単に切り捨てたり、距離を置いたりするのは、いいことばかりじゃないんだ。知識は荷物にはならないんだから。知っておくだけでも、違うものだよ」

「そういうものかな」

「そういうものさ」

 その稽古というのは、三日に一度ほどの頻度で行われました。

 当時はあまり深く考えてはいませんでしたが、元殺し屋の稽古なわけです。易しいはずもありません。それに父は本気で取り組んでいたのです。たとえば組手をした時には軽く薙ぎ払われたり、地面に押さえつけられたりと、幼い体ながらに散々な目に遭いました。

 そんな俺に、父は、覚えておいてほしいことばかりだけど強要はしないから、これが苦になるならやめるよ、といった類のことを何度か言ってくれました。しかし、俺には母譲りの負けず嫌い精神があったので、絶対に逃げたりはしないと真面目に稽古に取り組んでいました。そうして、ちょっとずつ技術を身につけていき、自分の体の動かし方もうまくなっていきました。それこそ、路地裏で襲ってきた追い剥ぎたちを迎撃し、ナイフを奪い取って、逃げ切ることができるほどには。

 父は、俺を殺し屋にしたかったのでしょうか。

 今や知ることはできませんが、そうであったのだとしたら、あの人が俺に向けてくれていた優しさは全部、紛い物であったかのように見えてきて、悲しくなります。そうだったわけではないと信じたい自分と、そうだったのではないかと疑っている自分とで、半々といったところです。

 さて、話が逸れましたが、俺は物置小屋で、あるものが目に留まりました。

 奥に寝かされている細長い箱です。

 小屋には他にも色々と荷物が置かれてはいたのですが、明らかにひとつだけ、物々しい雰囲気を纏っている箱でした。別の世界から届いた贈り物のような。その物置小屋にはあまり近づいたこともなかったので、箱を見たのはこの時が初めてです。

 そして父は、俺が箱の存在に気づいたことに、気がつきました。

「アーサー」

「なに?」

 俺は隣にいる父の顔を見上げました。

 父は、俺が訊ねようとしていることを先読みして理解したふうに、ぴくりと眉を動かし、口を開きます。

「その箱には、とても大切なものが入っているんだ。僕が、ずっと守ってきたものだ」

「守ってきた?」

「これからだってそうさ。ただ、もし今後、何かがあった時――」

 寒気がしました。背筋を凍った指先でなぞられている感覚です。

 父の声は、真夜中のように深く暗いものでした。

「何かって?」

「……何か、よからぬことだよ。その時は、この箱の中にあるものと、それから、お母さんのことを頼んだよ」

 父が何を言っているのか、この時の俺には理解ができませんでした。

 十年経った今でも、その真意は、あの人の考えは、よくわかりません。しかし、父が、俺に何かを託そうとしてくれたことだけは、伝わってきました。

 そこには、殺し屋としての悪意ではなく、あの人の、父親としての正義があったように思います。

「この箱には、何が入っているの?」

 俺は思い切って訊ねてみます。

「聖剣だよ」

「聖剣?」

 俺は、ぽかんと口を開け、父は、ふうと息を吐きました。

「誰の手にも渡しちゃいけない。特に、これを欲している者にこそ、与えるのは危険なんだ」

「それって……」俺は、目を輝かせます。「おとぎ話みたいだ」

 聖剣が題材となった、とあるおとぎ話のことを、俺は言いました。

 願いを叶える力がある聖剣を巡って、人々が争い合う物語です。それはおとぎ話と呼ぶにはいささか乱暴で、正義や悪の描き方が子供向けではないため不評だったそうですが、その曖昧さや後味の悪さが、俺は好きでした。他とは一風変わった様子が、勧善懲悪を謳わない潔さや王道の物語への天邪鬼じみた態度が、世界に限りなどないという可能性を教えてくれ、俺の視野を広げてくれたからです。

「そうだね」父は、そっと言います。「だから、ここに隠しておかないと。もしかすると、誰かが奪いにくるかもしれないからね」

 父の声が、深い洞窟の中にいるみたく頭に響いて聞こえました。

 その体験が、どうも現実離れしていて幻想的で、俺は眠っているような気分になりました。

 その時、俺は、その姿は目撃しませんでしたが、箱にはいっているものが父にとって、いかに大切かを知りました。

 これこそが、俺の探し求めている聖剣なのです。

 ――そして、あの夜を迎えます。


 目が覚めると、寝室には知らない男の顔がふたつ、ありました。

 本当は三人いたのですが、俺がまず見たのは二人です。

 男は、片方が丸く、もう片方が四角い形をしていました。顔の輪郭のことです。丸い顔をした男と、四角い顔をした男。どちらも細身でした。背もそれほど高くなく、頼りない感じです。とても、粗野な強盗とは思えないくらいには。

「起きたかい」四角い顔の男が言いました。

「誰ですか」

「知らなくていい」丸い顔の男が答えます。

「どうして、ここにいるんですか」

 ここは俺の家で、しかも寝室ですよ。そしてあなたたちとは初対面です。そう言おうとして、身体を起こし、視線を動かすと、廊下に母の姿が見えました。後ろには、顔色の悪い男がいます。ナイフの先を母に向けていました。

 異様な事態にあることは瞬時に理解できました。

 窓の外を見やると、星空が広がっています。旧友に会ってくると出掛けて行った父は、まだ帰ってきていませんでした。

「さて、ついてこい」

 俺は二人の男に肩をつかまれ、立たされます。

「どこに」

「いいから」母の後ろにいる男が、言います。「黙ってついてきてくれ。悪いようにはしないから」

 俺と母は、まるで罪人が処刑台に連行されるように男たちに見張られながら、歩きました。母を先頭に、ナイフを構えた男と、その後ろに俺、続く男が二人と、列をつくっています。

 俺たちは、物置小屋の前までやってきました。

「聖剣はどこだ」

 ナイフを持った男が、母に言います。

 その時、父の言っていたことを思い出しました。彼らは、聖剣を奪いにきたやつらなのだ、と。

 奥にある箱がそうだと、母は躊躇いながらも、答えました。状況的に、そうせざるを得ませんでした。おそらく、母一人であったなら対処もできたのでしょうが、俺が人質に取られているため、下手に行動を取ることができなかったのだと思います。

 ナイフを持った男が振り返り、俺の後ろにいる男の一人に、顔だけを動かし何やら指示を出しました。

 四角い顔の男が、小屋の奥に入ります。箱を引っ張り出してきました。蓋を開け、中から薄汚れた布で包まれている細長いものを取り出します。

 それが、昼に父から聞いた聖剣でした。

「これ、本物なのか……」

「わからん。だが、王都に持ち帰れば、俺たちの役目は終わりだ。報酬もたんまりあるらしい」

「けど、もし本物なんだとしたらよ……」

「おい、妙な考えはよせ」

 三人の男たちは顔を寄せ、何やら相談を始めました。

 俺と母のことは完全に忘れている様子でした。こちらに背を向け、手に入れた聖剣を囲んでいました。

 これは都合がいい、と俺は思いました。

 なぜかというと、この時、窮地を脱した安心感よりも、彼らに聖剣を渡してはならないという使命感が、俺の中に生まれたからです。

 こいつらから聖剣を取り返さなければ。

 父との約束を守らなければ。

 母は、男たちが自分たちのことを解放したのだと、あるいは、油断して目を離したのだとみて、俺の元に駆け寄ってきて、宝物を守る子どものように、両手で大事そうに抱きしめてくれました。

 しかし、俺は母の腕をほどきます。

「見つけたか」

 家の方から、もう一人、別の男が現れました。

 暗くて顔はよく見えませんでしたが、その男は焦っていました。しわがれた声を張り上げます。

「やつが戻ってきた。とっとと逃げるぞ」

 俺は、男たちが動揺した隙を見逃しませんでした。

 ナイフを持った男にさっと近づき、腕をつかみ、手首を背中に押し付けるようにして捻ります。

 男は不意を突かれて、ぐうっと悲鳴をあげました。ナイフを落としたので、俺はすぐに拾い上げます。

 頭に血がのぼっていたのです。俺は拾ったナイフを振り上げ、男の背中を目掛けて、刺そうとしました。何も、深いことは考えていませんでした。俺の心には、虚無がありました。いざという時、人はここまで己を見失うことができるのだと、驚かされたくらい、自分でも拒みたいほどの闇でした。

 その時、母が、俺の名を叫びました。

 一言、俺の名を呼んだだけでしたが、その声音からは、どうか一線だけは超えないでほしい、と懇願している態度が感じ取れました。

 俺は振り下ろした腕を、ナイフが男の背に刺さる寸前のところで止めます。

 意図して止めたというより、手から力が抜けた感覚でした。明確に殺意などを抱いたつもりもありませんでしたが、聖剣を取り返すために、この男たちをどうにかしなければと躍起になっていたのは確かだったのです。それが、母の一声で、我に返った、という具合でした。俺は今、人殺しをしようとしたのか、と。

 すると、異変に気付いたもう一人の男が、俺に蹴りを入れます。丸い顔の男です。

 当たりどころが悪かったといいますか、腹の深いところまで蹴り込まれたせいで、俺は、一瞬だけ呼吸ができなくなりました。その一瞬で、目が眩み、足元がおぼつかなくなり、尻もちをついてしまいます。

 ナイフは手放していました。

 続けて、丸い顔の男に顔を蹴られ、口内に痛みが走りました。口の中にどろりとした液体が溜まります。苦い味もしました。

 母が俺の名を呼びながら、駆け寄ってきたのがわかりました。しかし、俺が右腕を捻った男が再びナイフを手にし、俺の頬に先を当てました。

 それを見て、母は動けなくなります。

 冷たいものが、ぺたりと肌にまとわりつき、不快でした。自分では気づいていませんでしたが、血も出ていたはずです。

「ふざけんなよ、おい」

 ナイフを持った男が、俺の体をぐいと引っ張り上げ、顔を殴ります。

 俺は血を吐き出し、背中から倒れました。

 近くにいた母が支えてくれて、体を起こすと、少し眩暈がしました。あと後頭部に痛みも。

 俺を殴った男はナイフの先を向けてきて、「おとなしくしていろ」と言います。「手間をかけさせるな」とも言いました。

 ああ、大変な事態になったな、と俺は思いました。

 勝手な行動をとって、母に迷惑をかけたことを後悔しました。

 見ると、聖剣を持っていた男と、彼らを呼びに来た男の姿が消えています。

 聖剣を持って、とっくに逃げてしまったのです。

 聖剣を、守ることができなかった。父との約束が。

 そして、憤りの感情で無理やりに抑えていた恐怖が、胸の中にふつふつと湧き起こってきました。

 もしかして、俺は殺されるのか。

 生まれて初めて、抱いた感情でした。

 身の危険を感じて、どうすることもできなくなってしまう恐ろしさ。眠れない夜のような底知れない寂しさがありました。


 それは、瞬く間に起きたことでした。

 ナイフを持った男の頭が勢いよく、くるんと横に回ったかと思うと、幹を折られた植物のごとく、男の体は溶けるように、その場に崩れ落ちました。

 顔が見えましたが、生気が失われていました。首が折れていたようです。あっさりと絶命したのだと、悟りました。

 顔を上げると、父が、そこに立っていました。

 俺を見ています。どんな色でもなく、無色透明な表情で、静かに。

 その顔には感情が宿っていないように見え、父の姿をした人形なのかとも思いました。

 しかし、そんなはずもありません。

 傍には、もう一人、丸い顔の男の体も横たわっていました。

 死体でした。同じように、首を折られています。

 俺は、何かを言おうとしたのだと思います。けれど、言えませんでした。

 佇む父は、別人に見えました。

 俺の知っている人ではない。正直、恐れの念を抱きもしました。




 ――――




 そして、目の前で起こった現実を受け入れたくなくて、精一杯、拒もうとしました。そのせいか、俺はこの夜の出来事をほとんど忘れていたようです。

 かつて、父は殺し屋だったのだと聞いて、頭の片隅に隠れていた記憶が、長い眠りから目覚めました。

 十年前のあの夜以来、父は行方をくらませ、一度として家に帰ってきてはいません。

 あの夜、聖剣を取り返すために、王都に向かったのでしょう。でも、聖剣を奪いに来た者たちの粗暴さから、何か不幸に見舞われたのではないかと、父とはもう二度と会うことはできないのではないかと、そう思いました。

 母は、生きる目標をなくしてしまったかのように、心身共に弱りきってしまいました。

 初めこそ、母は俺の前では気丈に振るまうようにしていましたが、夜になると一人で泣くことが増え、ついには、生活に支障をきたすほど体調を悪くしてしまいました。

 俺が、なんとかしなければ。

 父の意志を受け継ぎ、聖剣と、母のことを守らなければ。

 気づけば、十年という長い月日が流れていました。

 村の人たちの手助けもあって、母も回復して、俺の生活もかなり落ち着いてきました。

 もう父とは会えないのだろう。しかし、せめて聖剣だけでも、父が守ろうとしていたものだけでも。

 俺の中に、決意がみなぎってきました。

 そこで、俺は思い立ったわけです。

 王都に、十年前に盗まれた聖剣を探しに行こう、と。

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