盲信者 1

 王都レグルス、西区の端には、古い教会跡があった。

 かつて起きた大火災により建物は焼け落ち、壁や辺りの地面は焦げ、今や見窄らしい姿となっているが、高さを残した入り口の佇まいや、奥に見える祭壇の存在感は顕在だった。

 当然、人は寄り付かない。

 西区のはずれにあるその一帯は、ゴーストタウンさながらに、静けさによる寂しく冷たい空気が漂っていた。


「いけません」と、マリナは言う。「いけませんよ」

 彼女は聖堂にいた。大火災で天井のほとんどが崩れ落ちているため、聖堂内からでも空が拝める。

 雲一つない、晴れた夜だった。

 星が煌めき、夜空に線を描く。流れ星は、それを見た者を幸せにし、また願いを叶えてくれるという言い伝えがあった。

「助けてください」と、男は声を上げようとして顔をこわばらせる。

 許しを乞うように必死な形相で、両手を合わせて祈る。頭上の夜空に流れる星を見つけて、男は助けを乞うたのだ。

 男が聖堂にやってきたのは、少し前のことだった。

 顔を苦痛の色に歪め、息を切らしながら現れた。男はマリナを見つけるなり、大声を出した。

「おい、あんた。ここに金髪のガキが来なかったか!?」

 男は片足を引きずっていた。血を流していたので、その男がガキと言った人物にやられたのだろうということは想像できた。

 祭壇と向き合っていたマリナは、くるりと振り返り、男のもとへ歩く。

「なあ、聞こえてんだろ。あんたに聞いてんだよ」

「いけません。いけませんよ」

「は?」

 男が油断した隙を狙って、マリナは男が引きずっていた足を蹴りつけた。

「いってえ!」

 男が声を上げ、その場に崩れ落ちる。足を庇うように抱え、息を荒くした。

「静かに」

 マリナは男の口をぐいと押さえつけた。

 もう片方の手は指を一つ立て、自分の口元に添える。

「主は静寂を求めています。静寂とは、すべてのはじまりであり、終わりでもある。私たちが生まれた時、そして死にゆく時も静寂はそこにあります。わかるでしょう?静寂とは、あるゆるものの母なのです」

 男が体を震わせる。口を抑えられ、息が出来ず悶えている。

 しかし、マリナは手を離さない。そのまま、じっと待っていた。

 男が静かになるのを、ただ待っていた。

 男の手がマリナの首元を狙って伸びる。肩を勢いよく掴まれたので体勢を崩しかけたが、すぐに男の足を殴りつける。男の体がびくんと跳ねる。肩を掴んだ手の力が抜ける。するりと、手が床に落ちた。

 苦しそうな顔をつくり、男が目で訴えてくる。

「助けてくれ」

 男は、声にならない声で言った。

「祈りなさい。主はあなたを救ってくれます」

 マリナは、男の口を抑える手に力を入れる。

「ただし黙祷です」

 男の体が痙攣し、暴れる。白目を剥き、口から泡が噴き出る。

 構わず、マリナは男の口を抑え続ける。

 男の悶える声が、手にじんと響く。獣が出す断末魔にも似ていた。本能的な死を感じ取った生き物は、その前に声を上げようとするらしい。

 やがて男は動かなくなった。

 静寂が、辺りを包んだ。

 マリナは満足した顔で、しかし寂しそうに男の顔から手を離す。

「マリナ」

 しわがれた声がした。聞き慣れた声だ。

 マリナは顔を上げる。腰を曲げた老人が現れた。

「ジェイおじさん」

「何をしているんだ?」

 ジェイと呼ばれた老人は、聖堂内に足を踏み入れる。ゆっくりとマリナのそばに歩み寄ると、足元に転がる男を見て、眉を曲げた。

「彼を救いました」

「その男は死んでいるんじゃないのか」

「主は彼に、手を差し伸べたはずです」

「そうか」

 半ば呆れたように、しかしマリナを傷つけないように配慮しながら、ジェイは言う。はあ、と息を吐く。白い空気が、ジェイの口から飛び出た。

「あとは俺に任せて、おまえさんは繁華街に行って鶏肉を買ってきてくれんか」

 子供を宥める優しい顔つきで、ジェイは言った。

 ジェイは時々、こういった顔をする。それが、マリナには不思議だった。どこか悲しげで悔やんでいるような、それでも諦めないと決心しているような、儚い雰囲気のある顔だ。

 それは、守るべきものがある大人たちが見せる表情だと、マリナは知っていた。

「わかりました」

 ジェイから、鶏肉の代金を受け取る。

 聖堂を出て、教会跡から離れる。

 そのまま西区の繁華街へ向かおうとした時、後ろからジェイに声をかけられた。

「今晩は冷えそうだ。俺のコートを着て行くといい。いつもみたいに修道着姿のまま街中をうろついてりゃ、風邪をひくだろうからな」

「ありがとうございます」


 ジェイという老人との関係性については、保護者と孤児に過ぎない。それでも、ジェイはマリナのことを、実の娘のように可愛がっていたし、マリナも彼のことを父のように慕っていた。

 もともとは教会に孤児院があり、そこでシスターたちが、孤児であるマリナの世話をしていた。

 物心つく前から親に捨てられ、教会で育てられたマリナにとっては、彼女たちが唯一、家族と呼べる存在だった。

 しかし、ある日、見知らぬ男が押し入ってきた。

 男は狂気に満ちた顔つきで、大きな刃物を振り回し、シスターたちを脅した。

 男の目的は籠城だった。

 何者かから逃げてきたらしい。危害は加えない、かわりに、少しの間だけ匿え。と、抵抗のできないシスターたちに無理やり言って聞かせ、従わせた。

 その時マリナは、ただ祈っていた。

 ああ、うるさい。だから静かにして。

 怒鳴って命令する男の声。シスターの泣き叫ぶ声。風の音。炎の音。全部、耳障りだから、みんな黙っていて、と。

 一瞬、意識を失ったような感覚があった。

 そして気づいた時には、これまた見知らぬ老人に抱きしめられていた。それが、ジェイだった。

 何があったのか、訊ねるとジェイは同情を声に滲ませ、ゆっくりと説明をくれた。

 振り返ると、真っ赤な炎が夜の中に輝いていた。がらがらと音を立て、教会は崩れる。

 どうして教会が?

 みんなは?

 私は助かった?

 あとからジェイに聞いた話だと、炎は男もろともシスターたちをも焼き殺したとのことだった。

 男は何者だったのか。どうして教会にきたのか。どうして自分だけが助かったのか。

 ジェイから話を聞いた時、そんな疑問が次々と浮かんでいったが、すべてを結論づける答えが、マリナの中で芽生えた。

 ――主が、救ってくださったのだ。

 いつかシスターが言っていた。主は我々に試練を与える。それはとても険しく、困難な課題だ。しかし、それを乗り越えた時にこそ、主は奇跡を起こしてくださるのだ、と。

 つまり、押し入ってきた男は、主が与えた試練だった。

 シスターたちは慌てふためいていたが、マリナは静かに祈っていた。平穏な世界を。

 それは、怒りも悲しみもない静寂の世界。

 主は選んでくださった。私が理想とする平穏な世界を。だから、静寂は訪れたのだ。

 どこからか炎が現れたのも、燃えるはずのない教会の建物に炎が上がっていたのも、すべて主が見せてくださった奇跡なのだ。

 それから、マリナは主を崇めるようになる。

 姿のない光を。影のない存在を。盲目的に信仰するようになった。

 静寂の世界はすべてを救う。万物を包む静けさを求める姿勢こそ、世界の真理である、と。


 教会跡から街中へ近づくと、木造の小屋が見えてくる。

 マリナとジェイが、二人で暮らしている家だ。こぢんまりとしていて、二人で住むには明らかに狭いのだが、気にするほどでもなかった。

 寒い夜にも負けない温もりがあったから、マリナはむしろ、その家を気に入っていた。

 玄関口に掛けてある大きなコートを取り、羽織る。

 小屋から進んだ先の茂みを通り、林を抜けると、整備された道に出る。そこから少し歩くと西区の通りへ繋がっている。

 通りは人で賑わっていた。もう日が沈んでかなり経っている。それなのに、この街はいつ眠るのだろうか、とマリナは辺りを見回しながら思った。

 早足で繁華街へと向かう。

 人が多いところは好きではなかった。マリナは路地裏を通り、繁華街へと続く道を進んだ。

 すると、どこからか、女性の悲鳴が聞こえてきた。

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