殺し屋 3

 少し遡る。

 それはちょうど、聖剣を探す少年が宿屋の管理人と顔を合わせ、静寂の世界を盲信する少女が店先で鶏肉の購入に頭を悩ませ、殺人鬼が派手な服の青年を殴り飛ばした時だ。

 ヤマから受け取った紙を頼りに、バレットは繁華街の端にある空き家を訪れていた。

 ここに、護衛対象である人物がいるらしい。

 バレットは、護衛する人物の特徴が記された紙をもう一度、見返す。

「黒いコート、黒いニット、黒いブーツを身に着けた大柄な男。右足を引きずるようにして歩くのが特徴、か」

 わかりにくいな、と内心で吐き捨てる。そんな男、街中に繰り出して顔を触ればそこら中にいそうだ。

 名前は不明。そして、本人には気づかれないようにしてほしいとのことだ。つまり、接触は禁止されている。ずいぶんと面倒な依頼だな、と思う。

 さて、護衛対象はどこにいるのだろうか。バレットは通りから空き家の敷地内を覗いた。

 空き家は閑散としていた。簡易的な柵で、通りから仕切られている庭には芝が生い茂っている。もうずいぶんと手入れがされていないのだろう。

 当然、人が住んでいる様子はない。

 時々、ホームレスや迷い込んだ野生動物が住み着いていないか不動産が見回りに来るらしいが、それにしても生き物の気配はまったくない。本当にこんなところに護衛対象である人物はいるのだろうか。バレットは疑いの念を持ち始めた。

「まさか、いたずらなんてことは――」

 と、気が抜けたのか、ふっと呟いた時、視界の端に揺れる影が見えた。

 はっとして息を潜める。音を立てぬようにゆっくりと、ナイフの柄に手をかける。

 暗闇の中でも獲物を逃さない狩りの得意な獣のような気持ちで、じっとしたまま、感覚は鋭く研ぎ澄まし、バレットは影を目で追った。

 月明かりに照らされ、その巨躯が露わになる。

 谷底のような深い黒のコートに身を包み、頭にはニット帽をかぶっていた。その人物は、早足にもかかわらず足音を立てず、意図的にというよりはそういった歩き方なのだが、人気の多い大通りへと向かっていった。

 ――何者だ。

 緊張が走る。これまで対峙したどの相手よりも手強い雰囲気を感じ取った。

 しかし、バレットはすぐに、その影の正体こそが自分の護衛対象である人物なのではないかと思い直した。

 人の気配のない場所から足音も立てず現れたので、不意をつかれた鳥のように驚きはしたが、確かに黒い衣装で、体格からして男であり、よく見ると、足を引きずって歩いている。

 バレットの殺し屋としての嗅覚が、その男は、ただ者ではないぞと告げていた。

 ただ、相手が誰であれ、仕事は仕事だ。それに、この依頼をこなすことができれば、願ってもない報酬が待っている。念願の相手と会うことができるのだ。

 バレットはむしろ、視線の先をのっしのっしと歩くその大男の裏社会の空気すら仄めかす風格に、依頼主の企みはわからずとも、報酬の信憑性があることを悟った。

 バレットは、自分の気持ちが柄にもなく昂っているのがわかった。


 コトリという名の殺し屋——目の前で、父を殺されてから十年間、一日たりとも、その名を忘れたことはなかった。

 バレットが殺しの仕事を始めたのは、コトリとの接触をはかることができるのではと思ったことがきっかけだった。

 やつに近づくために同じ界隈で名をあげれば、仲介人や他の業者を通して情報が手に入ると思っていた。

 しかし、コトリは用心深かった。殺しの現場に痕跡は残さず、足取りは掴めない。

 そのうち消息は不明となり、すでにくたばったか、隠居暮らしでも始めたか、その詳細もわからなくなってしまった。

 街一番の情報屋である、とある書店の女店主に聞いても、二十年ほど前は裏社会でかなり名の知れた殺し屋として有名だったらしいが、ある時、ふと姿をくらませたとのことだった。

 ——十年前、父を殺したのは、コトリで間違いない。

 しかし、情報屋の話では、コトリという名の殺し屋は、二十年近く昔にすでに裏社会との関わりは絶っていて、殺しの仕事をやめていたらしい。

 ——では、十年前に父を殺したのはなぜだ?

 それを、バレットは知りたがっていた。

 復讐を果たすのは、すべてが明らかになってからだ。コトリに会って話をする機会が、今は欲しかった。この依頼をこなせば、それも叶うのだ。

 男の後を追う。

 西区の大通りに出ると、当たり前ではあるが人が多くいた。路地裏や先ほどまでいた空き家前の通りとは違い、人の行き来が激しい。

 バレットは男から数歩、距離を置き、足音を小さくしつつ、街行く人々から怪しまれないようにしながら尾行を始めた。

 依頼の内容は、男の護衛だ。

 しかし、男が何者なのか、そして何から守ればいいのかわからないので、常に周囲を警戒しておかなければならなかった。そう思うと、誰も彼もが敵に見えてくる。一見、無害そうな相手でも少し目が合うだけで身構えてしまいそうになる。

 しかも、男との接触を禁じられている以上、仮に何者かが男を襲おうとしているのならば、それを未然に防ぐ必要があるのだ。男が襲われてから助けたのでは、護衛がいるのだと男自身に悟られてしまう。どんな事情があるのかは知らないが、男に護衛のことを気づかれてはならないというのなら、その条件も守らなければならない。

 効率的ではないな、とバレットは思った。

 しかし、護衛の依頼など初めて受けたので、どんなやり方がもっとも効率がいいのかなんてわからない。しかも、依頼達成の暁には、長年、探し求めていた人物との邂逅が果たせるのだから、つい慎重になってしまう。

 この依頼だけは——コトリに繋がる手掛かりだけは、丁寧に扱うのだ。


 男の姿が見えなくなった。

 大通りからはずれた小道を選んだらしい。その先は、真っ暗な林へと続いていた。

 どこかへ向かっているようだが、目的地ははっきりとしない。この先には確か、教会跡があったはずだが、そんな場所にいったい何の用があるというのだろうか。

 男の足取りに迷いはなかった。林を抜け、開けた場所に出る。

 そこで一瞬、足を止めたかと思うと、すぐに向きを変え、灯りもなく見通しの悪い夜の林道をずんずんと進み始めた。

 やはり教会跡を目指しているらしい。かつて大きな火災が起きた、その跡地へと。

 またも、広い場所に出た。辺りは木々に囲まれている。奥に聖堂と、右手に小さな建物が見える。小屋は灯りが点いていた。人が住んでいるのだろうか。こんな寂しげな土地に住むとは変わった者もいるものだ。あるいは、あまり公にはできないような事情のある人物なのかもしれないが。

 男は何の躊躇いもなく、その小屋の中に足を踏み入れた。

 鍵は開いていたのだろうか。人が寄り付かないだろうからといって不用心だなと思った。

 まさか、ここが男の家というわけではあるまい。男が無事に帰るまで護衛してくれと、そういった依頼だったのか。

 バレットは小屋の裏へと回り込んだ。

 そこは、巨大な森に面している狭い空間だった。立ち並ぶ立派な木々の枝の先が屋根の上を覆っている。足元には短い草や落ちた葉が散らばっていて、音を立てないよう潜むには、身体を小屋にぴたりと貼り付けるしかない。少しでも動くと、近くの茂みに触れ、存在がバレてしまう。

 背中を小屋に押し当て、顔を横に向ける。

 そっと耳を澄ましてみると、中から男たちの話す声が聞こえてきた。

「ようやく、来たか」しわがれた声だった。

 ようやく?男はここで誰かと会う約束でもしていたのか。

 小屋の反対側へ回ろうと、壁に沿って移動していると、扉が現れた。

 辺りの暗さに目が慣れはじめたので、それが小屋の裏口なのだとはすぐにわかった。

 取手に手をかける。慎重に、中の人物たちの気配にも注意しながらゆっくりと引いてみるが、何か出っ張ったものに引っ掛かるような感覚があり、それ以上、扉は動かなかった。ちゃんと鍵がかかっているようだ。表の扉は開けっぱなしだったというのに、裏口の戸締りに抜かりはないらしい。

 ふうと軽く息を吐き、裏口からの侵入は諦めて、なんとか中に入る方法はないかと探る。

 最悪、入ることがてきなくてもいい。中の様子さえ伺うことができれば、それでいいのだ。

 今、小屋の中で話している相手が、男の命を狙っているのではないかという考えが、バレットの頭に巡りはじめていた。

「ようやく、来たか」と相手が発したことから察するに、今日、男がこの小屋に来ることは前もって決まっていたらしい。

 身の危険を察し、護衛を依頼したのか?

 こんな人目を避けるためにあるとしか思えない場所で誰かと会う約束をしているとは。きな臭いやつだ。

 ――その時、頭を鈍器で思い切り殴りつけられたような衝撃に襲われた。続けて、ぞわっと全身を包み込む、凍てつくほどの寒気がした。

 自分の身に何が起きたのか、瞬時には理解できなかったが、小屋の中から聞こえた声に反応して、自分は体を震わせたのだと気づいた。

「何か言い残すことはあるか」

 聞き覚えのある声だった。そして、聞き覚えのあるセリフでもある。

 十年前の記憶が脳裏に蘇る。目の前で父を殺された時の恐ろしくも忌々しい記憶。

 あの日も、同じ言葉が聞こえてきた。


 月の綺麗な夜だった。まん丸とした輝きが、空にぽつんと浮いている。寝室の窓から、明るい光が差し込んでいる。

「あんた、コトリか?」

 父が、震える声で返す。

 戸締りをしてくると寝巻きのまま寝室を出て行った父が、リビングで誰かと話をしていたのはわかった。

 その何者かと父のやり取りを、寝室の扉の陰に隠れながら聞いていた。

「昔はその名で活動していた」

 何者かが言う。腹の底にまで怪しく響く、重たい声音だった。

「今は違うと?」

「殺し屋としての私は、一度死んだ。そして、これから名乗る名もない」

 その言葉を耳にした途端、体から魂が抜けてしまった錯覚に陥った。

 どうして殺し屋がうちに来ているのだ。

 なぜ父が話をしている。父は無事なのか。

 様々な考えが巡り、まだ幼かったバレットの頭はパンクしそうになる。

「何か言い残すことはあるか」

 その重々しくも、どこか慈悲の念が感じられる声に、鳥肌が立った。

 父の身が危ない。助けよう。と、そう思ったかは覚えていないが、父が置かれている状況が知りたかった。

 そっと扉を開け、リビングの様子を覗くと、寝巻き姿の父が見えた。話し相手の姿はリビングの壁が死角になっていて見えない。

 父と目が合った。安堵か後悔かどっちとも取れる表情を浮かべ、何かを暗示するかのように一度、頷いた。

 なんだ、無事じゃないか。

 そう思った矢先、ぷしゅ、と勢いよく空気が抜けたような音が室内に響き、父の体がびくんと小さく跳ねた。

 一歩、二歩と後退り、ばたりとその場に倒れ込んだ。玄関の扉が開く音がした。それから、辺りはしんと静まり返った。

 気がつくと、バレットはリビングに入り、両手に父の亡骸を抱えていた。

 しばらく、放心状態だった。突然、目の前で起きた出来事にショックを受け、泣いていたのか、気を失っていたのか。胸の中は真っ黒な感情でいっぱいだった。

 食卓の上に置かれている銃弾を見つける。

 殺し屋の名はコトリだ。やつが父を殺したのだ。


 ガタンと小屋の中でした大きな音で、バレットは我に返る。

 ――まさか、そんなことが。

 自分はとんでもない思い違いをしていたのだということに気がついた。

 裏社会の風格すら漂わせるいでたち。人気のない場所を目指す謎に包まれた目的。殺しを行う前の例のセリフ。

 ヤマのもとに届いた依頼は男の護衛であり、報酬はコトリとの接触の機会だった。

 これまで、どれほど手を尽くしても手掛かりが掴めなかった殺し屋の情報が手に入る。つまり、依頼主も護衛対象である男も、やつの関係者だとばかり思っていたが、そうではないらしい。それこそが、思い違いだった。

 護衛している男の正体は、殺し屋コトリだ。

 扉が開く音がした。足音が一つ、小屋を出て右に折れ、教会跡にある聖堂の方面へと消えていった。

 小屋の中から人の気配がなくなったことを確認して、バレットは入り口へと回る。

 扉を開け、中に入る。

 護衛のために尾行していた男の姿はなかったが、かわりに別の男がいた。

 護衛対象の男が話をしていた相手だろう。仰向きに倒れ、目を開けたまま、じっとしていた。

 寝ているわけではあるまい。その男が死んでいるのは一目瞭然だった。

 バレットは足元に転がっている銃弾を見つけ、拾い上げた。

 間違いない。この男は、コトリに殺されたのだ。

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