第19話 山の観察者

 宮城県栗駒山山中


 私は虫が苦手である。


 初夏のある日。

 栗駒山の原生林の森の奥にある、樹齢千年以上といわれる巨木、千年クロベを目指して登山した時の出来事。


 山には先に登山客が入っているらしく、参道入り口の駐車場には早朝にも関わらず早くも何台か車が停めてある。

 天気は晴れで時折、涼やかな風も吹く森林浴には最適な日だった。

 原生林の森林の空気とブナの木々と枝葉からこぼれる陽射しを楽しみながら登っていく。


 山間の遊歩道を快調に進んでいると、遠くにベージュのサファリハットが見えた。

なにやら繁みの前で屈んでいる人がいる。

 休んでるのかな、具合悪いのかなと思いつつ歩を進めて近づくと、どうやら何かを観察しているようだった。よく見ると服装も装備も軽装で登山者とは違う。

 山でしか咲かない花もあるし、植物を観ているのかなと近づきつつ挨拶をした。

 落ち着いた雰囲気の物静かな年配の人で、ここで蝶の観察をしていたという。遊歩道を蝶を追いかけながら登ってきて、ちょうどこの繁みに入り込んだ所を探していたらしい。

 その人はしばらく繁みの奥を覗き込んでいたが蝶は見つからないようだった。

 探索を諦めたのか、見失っちゃったというと、その人は立ち上がった。そしてこちらを振り向くと、見えなかった右手に何かを持っていた。


 白くて巨大なものを握りしめていた。手の中でバタバタと羽を羽ばたかせている。生きている巨大な白い蛾だった。その人はそれを口元へ運ぶと頭を噛み千切ってむしゃむしゃ食べ始めた。


「やっぱうめえなおいッ」


 白くて巨大な蛾にかぶりついて口元と手は白い鱗粉まみれだった。


「採れたては美味いぞッ」


 その人は叫んだ。

視線は中空を漂い定まっていない。唇に蛾の体液が付いている。


 巨大な白い蛾は死んだ。


 その人の目は瞳孔が開いて爛々と耀き恍惚としている。つまり目がイッていた。

 私を見ると、あなたもどうですか?と言って噛み千切られた蛾を突き出してくる。


「いやいいです、結構です」


 そう答えると、その人は目を見開いた。


「食べてみますか?食べてみる?食べれるんですよ」


 最初に出会った時の雰囲気とは一変していた。


「世界の食卓にも上がってるんだ。とてもとても美味いんだ、これからの主食なんだよ」


 失礼しますと言うと踵を返して私は遊歩道を戻るように歩き始めた。


「食おうよ。食おう?」


 その人は私を追ってきた。


「食えるんだ。こうして食えるんだから、ねえッ」


 私は駆け出して逃げていた。背後でなにやら叫んでいる。


「ねえッ!あなたも食ってみてよ、ねえ、食べてみなよ。おいしいから、騙されたと思って。うまいからッ!非常にジューシーで美味いからッ!たんぱく質もミネラルも豊富でッ、栄養満点なんだッ 、食えよッ!身体にいいサプリメントなんだよッ 、食ってみろよッ!いい味出してんだよッ!ちょっと待ってよ…待てよオイッ、いいから食ってみろよッ、食えってばッ!なあッ!一緒に作ろうよ、ねえ、王国作ろうよ、虫の王国作ろうよォッ!」


 脇目もふらずに走り、振り向くとその人の姿は小さく見えた。だが遅い足取りで、よたよたよたよたと確実に私を追ってきている。無我夢中で闇雲に山を駆け降りて逃げた。視界に遊歩道を登ってくる老夫婦の姿が映る。この先に変な人がいるから気をつけてと声をかけると下山してすぐさま車に乗り込み、飛ぶように帰った。


 あの人に食べられた蛾はおそらくオオミズアオだと思われる。

 ヨーロッパでは月の女神とも呼ばれ、先祖の霊の使者との言い伝えがある。


 これは国連の国連食糧農業機関(FAO)が昆虫食を推奨する報告書を発表した2013年より、ずっと以前の出来事である。

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