第30話 這いまわる手

 これは心霊スポットとして噂のある場所を訪れた、一人の女性が体験した出来事です。


 その日。晴れ渡る空の下、数名の友人に連れられてSさん(仮称)は風光明媚な高原を訪れていた。

 春のぽかぽか陽気の中で自然の新鮮な空気と芽吹いた草花、遠くに見えるブナ林等の風景を楽しんでいると、友人の一人が唐突に、ちょっと行ってみたい所があるんだけどと皆に切り出したという。

 その友人が言うには、ここの近くに滝があるのでそれを見に行きたいとの事だった。


 キャンプ場が併設されている公園の駐車場に車を停め、一行が林の中の山道を散策していると、向こうのほうから滝の音が響いてくる。音のするほうへと進んでいくと赤い鳥居と赤い橋が目の前に現れた。

 この滝だよ、と友人が言う。

 えー!綺麗だねー!、こんな場所あるの知らなかった、などと皆は沸き立って、緑の木々と連なる奇岩の間を落ちる白い滝の流れを、赤い橋の上からデジカメで撮影しつつ眺めていた。


 赤い橋を渡りきると側にコンクリート製のトンネルと階段が備え付けられており、そこから滝壺の方へと降りてゆく遊歩道が整備されている。

 囲いのような短いトンネルを抜けると鳥居のような構造物があり、そこをくぐると対岸へと渡る滝見橋が架けられてある。観瀑台も兼ねたその橋の上でSさんは友人にデジカメを渡し、滝を背景に自分の姿を撮影してもらった。


 遊歩道を進むその時もSさんや友人達は滝の流れを眺めていたのだが、なんとなく何か言い知れぬものを感じていた。

 確かに流れ落ちる白い滝や清流の流れは綺麗ではある。だが、その水の印象が不気味というか、水の流れに近づくにつれて、得体の知れない気味の悪さが増していくのを感じていたという。


 滝壺を目指して遊歩道を降りていると一人の友人が、なんか臭い、と呟いた。

 そう言われると匂いが鼻に付く。何かが腐ったような匂い。その臭みが遊歩道を降りるごとに濃くなるのがわかる。水かな、と友人が言う。目の前には滝からの清流が流れ続けている。透き通った澄んだ水が滔々と流れているが、澱んで腐りきった水の匂いのような…とにかく何か腐ったような臭みがしていて一行は足を留めた。この場所を紹介した友人も下のほうへと降りてくるのは初めてなのだという。

 …帰ろっか。…そうだね。友人達がぽつぽつと呟く。水の流れを見ているとなんとなく気分が沈むようで重い雰囲気になり、下方まで降りてきて滝壺はもう目前なのだが、すぐに来た道を戻る事にしたらしい。


 遊歩道を登りきり、赤い橋の手前まで戻った時、「猫?」と誰かが呟いて、振り向くと友人の一人が、あれ猫かな?と今通ってきた方向を指差している。見るとコンクリート製のトンネル上部の辺りに、猫の形をした模様があるのにSさんは気づいた。何体もの猫の絵。染みのようにも見える。

 あんなのあったんだ…気づかなかった。なんだろう、誰か悪戯して描いたのかな。トンネルの猫の絵。だが引き返して確認する気にもなれず、駐車場まで戻ると一行はそのまま帰りの途についた。


 その帰りの車内で、何かに気づいた友人の一人が騒ぎはじめた。

 滝の画像が撮れていないという。

 撮れていても画像が荒れている、なかにはバグを起こしたゲーム画面のように乱れて撮れているものもあるという。

 ちょっと落ち着こうとその友人をなだめ、コンビニの駐車場に車を停めると皆で一応、各々のデジカメの画像を確認し始めた。

 皆一様に、滝を撮影した画像には何かしらの不具合が生じていた。ちゃんと風景として撮れているものもあるが、大半は画像が乱れて映っている。奇妙に歪んだ不自然な画像もある。互いにデジカメを交換して確認してもやはり同じような不具合が生じて滝が撮影されている。

 なかでもSさんのデジカメには何かがはっきりと映り込んでおり、それを見た皆は騒然とした。


 それは滝を背景にしたSさん自身の姿を映した画像であり、友人に撮影してもらったものだった。その撮影された滝の前で一人で立つSさんの首元付近に、白い手のようなものが映っていたという。偶然に埃かゴミでも映り込んだと思いたかったというが、それは背後から首元へ手を差し延ばすような、まるでまとわりつこうとしているような手。男の腕のようだったという。だがその日は女性のみで出掛けており、その撮影した場の側にも男性は一人もいなかった。


 ごめんね…本当にごめん…。滝に行こうと誘った友人は平謝りに謝ったという。気にしないでとSさんは皆と一緒になだめるが友人はとうとう泣きはじめてしまった。

 そのような事もあり、家に帰ってきたSさんは部屋に入るとバッグを置いて、しばらく呆然と座り込んでいた。そしてそのままころんとうたた寝をしてしまったらしい。母の夕飯に呼ぶ声で目覚めたのだという。Sさんはその夕飯の席で母から変な事を聞かされた。


「猫を飼うならば先に話しておきなさいよ。急に連れてきて飼い始めるなんて。」


 猫なんて連れてきてない、そう言い返したが、いるじゃないそこ、と言う母親が指差すほうを振り向くとドアの向こうの廊下で何か白いものが横切るのが見えた。


「あなたが連れて帰ってきたんでしょ。さっきから家の中をこそこそ動き回ってるのよ。」


 連れてきてないと何度も言い返すも信じてもらえず、もう何がなにやら解らなくなり、夕飯も途中に席を立って入浴も済ますとSさんは早々に自分の部屋に戻った。

 部屋にいると、ふと置いてあるバッグが気になったという。バッグが膨れているように見えて、手にとって中を覗くも何もなかったのだが、入っていたデジカメが目に留まった。


 あの画像が収められているデジカメ。

 もう見たくはなかったが、あの滝で撮った画像は全て消去しようと思い立ち、一つ一つ見返しながら消去していたという。

 滝の前で自身が撮られている画像。

 Sさんは再びそれを見ている時、妙な違和感を感じた。あの、映り込んだ白い手が見えない。映っていない。画像の中からそれは消えていた。異変に気づいてからしばらく眺めていたのだが、結局自身が撮られた画像も含め、滝の場所で撮ったものは全て消去したという。


 その日の夜中。物音がしてSさんは眠りから覚めた。

 目覚めたが身動きが取れず、身体がピクリとも動かない。初めての金縛りに動揺した。開けてしまった瞼も閉じる事ができなかった。眼球だけがわずかに動かせた。部屋の中で物音がする。薄暗い部屋。何かをまさぐる音が聞こえた。視界の端で何かが動いている。微かにバッグが見える。それが動いていた。怖くて目を閉じたかったが縫い付けられたかのように動かず、閉じれない。バッグから何かが這い出ている。白い手のようだった。男の白い腕が見える。べたりと床に這いつくばり、何かを探しているように這いまわる手。指を蠢かせて横たわるベッドのほうへ這いよる白い腕を見てSさんは叫んだという。だが声にならなかった。ベッドの上へ這い上がるそれは肘から引きちぎられたような男の腕だった。溢れる涙で視界がぼやける。身体の側で動いているのを感じる。指先が首筋に触れた。突き刺すような冷たさが身体を走り意識が遠くなる中、頬をなで回されてSさんは気絶したという。


 宮城県加美町に存在する荒沢の大滝。

 その場所を訪れた女性の身に起きた夜の出来事。


 その滝の側にある大滝神社は、桓武天皇の時代、蝦夷征討で東北を訪れた坂上田村麻呂の命令で建立されたと伝えられている。周辺の神社とも密接な関係があり、かつてその場所には多くの修験者が参っていたという。


 そしてこの地には雨乞いの伝説がある。

 荒沢の大滝の滝つぼに猫の死骸を投げ入れると、水神が激怒して雨を降らすとの言い伝えがあり、古来より日照りで水不足の年にはしばしば雨乞いのため、滝壺へ猫の死骸が投げ入れられていたという。


 現在は自殺の名所としても知られている。



 あの日。いつまでも起きてこない事に異変を感じた家族に起こされたSさんは身に降りかかった全ての事を話し、決して猫は連れ帰っていないと念を押した。


 それからの記憶が定かでないというが、その後、朦朧としたままパジャマの上に上着を羽織って家族に抱えられてそのまま連れられ、山間にある寺社の、祈祷所のような場所へと運ばれたらしい。

 その祓いの儀の際、聞かせられた霊視の内容を家族が話すには、Sさんは男の霊に大変気に入られてしまったのだという。

 男の霊に惚れられたのだと。

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