第21話 歯形
昭和も終わりかけの頃。
私の祖父は普段はおとなしい人なのだが、酒が入ると性格がガラリと変わるので家族はちょっと手を焼いていた。
祖母はその祖父の酒癖が嫌で何度も家を出たらしい。
私が生まれて何年も経ったある日も、祖母は家を出ていった。
その夜に起きた出来事。
ここの記憶は曖昧だが父母と弟はもう寝室で休んでおり、祖父も自室にいて、私だけ茶の間で寝転がってテレビを観ていたと思う。
夕方に小学校から帰ると祖母がどこにも見当たらず、母に行方を聞くと近くに用があって今は出かけているのだという。
私は祖母の帰りを待っていた。
だが時計の針が夜22時を回り、観ていたテレビ番組が終わっても一向に帰ってこない。
うとうとと眠気が出てきた頃。
祖父が茶の間に来て、今から祖母を迎えに行くからついてきてくれと私に言った。
今思うと孫を連れて顔を見せれば、硬化した祖母の心も和らぐと祖父は考えていたのだろう。
私はやはり帰ってこない祖母が心配になって眠気も吹き飛び、祖父の軽トラの助手席に乗り込んだ。
小さな町の道路は対向車も他の車もなく、街灯の元に軽トラを停車すると祖父は降りて歩道をうろうろしながら、祖母の名前を呼んでいた。
そしてまた軽トラに乗り込み次の場所へと移動する。
これは記憶にくっきり残っているのだけど、次に訪れたのは道路沿いの薄暗い街灯の灯りに照らされた、西洋風の石造りの建物だった。
祖父は、ここで集会とかがあるから祖母もいるに違いない、と言って軽トラを降りた。
飲酒運転は絶対厳禁なのだが、たぶんその時も祖父は少し酒に酔っていたんだと思う。
薄汚れた窓ガラス越しの建物内部は暗闇で、吸い込まれそうな暗闇で、中にひとつの灯りもない洋風の建物に向かって、ごめんください、ごめんくださいと叫ぶ祖父の姿が異様で、早く帰りたくなったのを覚えている。
私にはそれが廃墟に見えた。
「おじいちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんはそこにいないよ」
外に向かって声をあげると祖父は軽トラに乗り込んできて、おかしいなあ、いないなあ、と何度も繰り返し呟き、運転し始めた。
「帰りたい、帰りたい」
祖母はひょっとしたら家に戻ってるのではないか。
私が懇願しても祖父は聞かず、あと1ヵ所だけ寄るから、と言うと街灯のない町外れの少し小高い丘へ軽トラを走らせた。
そこは診療所の駐車場だった。
外灯はなく、ヘッドライトの灯りのみに照らされた白い平屋の診療所にはもちろん人などいない。
もう夜中だった。
祖父は軽トラを降りるとヘッドライトの灯りの中、診療所の入り口へとたどり着き、ごめんください、すいません、ごめんください、とまた始めた。
祖母も心配だったが、外をうろうろする祖父も心配で不安でなんとも言えない気持ちだった。
どうやら診療所の裏手へ捜しに廻ったらしく、ヘッドライトの灯りの中から祖父の姿が消えた。祖父も帰って来なくなるんじゃないかとふと頭によぎった。
本当に嫌な気持ちだった。
ドアガラスを少し開けると祖父の祖母を呼ぶ声が微かに聞こえ少し安堵した。
でも、呻き声がして静かになった。
なに今の…と思った瞬間、ヘッドライトに照らされた何かがこちらへ走ってくる。
足を引きずり、痛い、痛いと呻き声をあげながら変な動きで何かが来る。
それは軽トラのドアを開けると乗り込んできた。
「痛い、痛い、いてえいてえ」
そう叫んでるのは祖父だった。
私は耳をふさいで泣いていた。
蛇に咬まれたかもしれねえ、ばあちゃんもいないし帰ろう、と祖父は言うと急いで帰路についた。
玄関に入ると祖父は座り込んで靴下を脱ぎはじめ、私は涙をすすりながら救急箱を取りに奥へ向かった。
祖母は帰っていなかった。
救急箱を取って玄関へ戻ると祖父は白い手ぬぐいでしきりに右足首を拭いていた。手ぬぐいに少し血が染みている。
なんだこりゃ、と祖父が言う。
祖父の右足首にくっきりと半円型の黒血が浮き出ており、所々に血が滲んでいた。まるで噛まれたような傷。
それは人の歯形だった。
その夜の記憶はそこで途切れたままで思い出せない。
その日、祖母は親戚の家まで歩いていき、一晩泊まらせてもらっていたという。
西洋風の石造りの建物は旧い銀行の建物跡だったらしく、現在は取り壊されて現存していない。
診療所は現在も存在している。
これはその夜から何十年後に聞いた話。
診療所の裏手側は寺社の敷地と墓地につながっており、昔は旅の途中で行き倒れた人や、宿場停泊中に病死された旅人を祀る無縁仏の石塔の場所へ通じる道があったという。
あの夜に祖父が負った右足首の傷との関連性は解らない。
霊障で負った傷は治りがたいと聞いた事がある。
その祖父についた歯形のような傷は治りづらく、1ヶ月ほどかけてゆっくり消えていったのを覚えている。
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