第36話 峠の迷い家

 宮城山形を結ぶ峠にまつわる一つの話がある。


 その話の年配の女性は幼少の頃の夏、夕刻に山形の実家から家族と共に車で峠に入り、宮城の自宅へと帰路についていた。というのも、運転していた女性の父が、峠を抜けたほうが家に早く帰れると、幹線道路を使わずに山のほうへ向かったのだという。


 舗装路が途切れ、しばらく藪の生い茂る暗い山道を進んでいると、急に車が止まり「迷った」と父が言ったのを強烈に覚えていると話す。

 助手席の母が「一本道じゃなかったっけ…」と呟くので後部座席から祖母と一緒にフロントガラスの向こうを見ると、車のヘッドライトの先には藪で荒れ放題の丁字路が見える。その道幅はより狭まり、車一台がやっと通れるほどの山道だった。

 祖母が何かに気づいたのか、空が変だねと言う。


 空を見ると夕刻はとうに過ぎているのに夕陽が落ちていない。

 陽の長い夏にしてもおかしいと話していると、父が丁字路左奥のほうに灯りが見えると言う。

 見ると確かに外灯らしき光が、暗い林の奥にぽつんと灯っている。


 車は丁字路を左に入り、灯りの元へ進むと、薄暗がりの中に茅葺き屋根の一軒家が見えた。軒先に行灯?瓦斯灯のような形の物が吊るされて橙色に灯っている。


「ちょっと道を聞いてくるから」

 父はそう言うと懐中電灯を手にして車を降り、一軒家へと歩いていった。

 くぐもったセピア色の空。暗褐色の山に溶け込む茅葺き屋根の一軒家。

「こんな所あったっけ…」不穏そうな顔で母が言う。隣の祖母は目を瞑り、手の平を合わせて合掌していた。外をしばらく見渡していると、蛙も虫も一つも鳴いていない事に気づいた。


 暗がりの中を懐中電灯の灯りが駆け足で近づいてくる。

 父は車に乗り込むと無言のままギアをバックに入れ、来た山道をそろそろと戻り始めた。

 どうしたの?と聞いても父は青ざめた表情をして、後で話すと言う。

 丁字路まで戻ると車を切り返し、山を降り始めてようやく父は口を開いた。

 あの一軒家の戸口で挨拶したのだが応答が無い。ごめんくださいと戸口を開けても、中は明るいが誰もいない。

 広い土間と漆黒の板張りの、塵一つ無い綺麗な家だったという。

 猛暑の日だったのだが中はとてもひんやりと冷たい。

 何度も声をかけたが空気が死んだように無音で、人の気配が全くしない。

 家の中を眺めていると、ふと、ある事に気づいた。中を照らしている電球や灯がない。光源が見えない。黒々とした板張りがてらてら輝いている。だが灯は無い。なぜ煌々と明るいのか解らない。

 それに気づいて戸口を閉めると、家の奥のほうからケラケラ笑う女の声が幽かに聞こえ、急に嫌な予感がして寒気がしたものだから振り向かずに逃げて来たのだという。


 普通の家じゃねえ…その女性の父は何度もそう呟きながら幹線道路に戻り、その日は夜ふけに自宅へと帰りついた。

 祖母はぽつりと、あの世に迷い込んでしまったと暗い表情で呟いていた。


 祖母はあの時、父が懐中電灯を持って茅葺き屋根の一軒家へ訪ねに行こうと歩いて向かってる際、道脇の藪の中から白装束を着た何人かの人が現れ、父の後を着いて行ったのを見たという。その人達の顔は笑っていた。

 自分一人だけしか見えてないのがなんとなく解ったから、手を合わせて拝んでいたのだと。


 そのような事があり、その後も幾度も県を跨いで行き来はするのだが、峠の山道を通る事だけは一切しなくなったという。


 ただそれは幼少の頃の記憶で、そこがどの峠だったのか今は覚えていない。

 そう、年配の女性は話していた。

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